国民の映画
パルコ・プロデュース公演 国民の映画 2011年4月
作・演出三谷幸喜。パルコ劇場の前の方左寄りで9000円。観客は年齢、男女とも幅広い。
設定は1941年秋、ベルリン郊外。ゲッペルスの招きに応じて集まった映画人たちと、招かれざるナチスの要人とが過ごす一夜の物語だ。
これでもかという豪華キャストで、15分の休憩を挟みたっぷり3時間。荻野清子のピアノにのせて歌あり踊りあり、笑いあり。とはいえ、芸達者たちが見事に演じれば演じるほど、物語の重さ、もやもやが高まる感じがした。
何よりもゲッペルス(小日向文世)の人物像が複雑だ。表の顔はヒトラーの片腕として、厳しい検閲を遂行する傲慢な宣伝相。しかし無類の映画好きという点はけっこう無邪気で、チャップリンに傾倒し、「風と共に去りぬ」に憧れている。ゲーリング(ふとっちょの白井晃が印象的)との奇妙な友情もある。彼はホームパーティーに足を運んだ最高の俳優、スタッフを結集し、理想のエンタテインメントをつくりたいと熱望している。
一方の監督や俳優たち(シルビア・グラブ、新妻聖子、小林勝也、風間杜夫ら)は、大作に参画したいという思惑をもち、様々な形で権力に対して妥協を重ねている。一つひとつの妥協は小さいことだ。何かを形にして発表しようとする限り、時代の権力に決定的に逆らうことなんかできない。
けれど、やがてその妥協が信じられない大きな過ちにつながると気づいたとき、表現者たちにいったい何ができるのか? 芸術を愛するのは自由だが、芸術には愛されないだろうーー。若々しい反骨の作家でありながら、ゲッペルスに協力したケストナー(今井朋彦)の存在が、やりきれなさを際立たせる。
冒頭はゲッペルスと、控えめで博識な執事フリッツ(小林隆が端正に)との2人のシーン。賑やかなパーティーを経て、客たちが次々に屋敷を去ると、幕切れはまた2人だけのシーンになって余韻を残す。二人の関係は決定的に変質しているのだけど。
大階段のある広間のワンセットというシンプルな舞台。ほかにヒムラーの段田安則、ゲッペルスの妻に石田ゆり子と役者が揃い、周到な笑いや存在感がてんこ盛りだ。大詰めで地震が起き、今という現実を感じつつの、緊張感ある舞台でした。
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