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ヘッダ・ガブラー

シス・カンパニー公演 ヘッダ・ガブラー  2018年4月

1891年初演、イプセンによる大人の会話劇を、徐賀世子が翻訳、栗山民也が手堅く演出。個性的な登場人物たちは本音を隠しつつも、それぞれの焦燥、矛盾がぶつかり合って、現代に通じる面白さだ。俳優陣は手練揃い、スリルと乾いた笑いもたっぷり。幅広い演劇好きが集まった感じのBunkamuraシアターコクーン、前のほう下手端で9000円。休憩を挟んで2時間半。

亡き将軍の娘ヘッダ(寺島しのぶ)は半年もの新婚旅行を終え、新居で暮らし始める。夫イェルゲン(小日向文世)はヘッダを崇拝し、学者としても教授に昇格しそうなんだけど、マザコンならぬ叔母コンで子供っぽく、滑稽。当たり散らしてばかりのヘッダに、思わせぶりのブラック判事(段田安則)が、いやらしく言い寄る。
そこへ才能ある学者エイレルトを追いかけ、田舎で後妻におさまっていたはずのテア(水野美紀)が家出してくる。朴訥なのに大胆。続いて無頼漢エイレルト(池田成志)が久々に姿を現し、かつて恋仲だったヘッダの心中は激しく波立つ。男たちとパーティーに出かけたエイレルトが、酒癖の悪さから再起を決定づけるはずの論文をなくしてしまったことで、悲劇へとなだれ込んでいく。

人物たちは戯画的なまでにくっきりした造形だが、その心理は一筋縄でない。特に誇り高いヘッダは終始イライラして、「人の運命を変えてみたい」と口走る。残酷にもエイレルトの大切な論文を燃やしちゃうのは、ぱっとしないテアがエイレルトの学問的パートナーになったことへの嫉妬ゆえ。エイレルトがありえない無様な破滅をとげた後、実は学問的価値に忠実なイェルゲンが、よりによってテアと協力し、生き生きと論文を復元する姿をみて、追い詰められてしまう。多くを手にしているのに、実感だけがもてない自己の、絶望的な憐れさ。

近代演劇の父・イプセンというと、勝手に封建社会での女性の自立、という先入観があったけど、どうしてヘッダは自立どころではない。子供もろとも自滅、という暗示さえあり、悪女には見えない。前向きでないと社会に存在しえないなら、それもまた閉塞。ほかの人物それぞれにも不合理があり、いろんな解釈ができそう。2014年の「幽霊」ではいまいちピンとこなかったんだけど、ノルウェー恐るべし、だ。

そろってよく働いている俳優陣が、期待通り力量を発揮。小日向の口癖「ビックリだね」が耳につき、激しく動く寺島はすらりとした細身にガウンが似合う。当初キャスティングされたという噂の、宮沢りえ版も観てみたいかな。終始裏のあるブラック判事のラスト「God, people don't do such things.」が観る者にひっかかりを残す。 
お馴染み二村周作の美術は、居間のワンセット。端正な縦のラインを強調し、官能的な深紅のソファーと、人物の陰や炎が不安をかきたてる。中央奥の高い位置に、将軍の肖像がずっと睨みをきかせ、バックのピアノも効果的。充実してました~

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