絶望に屈してほどほどのところで手を打つのは性に合わなかった。彼は心に決めていた。もういちど、一からやり直そう。自分をコンスタンティノープルまで連れてきた歴史の力との知恵比べだ。
「かくしてモスクワの夜はつくられ、ジャズはトルコにもたらされた」ウラジーミル・アレクサンドロフ著(白水社)
20世紀初頭、ロシアとトルコで財をなした希代の実業家フレデリック・ブルースの波乱の生涯。原題は単に「The Black Russian」なのだけど、なにしろ無名の人物なので、長い邦題に加え、親切な副題「二つの帝国を渡り歩いた黒人興行師フレデリックの生涯」がついている。
無名のうえに、英雄でも偉人でもないんだけど、読み始めるとその冒険に引き込まれる。幕開けの、命からがら黒海の港町オデッサを脱出するシーンからして、手に汗握るスペクタクルだ。映画が何本も作れそう。
繰り返し思い知らされるのは、時代の大状況の前に、いかに個人が無力かということ。フレデリックの場合、大状況とは人種差別と革命による体制変更だった。
両親はもともとミシシッピ州に住む奴隷で、南北戦争終結による解放からわずか4年後に農場を持つが、詐欺に遭って転落する。フレデリックは18歳で南部に見切りをつけ、シカゴ、ニューヨーク、さらにロンドン、パリ、ミラノ、ウィーン…と放浪。帝政下のモスクワに腰を落ち着けたのは、黒人差別を感じなかったからだ(ユダヤ人差別はあったようだけど)。
そこで腕一本でのし上がり、大規模キャバレーを経営して成功をおさめるが、ロマノフ朝の崩壊によって一転、すべてを失っちゃう。難民となってたどり着いたコンスタンティノープル(イスタンブール)で見事に再起するものの、またもオスマン帝国の終焉になぎ倒され…
著者は決してフレデリックを美化していない。借金まみれだったり国籍を偽ったり、家庭も温かいものとはいいがたい。それでも運命に抗い、生き抜くしたたかさは痛快だ。
そもそもフレデリックの両親が、当時の南部では珍しい黒人による農場経営に乗り出していて、不屈の闘志を感じさせる。原著の出版は2013年だから、ちょうどBlack Lives Matterの発端のころなんですね。
さらに全編を魅力的にしているのは、フレデリック自身に成功をもたらした、客の心をわしづかみにする朗らかさ、うきうきした気分だろう。流行のジャズとダンスと可愛いロシア娘、おバカな喜劇やヴォードヴィル、ボクシング興行。ふと思い立つとボス自らどんちゃん騒ぎをはじめ、従業員らを引き連れて街を練り歩き、居合わせた人に誰彼かまわず、じゃんじゃん酒をおごっちゃう。
一個人に大状況は変えられない。どんなに理不尽でも、どうにもならないことはある。そのとき「ロシアの広い心」のいい加減さが、いかに人を生きながらえさせるか。
近代史を、歴史本とは違った角度から眺める趣きも。それにしても、よくぞ、こんな面白い人物を発掘したなあ。著者は亡命ロシア人二世で、米国におけるロシア文学研究の第一人者とか。ノンフィクションは畑違いだったわけだけど、巻末の膨大な出典一覧や原註が、研究者らしい手堅さと並々ならない情熱を物語る。労作にして異色作。竹田円訳、沼野充義解説。(2021・7)