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ゲゲゲの先生へ

東京芸術祭2018芸劇オータムセレクション ゲゲゲの先生へ  2018年10月

水木しげる原案とうたい、前川知大が脚本・演出。水木作品のキャラクターを組み合わせ、ストレートにオマージュをささげた舞台だ。佐々木蔵之介はじめ芸達者が揃い、理性への疑念、理性を超えた存在への畏怖と愛情を描いて、ほんのり温かい気持ちになる秀作。割と若い女性が目立つ東京芸術劇場プレイハウス、やや後方の中央で8000円。休憩なしの1時間半。
出生率が落ち込み、妊婦は政府の管理下に置かれる平成60年。幼子から魂が抜けるという奇怪な現象も起きている。若い忠(水田航生)と妊娠中の要(水上京香)は管理を逃れ、打ち捨てられた廃村で根津(佐々木)と出会う。根津は少年時代の辛苦から魂を半分失い、花子(松雪泰子)、おばば(白石加代子)、豆蔵(森下創)に拾われて半妖怪となった。子供が減るとともに妖怪たちも姿を消し、十年の間まどろんでいたが、都市に出現した怪物騒動に巻き込まれて…
冒頭で、水木の過酷な従軍体験をさらっと描く。「エライ人」は頭がよく徳もあるはずなのに、救いようなく誤り、残酷になりうる。だったらエライ人の言うことなんか聞かずに、マイペースで生きればいいじゃないか。
水木を象徴する、佐々木の飄々と人をくった個性が秀逸だ。圧倒的な虚無と愛嬌が同居する。カネなんか不要な半妖怪となっても、手癖の悪さは治らず、なにかというと肘をついて自堕落に寝そべっちゃう。自由だなあ。
美しい松雪、存在自体が妖怪じみている白石が、チャーミングでいいバランスだ。要の父=権力者などに曲者の手塚とおる、子を奪われ怪物コケカとなった母に破壊力抜群の池谷のぶえ。さらにイキウメの浜田信也、盛隆二、森下創、大窪人衛が脇を固める。
都市と田舎の対比など、昭和な雰囲気が郷愁を誘う。上手にパーカッションを配し、障子の動きなどでシーンを転換していく美術は深尾幸男。

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魔笛

魔笛  2018年10月

新国立劇場2018/2019シーズン開幕公演は、大野和士芸術監督就任第一作で、モーツァルトの軽快ファンタジー。話題の南ア出身・現代芸術家ウィリアム・ケントリッジの演出は、黒板に手書きしたようなスケッチや製図のプロジェクションマッピングが全編を彩る。世界各地で評判だそうです。
このプロダクションのスカラ座公演を手がけたローラント・ベーアが指揮し、東京フィルで。歌手は海外若手と日本人の組み合わせで、まあまあかな。財界人も目立つオペラハウス通路前中央のいい席で2万4300円。休憩を挟み3時間。
歌手陣はパパゲーノのアンドレ・シュエン(ザルツブルク音楽祭出身の長身バリトン)が明るく、パパゲーナの九嶋香奈枝(昨年のジークフリートなどでお馴染みのソプラノ)と芝居心ある二重唱などを聴かせる。ザラストロのサヴァ・ヴェミッチ(セルビアのバス)は祈りのアリアなどが雄弁だ。女声ではパミーナの林正子(フランス在住のソプラノ)が健闘し、ビジュアルも可愛らしい。
主役タミーノのスティーヴ・ダヴィスリムはマレーシア生まれ、オーストラリア育ちのテノール。愛嬌があるけど、この日はちょっと迫力不足だったかな。夜の女王は2009年にもこの役を聴いた安井陽子が、3月のホフマン物語に続いて超高温のコロラトゥーラを披露。
演出は温かい絵本のような味わいながら、理性の勝利を印象づける。世俗的な快楽主義と、試練に身を投じる啓蒙主義が交錯する作品を、さらに複雑に。耳馴染みのある明るい音楽に、安心してちゃいけない、という感じでした。

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華氏451度

KAAT神奈川芸術劇場プロデュース「華氏451度」  2018年10月

レイ・ブラッドベリのSFを原作に、長塚圭史が上演台本を手がけ、白井晃が演出する強力タッグ。期待通り、生きた思考というものをスタイリッシュに描いて、感動的だった。演劇好きが集まった感じのKAATホール、通路に面した中央のいい席で7000円。休憩なしの約2時間。
書物の所持が禁じられた近未来(華氏451度は紙が燃え上がる温度だ)。モンターグ(吉沢悠)は本を摘発して燃やす仕事に満足していたが、大人びた隣の少女クラリス(美波)や、毅然と蔵書に殉じた老女(草村礼子)との出会いを機に疑念を抱き、こっそり本を読み始める。妻ミルドレット(美波が2役)との軋轢、上司ベイティー隊長(吹越満)の追及でついに逃亡の身となるが、実直な元大学教授フェーバー(堀部圭亮)に助けられ、老人グレンジャー(吹越が2役)ら抵抗組織の面々と出会う…
原作の発表は1953年。思想統制のディストピアというより、テレビ・ラジオへの耽溺と思考停止が主題となっており、そのまま現代のSNS中毒に通じる。CMのリフレインに心を奪われたモンターグは、愛する妻と出会った場所の記憶さえ、もう曖昧だ。この社会を望んだのは一部の権力者なんかではなく、無自覚に精神の安楽を選ぶ人々自身。作家の鋭い先見性に驚く。
この物語における名著とは、守るべき教養というイメージではない。人が能動的に読み、自らの頭で咀嚼し反芻することで、バーチャルを超えた実態となる存在だ。まさに肉体の芸術である舞台だからこそか、終盤、思考と記憶の集積の愛おしさが、胸に迫ってくる。
観念的になりがちな話だけど、演出がとても洒落ていて、お説教ぽくない。シンプルなセットがまず秀逸。背の高い書棚が三方を囲み、映像で色とりどりの背表紙や液晶画面を表現する。書棚を床から1メートルほど浮かせて圧迫感を薄めたそうです(美術は建築家の木津潤平)。床に散乱していく白い書物は、モンターグが逃げる川の飛沫や、グレンジャーらへと導く線路に変じる。俳優たちは素早く衣装を替えつつ複数の役を演じ、セリフがないときも舞台端でシーンを見つめて存在感を示す。そして大きな満月の静謐、舞台奥にたたずむ鹿の神秘…
セリフに古典の引用が多い吹越が、抜群の説得力だ。隊長としてモンターグの変心を見抜き、「ダイジェスト社会」の本質を語る。後半ではプラトンを自認する知識人として、進むべき道を示す。出ずっぱりの吉沢も、不安定でひたむきで、いい年のとり方をしてる。もう40歳なんですねえ。美波は妻、クラリスという対照的な女性をうまく演じ分け、さらには可愛い鹿役も! ほかに文学座の粟野史浩、さいたまネクストシアター出身の土井ケイト。

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書を捨てよ町へ出よう

RooTS Series『書を捨てよ町へ出よう』 寺山修司没後35年記念  2018年10月
60、70年代のアングラ演劇に若手が挑むシリーズ。寺山修司の初期作をベースに、気鋭の藤田貴大が上演台本・演出を手がけて話題になった2015年の舞台の再演だ。
原作は評論集を元に、68年に初演。タイトルは耳にしていたものの、勉強不足で内容についての知識はなかった。71年ATG映画での出演者といえば、東京キッドブラザース、
美輪明宏、下田逸郎… そんな時代背景を、1985年生まれの藤田がよく勉強しました、という感じか。老若男女、幅広い演劇好きが集まった東京芸術劇場シアターイースト、前から2列め中央のいい席で4800円。休憩なしの2時間強。
物語は青年わたし(佐藤緋美)の、無為でとりとめない日常だ。万引き癖のあるばあさん(小柄な召田実子)、以前は屋台をひいていたアル中のおやじ(中島広隆)、兎だけが話し相手の妹せつこ(お馴染み青柳いづみ)との、先のない暮らし。高田馬場にある大学にもぐり込み、サッカー部主将おうみ(お馴染み尾野島慎太朗)に憧れるものの、その人格は荒れていて…
短歌のリズムや母への拘泥など、通底する要素はあるものの、やはり若手の藤田にとって、寺山の露悪的なヒッピー文化やヒリつくコンプレックスのようなものを伝えるのは難しそう。冒頭、解剖シーンからカメラ、映像を多用し、川崎ゆり子がハンドマイクでハキハキと懇切に、作家の狙いを説明する(おうみの恋人れいこ役も)。加えて映像では歌人・穂村弘、又吉直樹、詩人・佐々木英明(映画「書を捨てよ…」主演)も登場。なんと後半には脈絡なく、ダーツで又吉作コントを演じて笑わせる(この日はオオカミコント)。いろいろ工夫してます。
俳優たちが工事用の足場(イントレ)を組み立て、組み替えていくお得意の精密な動きは、かなり面白い。出演者が髙いところを歩くと、不安定で目が離せないし、最後は音をたててバラバラになっちゃう。銃乱射にいたる若い魂の荒廃。ほかに寺山が舞台に取り入れたという、セピア効果があるナトリウムランプや、山本達久によるドラム演奏もあって盛りだくさん。
初舞台の佐藤は浅野忠信・Chara夫妻の長男で、1999年生まれのまだ18歳。クルクルの髪が愛らしいけど、最近見た2世の若手たち、宮沢氷魚(1994生まれ)や村上虹郎(1997生まれ)と比べるとこれからかな~ 青柳がいつもながらの透明感を示しつつも、色気が増した印象だ。小柄で映像担当の召田は、ちょっと樹木希林を彷彿とさせる怪演でした。

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