July 31, 2024

台湾海峡一九四九

十七歳になっていた張玉法の兄は、弟の体をぐっと引き寄せて言った。ここで別れよう。二人とも南へ向かったら、同じ運命をたどるだけだ。万が一、二人ともダメだったら両親は「希望を失う」。だからここで運命を分けて両方に賭けよう。オレは北へ行く。お前は南へ行け。

「台湾海峡一九四九」龍應台著(白水社)

2022年共産党大会あたりから、ワイドショーでも台湾有事が取り沙汰されるけれど、いったい私たちは台湾の何を知っているのか。父は元国民党憲兵で、1952年高雄市生まれの作家が2009年に、国民党軍と民間人ざっと200万が台湾に渡った1949年の群像を生々しく描く。日中戦争と国共内戦という国家の暴虐が庶民に強いた、あらゆる苦難が壮絶すぎて、ただただ言葉を失う。訳知り顔の分析や諦念を吹き飛ばす、1人ひとりの物語が重い。

著者はベストセラー作家で、米国で博士号をとり、1980年代後半にドイツに移住して現地で結婚、のち離婚。2012年には文化省の初代大臣に就くなど、その知性は強靱で立体的だ。日本語版の序文で、本書は文学であって歴史書ではない、文学だけが魂に触れることができると記し、膨大な史料とインタビューから、それぞれの忘れられないワンシーンを構築していく。例えば著者の父。15歳の時、18歳と偽って貧しい農村から憲兵について行った。母が握らせた、布靴の底。漁師は船で1時間の対岸に昆布などを売りに行って封鎖に遭い、島へ帰れなくなった。

大陸と島に分かたれた家族の物語だけではない。ベトナムの劣悪な捕虜収容所、香港に逃れ悪魔山に収容された2万人もの難民… 無名の庶民、中国語圏の作家らに混じって、クアンタコンピュータの創業者や、李登輝が登場して不意を突かれる。

凄まじいのは1948年、ソ連の統治を経て国民党軍が接収した長春での、共産党軍の包囲戦だ。餓死者は十万とも三十万ともいわれる。しかし無血開城以外、独ソ戦のレニングラードのように描かれることなく、今は長春市民もさして当時を知らない。さらに台湾人の過酷な運命にも愕然とする。のどかな南部の先住民が1942年、日本軍に志願。南方の悲惨な捕虜収容所の監視につき、戦犯として長く服役する。今もボルネオ司令官だった日本人の額「日々是好日」を持っているのだ。

巻末に2011年民国百年増訂版を収録、天野健太郎の訳者あとがきの日付は2012年。(2023/7)

September 24, 2023

悪童日記

ぼくらが記述するのは、あるがままの事物、ぼくらが見たこと、ぼくらが聞いたこと、ぼくらが実行したこと、でなければならない。

「悪童日記」アゴタ・クリストフ著(ハヤカワepi文庫)

270ページほどの文庫本に、度しがたい戦争の不条理、人間の醜さが詰まっている。壮絶な貧困、むき出しの欲望、孤絶と死。目を背けたいけど、背けてはならないものが、徹底して乾いた文章で綴られて鮮烈だ。随分前から気になっていた小説。このタイミングで読んで、余計に重い。

形式は、双子の少年がこっそり書いていた作文だ。戦時下、二人は〈大きな町〉を逃れ、〈小さな町〉の外れに住む祖母の家に預けられる。祖母は愛情のかけらもなく、文盲で不潔で吝嗇。環境は想像を超える劣悪さだ。双子はお互いだけを頼りに盗みも暴力も、手段を選ばずサバイブし、それをありのまま淡々と綴っていく。狡猾で、全く可愛げはない。

仏文学者・堀茂樹の訳注によると、二次大戦時のハンガリー・クーセグが念頭にあるという。オーストリア国境に位置し、ナチスドイツ支配下。男たちは戦線へ動員され、ユダヤ人が収容所へ引き立てられていく。終盤で〈解放者たち〉がやってくるが、それはソ連軍であり、支配が全体主義から全体主義へと移行するだけ。

著者は少女時代にクーセグで暮らし、1956年のハンガリー動乱で活動家の夫、乳飲み子とスイスへ亡命したという。個人的には、かつて観光でブダペストを訪れたとき、動乱で処刑されたナジ首相の像に衝撃を受けたことを思い出す。多くの観光客が訪れる国会議事堂近くに立ち、気のせいか哀しげに議事堂のほうを見つめていて、なんと足下には戦車の轍。この像が2019年に移設されたというニュースに接したとき、また暗い気持ちになった。
そして今。国境を接するウクライナへのロシア侵攻で、ハンガリー現政権はEUやNATOの加盟国でありながら、制裁に反対するなど親ロシアの立場をとる。オスマン帝国やハプスブルク帝国の支配も受けてきた中欧の、一筋縄でいかない歴史の重みと、進行中の現在。たまたま居合わせた個人の人生が、なんと過酷なことか。

そう考えていくと、この小説で双子が学問や宗教はおろか、親の愛さえきっぱりと否定する幕切れには圧倒されるけれど、どこか爽快でもある。生ぬるい同情や善悪をはるかに超えて、凜と立つ一個の生命。続編があるというけれど、この唐突なラストが、いい。
1986年、著者による初の小説で、翻訳は1991年刊行。今だからこそ、多くの人に読んでほしいと思う。(2023.9)

April 12, 2023

三体Ⅲ 死神永生 

人類世界がきみを選んだのは、つまり、生命その他すべてに愛情をもって接することを選んだということなんだよ。たとえそのためにどんなに大きな代償を支払うとしてもね。

「三体Ⅲ 死神永生 上・下」劉慈欣著(早川書房)

ヒットSF「地球往事」3部作の完結編をついに。2作目のほうが面白いという評価を聞いていたけど、なかなかどうして。殲滅戦の絶望感など、二作目を超えるスケールだ。
未曾有の危機に直面して地球文明がどんな生き残り戦略を試みるかは、現代社会にも当てはまるシミュレーションのようで、相変わらず知的、かつ空恐ろしい。巨視的な舞台設定と、これでもかと詰め込んだ理解を超える情報量。でも結局は、大切な人を救いたいという一個人の思いが、運命を決定づけていく。ロマンティックで、それでいて砂漠に吹く風のような、空しく哀しいお話でした~

物語は2作目ラスト、「暗黒森林理論」で三体文明と人類の間に緊張緩和(デタント)が構築された時代から始まる。しかし「執剣者(ソードホルダー)」に抜擢されたヒロインのエンジニア、程心(チェン・シン)は核のボタンを押せず、均衡が崩壊。さらに他文明からの攻撃であんなに強かった三体文明はあえなく散り散り、同様に太陽系も絶滅の危機に瀕する。

大混乱のなか、人類が試みる3つの生き残り策が秀逸だ。「掩体計画(バンカー・プロジェクト)」は巨大惑星の陰に移住して、攻撃による太陽爆発から逃れる。「光速宇宙船プロジェクト」は飛躍的な航空技術の進化を成し遂げて、太陽系を脱出し、生き延びる。そして「暗黒領域計画(ブラック・ドメイン・プロジェクト)」はなんと太陽系まるごと「低光速ブラックホール」に引きこもり、全宇宙に対して我々は攻撃なんてできない、無害な存在だと明示する。いわば自ら武器を捨て、同時に文明も現世的幸せも放棄しちゃう。うーん、なんだか現代の紛争でもでてきそうな発想です。

そして他文明からの攻撃は、思いもかけない形で襲来する。2作目の「水滴」の凶暴さにもまいったけど、今回はもっと凄まじい。なにせ「次元攻撃」。なにそれ。見た目はなんと、漆黒の宇宙空間を漂う一枚の紙(長方形膜状物体)! もたらされる圧倒的な滑落と、人類のなすすべなさたるや。「水滴」の先に、まだこんな終末が待ち受けていたとは。

そこから先がぐっと難しくなるんだけど、まさかの羅輯(ルオジー)が人類最後の墓守として再登場。「石に字を彫る」と語るあたりで、中国4000年の深みにひりひりする。なにせ「詩経」だもんなあ。太陽系崩潰のとき、さいはてに舞う雪。故郷は一幅の絵になってしまう。ゴッホの名画「星月夜」のエピソードがまた、効いてます。
そしてヒロインがたどり着く、宇宙の真実。万物がゼロに戻っちゃう、これ以上無い空疎な心に、小さな希望が灯る。個人的にはここまで読んできて、あんまりすっきりはしなかったけど、切ない読後感は悪くなかったかも。

登場人物は相変わらず魅力的。程心は初め男性の設定だったのを、編集者のリクエストで女性にしたとか。正しいゆえに数々の過ちをおかし、激しい後悔に襲われながらも、生きて責任を果たす。「それでも、わたしは人間性を選ぶ」。女性だからこそ、しぶといキャラクターが際立った。
そしてなんといっても、「階梯計画」に選ばれる冴えないコミュ障男・雲天明(ユン・ティエンミン)の、時空を超えた片思いが泣かせます。憧れの女性に星をひとつプレゼントして、再会を約束するなんて、直球すぎ! 
程心の相棒・艾AA(あい・えいえい)のチャキチャキ感、問答無用の武闘派トマス・ウェイドも印象的だ。「俺によこせ、すべてを」だもんなあ。三体から乗り込んできた、何でもお見通しの智子(ソフォン)が、なぜか女性型ロボット「智子(ともこ)」になって忍者のコスプレでお茶をたてるのは、違和感満載だったけど。
大森望、光吉さくら、ワン・チャイ、泊功訳。(2023・4)

December 11, 2022

われら闇より天を見る

「きみはお母さんにそっくりだな」
「だまされちゃだめ」
男に見つめられてダッチェスは自転車をちょっとバックさせ、髪につけた小さなリボンをいじった。
「それは世をあざむく仮の姿。ただの女の子に見えるけど、ちがうんだから」

「われら闇より天を見る」クリス・ウィタカー著(早川書房)

2021英国推理作家協会賞ゴールド・ダガー賞、そして2022「このミステリーがすごい!」はじめ年末ミステリランキングで三冠を獲得した人間ドラマだ。辛い境遇に立ち向かう13歳、自称「無法者」ダッチェスの健気さが、500ページをぐいぐいと引っ張る。彼女は泣いたことがない。なぜって天使のような弟を守っているから。傷つけられたとき、瞬間沸騰する怒りと反撃、その哀しさ。応援したくてたまらなくなる。

舞台はカリフォルニアの海辺の町ケープ・ヘイヴン。誠実な警察署長ウォーカーは、酒に溺れる幼なじみスターと2人の幼い子供をいつも気にかけているが、彼らの心には30年前の不幸な事件が、今なお影を落としている。そこへ事件の加害者、親友ヴィンセントが刑期を終えて舞い戻り、新たな事件が… 波の浸食で空き家が崩れ落ちるエピソードが、不吉な予感をかきたてる。
人間関係の閉塞や悲劇がジョン・ハートを思わせるなあ、と思って、巻末の解説を読んだら、著者はまさにハートに出会って作家に転身しちゃったとのことで、納得。

登場人物がそれぞれ闇を抱えていて、正直こんがらがっちゃうんだけど、中盤にダッチェスが移り住むモンタナの大自然が素晴らしく、ぱあっと視界が開ける思いだ。ダッチェスは少しずつ、本当に少しずつ、心をほどいていく。なけなしの勇気をかき集めて彼女をダンスに誘うトマス・ノーブル、頑張れ!

それでも人生は残酷だ。後半200ページは怒濤の展開。ダッチェスが地獄への道行きの途中、うらぶれたバーで「明日に架ける橋」を歌うシーンが、映画のワンシーンのように切なく、胸に残る。

巻末の川出正樹の解説を読むと、著者の人生がまたドラマチックだ。大学進学をしくじり、PTSDを病み、金融トレーダーで大損、からの作家として成功って…。鈴木恵訳。(2022.12)

 

February 27, 2022

ケルト人の夢

ジョージ・バーナード・ショーが、そこにいたすべてのアイルランド・ナショナリストに向かって言い放った、胸に突き刺さる皮肉な言葉を思い出した。《それは互いに相容れないものだよ、アリス。間違ってはならない。愛国主義は宗教なんだ。正気とは両立しない。それは単なる反啓蒙主義、信仰という行為さ》

「ケルト人の夢」マリオ・バルガス=リョサ著(岩波書店)

ペルー出身の著者による、2010年ノーベル文学賞受賞後第一作の邦訳。ドラマチックでぐいぐい引き込まれるものの、500ページにわたる全編の内容は実に重い。繰り返される人類の残虐行為、それに対抗して尊厳を求める者が味わう過酷。新聞を開けば高らかにSDGsを唱える特集の一方で、戦争の暴力を目の当たりにする今だからこそ、鋭く胸に刺さる。
1916年、ロンドンの刑務所で刻々と死刑執行が迫るロジャー・ケイスメントが、来し方を回想する物語。実在する人物の評伝ではあるけれど、フィクションならではの、人間の業に対する多面的な洞察が圧巻だ。

そもそもロジャーの生涯が世界スケールなうえ、複雑このうえない。アイルランドのプロテスタント家庭に生まれ、「未開人をキリスト教と自由貿易で文明化する」理想を抱いて、大英帝国の外交官となる。赴任したコンゴ、続いてペルーで、ゴム採取業者の先住民に対する強制労働と残虐行為の実態に直面し、理想は瓦解。その人道上の罪を国際社会に告発して名士となり、王室からナイトの称号まで受ける。いわば、ひとりアムネスティ。しかし、やがて自らの故郷こそ、アフリカや南米と同じ植民地として長年、英国に支配・抑圧されてきたとの思いを強くし、ついにはアイルランド独立闘争に身を投じて、反逆罪で絞首刑となってしまう。

コンゴとペルーでこれでもかと、ロジャーが目にする地獄絵図は、正視に耐えない。かつてキューバの観光案内に、先住民は絶滅しましたと、さらりと書いてあって驚愕したのを思い出した。ロジャーが監督責任を問いかける、コンゴ公安軍大尉の言葉がすさまじい。いわく過重なゴム採取の割り当てを定めたのは本国ベルギーの役人と会社重役であり、制度を変えるのは裁判官や政治家の仕事、我々現場の軍人もまた被害者だ…。絶望的な罪の構図。
厳しい環境で悲惨な現実を記録し続け、ロジャーは心身ともにぼろぼろになっていく。だからこそ、アマゾンを発つ船旅で満月の夜、南国の美しい光景に涙するシーンが胸に染みる。

英国文化人サロンでのマーク・トゥエイン、コナン・ドイルといった華やかな交流もあるが、終盤で外務省を辞しアイルランドに戻ってから、その運命はさらに苛烈、かつ皮肉なものになっていく。ロジャーは一次大戦中、英国の敵ドイツに渡り、独立への支援をとりつけようと工作。しかし闘争を急ぐ仲間から孤立していき、イースター蜂起の計画すら知らされない。蜂起が挫折して逮捕されると、ドイツと結んだことで英国知識層の友人たちも離反。名士であったからなおさら、ゲイの暴露がスキャンダルとなる。ピュアに理想を追っていたはずなのに、いったいどこで道を誤ってしまったのか。

北アイルランドでは今も南北統一派と親英派の対立が続く。「夢」という書名からして、ある民族・文化が自立することの困難を、冷徹に表している。それを理屈でなく、ひとりの異端者に象徴させる、小説の力が見事だ。ロジャーは決して英雄ではないし、失敗だらけで弱々しく、恋人に裏切られたりして、時に滑稽ですらある。だからこそ、人間という存在そのものの哀しさが際立つ。あえて主人公の肖像写真を収録していないのも、虚構がもつ普遍性を思わせる。

ちなみにアマゾンのゴム業者が破綻する原因として、ロジャーの告発が引き金となった不買運動や融資引き上げだけでなく、新興のアジア産との競争にも触れている。英国人ウィッカムがブラジルから持ち出した種子が、マレー半島で一大産地を形成したという。著者の知性はなんと強靱なことか。野谷文昭著。(2022・2)

December 19, 2021

「グレート・ギャツビー」を追え

きつい一日があったようなときには、僕はときどきこっそりここに降りてくる。そして鍵をかけて閉じこもり、本を引っ張り出すんだ。そして想像してみる。一九五一年にJ・D・サリンジャーであるというのは、どういうことだったんだろうってね。

「『グレート・ギャツビー』を追え」ジョン・グリシャム著(中央公論新社)

法廷もののヒットメーカーが意外にも、稀覯本取引をめぐるサスペンスを執筆、なんと村上春樹が翻訳。400ページをするする読めて楽しい。ハルキマジックもあると思うけど、後書きで訳者自身が「いったん読みだしたら止まらなくなった」と書いているから、掛け値無しなんだろう。

いきなりオープニングの疾走感、プリンストン大学から大胆不敵にも、フィッツジェラルドの直筆原稿が強奪されるくだりで引き込まれる。お約束、終盤の盛り上がりも期待通りで、コレクターと警察の息詰まる攻防は、スピーディーでスリル満点、かつ国境をまたいでスケールが大きい。そのままトム・クルーズに映画化してもらいたい。
もうひとつの大きな魅力は、美しいフロリダ・カミノ島で書店を営むブルース・ケーブルの人物造形だ。リッチで知的で圧倒的人たらし、本と小説家コミュニティーと女性たち(!)をこよなく愛する。こっちはブラピのイメージか。なにせ巧いです。

メーンの題材は稀覯本取引の、知られざる世界。大好きな出久根達郎さん著書に「作家の値段」というものがあって、文学的価値はもちろん重要だけれど、古書という資産としての価値も、十分ドラマチックなんだよなあ。出版ビジネスの事情も興味深い。著者による書店サイン会ツアーの悲喜こもごもとか。
ブルースが主人公の続編も出ているという。期待。(2021年12月)

August 22, 2021

オリーヴ・キタリッジの生活

長いこと聞き慣れた妻の声だ。こうして二人で笑っていると、愛と安らぎと痛みが、避けた破片のように身体を刺し貫いた。

「オリーヴ・キタリッジの生活」エリザベス・ストラウト著(早川epi文庫)

一番大切に思う夫や一人息子とうまくやれずに、なぜ通りすがりの人に優しくしちゃうんだろう。アメリカ北東端メイン州の、さえない海辺の町クロスビー。田舎町に長く住む住民たちは皆ごく平凡なんだけど、実は心の内に、どうしようもない情熱や裏切りや諦念を抱えている。2008年発表、ピュリッツァー賞を得た連作短編集。

なにせ狭い町だから、短編ごとの登場人物は少しずつ重なる。複数の主役、それ以外も脇役で顔を出す表題のオリーヴの造形が、特に秀逸だ。スコットランド系の大柄な数学教師。とにかく愛想ってものがなく、ずけずけものを言うので周囲に疎まれがちで、読んでいて切なくなるほど。はるばるニューヨークへ息子家族を訪ねる「セキュリティ」の顛末が、特に辛い。こういう悲しくなる話を、寝る前に読んじゃいけない。

胸に迫る細部は、作家の鋭く容赦ない視線があればこそ。自宅のダイニングとか、帰り道の車の中とか、地味な日常の会話から、ふと立ち上がる激情が鮮やか過ぎます。なんてことない日常から、どんな無鉄砲も事件事故も起きりうる。そして辛くても切なくても、自らの選択であることだけは、間違いない。

視線はシニカルながら、どこかとぼけた味もあって、ニヤッとさせる。老境にさしかかった夫婦の会話。夫「きょうの夕食は何かな」、不機嫌な妻「イチゴ」。やれやれだ。なにかというとダンキンドーナッツが登場するし。

小川高義訳。2010年の邦訳が話題となり、2012年に文庫化。文庫解説の井上荒野をはじめ、多くの読書家が絶賛。鴻巣友季子は「ダブリナーズ」を彷彿とさせるとも。(2021・8)

May 23, 2021

三体Ⅱ 黒暗森林

宇宙文明の公理が誕生したこのとき、はるか彼方のあの世界は、固唾を呑んで一部始終を聞いていた。

「三体Ⅱ 黒暗森林 上・下」劉慈欣著(早川書房)

ヒットSF「地球往事」3部作の2作目。1作目をはるかに超える壮大さで、数光年の彼方から刻々と迫りくる「三体文明」との、手に汗握る終末決戦、そして人類の選択を描く。その時空を超えるイマジネーションに、まずは圧倒される。
なにしろ人工冬眠によって、登場人物は世紀をまたいで生きる。巨額の軍事費や異常気象で、人類は世界人口がなんと半減以下に落ち込んじゃう、恐ろしい「大峡谷時代」を経験する。さらにたった一機の美しい三体探査機「水滴」が、完膚なきまでに人類の希望たる大宇宙艦隊を粉砕する。映像的なスケールも絶望感も、半端ない。

知的情報量は、三体文明とのファーストコンタクトを描いた前作以上。全宇宙の謎「フェルミのパラドックス」だの、物理学ネタ(核融合エネルギーその他)だの軍事ネタ(特攻隊も!)だの、何が何だか正直、全く消化できない。これがエンタメとして成立してるだから、その力業に舌を巻く。
ひとりの社会学者、どっちかというと覇気のない、女たらしの羅輯(ルオ・ジー)がすべての鍵を握る。なんという娯楽性! 1作目に続いて登場、はぐれ警官の史強(シー・チアン=大史ダーシー)とのコンビは、まるで海外刑事ドラマで痛快だし。思索と果断の人・章北海(ジャン・ベイハイ)や、知性と誠意の人・丁儀(ディン・イー)も魅力的だ。

なによりツボなのは、「危機に瀕した際の選択」というテーマが、SFどころじゃなく実に現実的だってこと。露わになる集団心理や制度のカベについて、決してくだくだ論ぜず、クールかつさらっと指摘していて、ドキリとさせる。
例えば三体文明の到達前に、人類が太陽系を脱出することは不可能、なぜなら倫理感が壁になって、逃げおおす者と残る者を選別できないから、とか。受ける者が自ら希望するなら、マインドコントロール(精神印章)は思想統制とは言えない、とか。あー、どっかで聞いたような。
極めつきは宇宙船で繰り広げられる、あるべき社会の議論だ。民主主義はイノベーションを生むけど、全体のために部分を犠牲にするような危機(コロナ禍?)に対して脆弱、全体主義はその逆。どちらを選ぶか、人類はまだ答えを見いだしていない… 

結局、SFだけど、全編を牽引するのはサイエンスというより心理戦。ゲーム理論のような洞察なのです。なにしろ三体文明が送り込んだ極小AI「智子(ソフォン)」に対抗する人類の最終兵器が、決して心の内を明かさない4人が立案する「面壁計画」! それって禅ですか? 
そして伏線が回収され、謎解きは相互確証破壊に至る。中国4000年の知恵、恐るべし。鮮やかです。

んー、こうなるとすべての発端、葉文潔(イエ・ウェンジエ)って結局、何をどうしたかったの? そして3作目ってどうなっちゃうの? 気になるー。大森望・立原透耶・上原かおり・泊功訳。(2021・5)

March 21, 2021

クララとお日さま

「ときどきね、クララ、いまみたいな特別な瞬間には、人は幸せと同時に痛みを感じるものなの、すべてを見逃さずにいてくれて嬉しいわ」

「クララとお日さま」カズオ・イシグロ著(早川書房)

期待の6年ぶりの長編で、2017年ノーベル文学賞受賞後の第一作は、「人を思うということ」を描く切ないSFだ。AIを搭載し太陽光で動くロボット、クララの幼い一人称語り。名作「私を離さないで」を超え、クララの「感受性」に胸を締め付けられる。

クララが「親友」となって共に暮すことになる少女ジョジーは、裕福だけど病弱で、読んでいてはらはらする。童話みたいな語り口のなかに、テクノロジーの力で思い通り幸せになれると考える大人たちの傲慢とか、競争社会の格差、妄信と分断とかが容赦なく影を落とす。不穏だなあ。

本作の非凡なところは、そういう現代的な問題設定の先に、とても普遍的に「思いを感じとる」こと、共感することの崇高さを描くところ。クララがジョジーに寄せる信頼と献身は、あらかじめAIに設定された機能では決してない。観察し、分析し、学びとる作業を積み重ねることで、はじめて作用する。ジョジーが淡い恋の相手リックとかわす「吹き出しゲーム」にも、そんな交流がある。

クララの心象風景が、とても映像的で鮮やかだ。未経験のできごとに遭遇したとき、クララの視界がいくつものブロックに分割され、素早く再構築されるシーン。ソファーの背を抱えて、恩寵をもたらすお日さまが沈みゆくのを飽かず眺めているシーン。型落ちゆえに滅びゆく者の、なんといういじらしさ。
ラストは切なすぎてひどい!と思っちゃったけど、これが作家の誠実なのかな。「利他」こそ最高の発明。人類が獲得した貴重な財産をすり減らさないために、何ができるのかと思わずにいられない。土屋政雄訳。(2021.3)

 

December 20, 2020

失われたいくつかの物の目録

経験は教えている。過去の時代のゴミが考古学者にとって、もっとも雄弁な収集品であることを。

「失われたいくつかの物の目録」ユーディット・シャランスキー著(河出書房新社)

不思議な味わいの短編集だ。1980年旧東独生まれの女性作家が紡ぐ、12の「今はもうないもの」の目録。
19世紀に水没したとされる太平洋ツアナキ島、マンハッタンを歩く老いたグレタ・ガルボ、ある男がスイス南部でプレート1000枚以上をくくりつけた百科事典の森、東ベルリンの共和国宮殿…。エッセイからSFまで、バラバラのテーマ、文体に膨大な教養と細部への情熱がぎっしり詰まっていて、「緒言」からクラクラしちゃう。
コンセプトはヴンダーカンマーだそうで、この「驚異の部屋」とはヨーロッパの貴族や学者が好んだ、世界中の珍奇なものを並べた博物陳列室のこと。存在しないものを精緻に陳列することで、「本」というメディアが持つ、再構築し記憶する力が浮かび上がる。

著者はブックデザイナーでもあり、著書がたびたび「もっとも美しいドイツの本」に選ばれているという。本書も墓碑のような、漆黒に銀の文字が印象的だ。各章の冒頭には黒い厚紙を挟んであり、よく見ると失われた港の風景画など、テーマに沿った絵が浮かび上がる。静謐で雄弁な美意識。どこまで理解しようとするかにもよるけど、読む人を選ぶ本なのは確か。

訳者・細井直子の後書きによると、本書はゲーテ・インスティトゥート(日本を含む90カ国以上でドイツ語教育を推進する政府組織)とメルク社による「ソーシャル・トランスレーティング・プロジェクト」の対象作品。著者本人の注釈やオンラインの意見交換を手掛かりに、ドイツ語圏の文学を訳出する試みで、本作ではアジアとヨーロッパ16言語の訳者が参加したという。文化のパワーを感じます。(2020・12)

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