February 11, 2017

彼女が家に帰るまで

おれはきみをいつまでもここに住まわせるわけにはいかない。もうここは安全じゃない

「彼女が家に帰るまで」ローリー・ロイ著(集英社文庫)

1958年のデトロイト。若い白人女性が忽然と姿を消した。近隣をあげての捜索の2週間。

本書の魅力は、ライターの温水ゆかりが解説でほぼ書き尽くしちゃっている感じがある。サスペンスだけど、眼目はいわば、ご近所主婦もの。新興住宅地のマイホーム、ご近所付き合いと子育てという、専業主婦3人のささやかな日常が、事件をきっかけに歪んでいく。
夫に対する疑念、重大な秘密、過去の深い傷、狭いコミュニティでの息苦しさ。事件の謎とともに、登場人物それぞれが隠し持つ真実も明かされていく。日本のテレビドラマでも、2クールに1本はありそうな道具立てだが、女性の著者とあって、抑えた筆致と細やかな心理描写で読ませる。

加えていま気になるのは、舞台である町の設定だ。地域を支える工場に不況の影が迫り、雇用も不安。加えて人種対立や治安の悪化が、人々の心をささくれ立たせている。毎晩、何者かが道にまき散らしていくガラス片や、割られる窓。均質なはずの中流社会が直面する、崩壊の予感。
豊かな消費を象徴するT型フォードのお膝元は、やがて犯罪都市と呼ばれ、2013年ついに財政破綻に至るけれど、それにはまだまだ間がある。本作はその2013年発刊というから、のちのトランプ政権誕生を踏まえているわけでもない。それでも、時代の気分を感じさせる1冊だ。翻訳ミステリー大賞シンジケート発起人のひとり田口俊樹と、不二淑子の訳。(2017・2)

June 15, 2015

その問題、経済学で解決できます。

経済学は人のありとあらゆる情緒に真っ向から取り組む学問だ。世界全体を実験室に使い、社会をよりよくできる結果を出せる、そんな科学である。

「その問題、経済学で解決できます。」ウリ・ニーズィー、ジョン・A・リスト著(東洋経済新報社)

不勉強を承知でいうと、個人的には経済学というのはパソコンに向かって、金融とか財政とか労働とか貿易とかについて、小文字のいっぱいついた数式をいじくっている学問、というイメージがある。だけど1992年にノーベル経済学賞を受けたベッカーを持ち出すまでもなく、経済学の思考法を応用して、切羽詰まった社会問題を解決しようとしている人が、世界にはいっぱいいる。その手法のひとつ「実地実験」で何がわかるのかを、応用ゲーム理論などの研究者が平易に解説したのが本書だ。

冒頭、私がかねて疑問に思っていることに言及していて、まず興味をひかれた。つまり流行りのビッグデータからは面白い結論を導けるけど、単に「相関」という事実だけでなく、何らかの働きかけに役立つ「因果」をどうやって知るのか、ということ。著者たちはこの難問解決に、実地実験が効くと主張する。

例えば低所得家庭の子供の、ドロップアウトやら妊娠やら暴力やらについて、実験によって解決策を見つけられるか? 実際、著者らはシカゴの公立学校や保育園で、子供の成績をあげるため、ご褒美と罰金のプログラムを試す。そして科学的な方法に基づいて正しいインセンティブを与えれば、貧困家庭の子供たちは10カ月で、裕福な家庭の子供たちに負けない能力を身につけられる、といった結論に達する。

困っているなら思い込みを捨てて、仮説と実験によって、本当に効く解決策を見つけようよ、というメッセージだ。もちろん日本の教育現場で、マーケティングキャンペーンそのもののABテストをしちゃうなんて、現時点では難しい気がする。
実験できたとしても、結果の解釈については議論がありそうだし、実験費用という壁もある。なにしろ著者らはアイデアだけでなく行動力も凄くて、ヘッジファンド創業者夫妻を口説いてかなりの資金を引き出しているのだ。とはいえ筆致が明るいので、読んでいると意外に早く、日本の経済学も変わっていくかも、と思えてくる。

ちなみに社会問題よりは馴染み深い、経営への応用例も登場。会計サービスのインテュイットでは社員が自分で思いついたプロジェクトに、勤務時間の10%を使い、経済学者よろしく、仮説と実験・検証を手掛けて、業績アップを実現しているという。どうやら話題のデザイン思考というものにも、実地実験が重要な役割を果たすらしい。このへんは日本でも、すでに実践している企業が多そうだ。
読みやすい訳は「ヤバい経済学」などでお馴染み、望月衛。(2015年)



February 06, 2015

その女アレックス

人は本当の意味で自分自身に向き合うとき、涙を流さずにはいられない。

「その女アレックス」ピエール・ルメートル著(文春文庫)

2011年にフランスで刊行し、イギリス推理作家協会賞を受賞。さらに翻訳が2014年のミステリーランキング海外部門を総なめにした話題の犯罪小説を、電子書籍で。

とにかくテンポが速い。思わず振り返るような30歳の美女、アレックスがパリの路上でいきなり拉致されるところから始まって、壮絶な暴力描写が畳みかけられる。目を覆うばかりのシーンが続くのだけれど、同時に謎の女の正体、事件の様相そのものが二転三転していくので、感情をぶんぶん振り回されて読むのを止められない。何はともあれ、サスペンスや警察ものなど異質なミステリー要素を1作に盛り込み、ぐいぐい引っ張る筆力は並大抵でない。

人物の造形も強烈。なんといっても幼く、几帳面で、悲壮なタイトロールの存在が異彩を放つ。ずっと持ち歩いている思い出のガラクタとか、細部が鮮やかだ。
一方、アレックスを追うカミーユ警部のキャラも独創的で、身長145センチの小柄な体に刑事魂と反骨がみなぎる一方、過去経験した悲劇によって心に傷を抱えている。そんなカミーユの深い孤独が、姿なきアレックスと共鳴していく展開がなんとも切ない。
けれどもカミーユはアレックスとは違う。皮肉で気難しいたちなのに、彼に負けず劣らず個性的な仲間たちが理解し、見守っていて、それは殺伐とした小説の中で一筋の救いになっている。

ショッキングな描写のあざとさや、一人称語りによる矛盾、破綻など、難点を指摘する声もあるらしい。確かにお世辞にも爽快とは言えないし、肝心なところが理屈に合わない気もするけれど、強引なまでに読者を引っ張るパワーを持つことは間違いない。橘明美訳。(2015・1)

June 04, 2012

「シャンタラム」

プラバカルは歌を歌いながら歩き去った。それはわかっているからだった--まわりのみすぼらしい小屋で眠る人々の誰ひとり気にしたりしないことを。目を覚ました者がいたとしても、ほんのちょっとのあいだ彼の歌を聞いたら、微笑みながらまた眠りに戻ることを。なぜなら、彼が歌っているのはほかでもない、愛の歌だからだ。

「シャンタラム」(上)(中)(下)グレゴリー・デイヴィット・ロバーツ著(新潮文庫) ISBN: 9784102179413 9784102179420 9784102179437

文庫で3冊・1800ページを超える長編をようやく読了した。1980年代、オーストラリアからボンベイ(現ムンバイ)に流れ着いた脱獄犯、通称リンの波瀾万丈の物語。1952年生まれの著者は実際に武装強盗で服役中の80年に脱走、ボンベイで暮らし、再逮捕されて残りの刑期を務めた後で本書を発表したという。あまりのジェットコースターぶりが一見、荒唐無稽のようだけど、実体験に裏打ちされているらしい不思議な迫力がある。

ボンベイを震撼させるテロ組織「サプナ」の正体、という謎を含んでいるが、読み心地はミステリーではなく大河小説。さしずめインド版「人生劇場」か「青春の門」といったところか。リンは外国人相手のガイドや、スラムでの医師の真似ごとを経て、やがて生き抜くため裏社会に身を投じていく。その過程で深く関わることになる、どいつもこいつもワケありの個性的な面々が魅力的だ。明るく逞しいスラムの住人たち、欧米から流れてきたひと癖もふた癖もある無法者たち、そしてアフガニスタンやパキスタン、中東、アフリカ出身のタフで家族的なマフィアのメンバー。

ところどころ哲学的な問答が挟まったりして、決して読みやすくはない。しかし全編を貫く混沌とエネルギー、リンが魅せられる「愛の土壌」ともいうべきインドの風土が、読む者を巻き込む。田口俊樹訳。(2012・6)

September 05, 2009

「影武者徳川家康」

「風が鳴っている」
「この二日、大風が吹き続けでございます」
 何事もないように六郎が応えた。
「わしの一生は、ずっと風に吹きっさらしだったよ」

「影武者徳川家康」隆慶一郎著(新潮文庫) ISBN: 9784101174150 ISBN: 9784101174167 ISBN: 9784101174174

天下分け目の関ヶ原で、実は家康は暗殺されていた。そこから始まる、影武者・家康の壮絶な闘い。

SNS「やっぱり本を読む人々。」選出の「100冊文庫」から、気になっていた時代小説を読む。ネット書店で上、下巻を入手して読み始めてから、「中巻につづく」とあるのに気づいて、慌てて追加注文。いやー、長かったです。

初めのうちは、先入観を覆す歴史上の人物の設定に引き込まれた。例えば重臣・本多正信の心意気。ストーリー上は脇役であっても、一人ひとりを題材にして十分に長編小説が書けるくらいにエピソードが充実していて、飽きさせない。島左近の悲運の娘、お珠とか。

次に、「武器を使わない果たし合いシーン」の連発を楽しんだ。もちろん時代物らしく、柳生の剣豪やら、超人的な技をもつ忍びやらが登場する、派手なチャンバラシーンもある。しかし物語のおおかたは、権力のバランスをめぐる裏舞台での駆け引きであり、つまりは権謀術数だ。そこで成否を握るのは、人と人が出会ったとき、一瞬で「人物を見切る力」。こいつは信用できるかどうか、いざというとき腹が据わっているか。男も女も、そういう人としてのスケール、度量で競いあう。痛快だ。

面白く大長編を読み進むうち、やがて大きなテーマが浮かびあがる。時代を動かす男たちが、たったひとつ願う夢。壮大で、不敵だ。ああ、上巻で長々と語られる若いころの流浪談は、こういう風に生きてくるのか、と膝を叩く感じ。

かつての日本に、本当にこんな男たちがいたとしたら。荒唐無稽でいて、史料を縦横に引用する力技には迫力がある。若いころ小林秀雄に師事し、テレビドラマなどの脚本家として成功、還暦を過ぎてから小説を書きだしたという、作家のストーリーテラーとしてのパワーが凄い。

「影武者徳川家康」隆慶一郎 本を読む女。改訂版

July 29, 2009

「ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士」

「私はリスベットを友人だと思っている。だからといって、きみも知ってのとおり、彼女が私を友人と思っているとはかぎらないがね」
「それはわかっています。でもぼくが聞きたいのは、彼女の側に立って、彼女の敵と闘う覚悟があるか、ということなんです。しかも一、二ラウンドで決着のつくような闘いではありません」

「ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士」スティーグ・ラーソン著(早川書房) ISBN: 9784152090485 ISBN: 9784152090492

宿敵ザラチェンコを追いつめた敏腕女性調査員リスベットは、自らも重傷を負い、司直の手に落ちてしまった。身動きがとれない彼女に、組織の魔の手が伸びる!

スウェーデンの大ヒットミステリー3部作最終編、上下巻約950ページを一気読み。いやー、楽しみました! シリーズの第1作は富豪一家を襲った過去の密室殺人の謎解き、第2作はがらりと雰囲気を変えてスピード感あるギャングとの死闘。さて次は、と思ったら、いよいよ国家を揺るがす陰謀ときました。もうお腹いっぱいです。

第3作の前半は、われらが野獣リスベットが手負いのためベッドに縛り付けられて反撃できないので、どうにももどかしい。その間、陰謀の存在を知るリスベットを社会的に葬り去ろうと、敵が着々と非情な罠を準備。いやがおうにも緊迫感を盛り上げる。
そして、こうした敵に対抗して、リスベットの正義を信じる雑誌「ミレニアム」発行責任者ミカエルら、人呼んで「狂卓の騎士」たちが行動を起こし始めると、そこからはもう疾風怒濤だ。

女性を標的にした暴力に対する怒りというテーマが、第1作からずっと底流にあり、最後まで貫かれている。これがエンタメ要素総動員の感がある3部作に、一定のまとまりをもたらしていると思う。巨大な陰謀に巻き込まれたリスベットはもちろん、登場する脇役の女性たち、ミレニアムの編集長や弁護士、刑事らもそれぞれ何らかの苦悩を抱えつつ、強靱な心で暴力に立ち向かっていく。魅力的な大人の女たち。

もちろん、最も魅力的なのはリスベットだ。抜群の知性をもちながら、ハリネズミのようなトゲを心にまとっていて、他人とうまくコミュニケーションがとれない。実はそんな自らの欠けた部分をちゃんと自覚していて、自分なりにもがいている。果たして希代の色男、ミカエルとの関係はどうなるのか? ラスト1行まで目が離せません。著者が亡くなり、続編が読めないのが残念でならない。ヘレンハルメ美穂・岩澤雅利訳。(2009・7)

『ミレニアム3--眠れる女と狂卓の騎士』/スティーグ・ラーソン 異邦の偏読家 

May 16, 2009

「ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女」

それに、いったん始めたことを途中でやめるのは気にくわない。”秘密は誰にでもある。問題はどんな秘密を見つけだすかだ”

「ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女」スティーグ・ラーソン著(早川書房) ISBN: 9784152089830  ISBN: 9784152089847

ジャーナリストのミカエルは不正を追及した実業家、ヴェンネルストレムに名誉毀損で逆襲されて有罪となり、活動の休止を余儀なくされる。そんなとき、引退した大物経営者、ヘンリック・ヴァンゲルから依頼が舞い込み、40年も前にヴァンゲル家で起きた、ある少女失踪事件を洗い直すことになる。

大評判のミステリー3部作の、第1部上下巻を読んだ。多くの本好きたちが絶賛する通りの一大娯楽作! 孤島からの失踪、暗号、猟奇殺人から世界を股に掛けたハイテク捜査まで、あらゆるミステリーの要素がてんこ盛りで、しかもその要素が巧妙に組み合わされている。

自分には馴染みがないスウェーデンが舞台ということは、あまり苦にならなかった。巻頭に地図が添えられているせいか。物語の途中から、ヴァンゲル一族の人物たちがぞろぞろ登場して、誰が誰だか混乱したけれど、それも220ページあたりまで。凄腕女性調査員のリスベットがミカエルに絡んでくると、もう止まりません。

リスベットのエピソードは、今回の本筋ではないはず。しかしその破天荒な人物像が、際立って鮮烈だ。やせっぽちの体に大胆なタトゥーやピアス、粗野な言動で社会に全く適応しない。けれど、ものすごく頭が切れて、人が一番隠したいと思っている秘密にぐいぐい迫っていく。特に卑劣な暴力に対しては、決して容赦しない。こんな探偵役、みたことない。

ストーリーの柱は大きく二つある。ミカエルの実業家ヴェンネルストレムに対する闘いと、ヴェンゲル一族の「犬神家」ばりに胡散臭い過去。それぞれの謎解きが面白いのはもちろんだが、謎解きの過程でミカエルとリスベットが世の不正に対して示す怒りが、強い印象を残す。単に痛快というだけでない。自らもジャーナリストである著者のプライド、信念がエンターテインメントに独特の味付けを施している。

訳文も読みやすいと思う。第2部、第3部を読むのが楽しみだ。ヘレンハルメ美穂・岩澤雅利訳。(2009・5)

◎◎「ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女」上下 スティーグ・ラーソン 早川 1700円 2008/12  「本のことども」by聖月

January 28, 2009

「造花の蜜」

犯罪を犯罪という尺度で測れば、犯罪でなくなるのではないか……

「造花の蜜」連城三紀彦著(角川春樹事務所)  ISBN: 9784758411240

五歳になったばかりの利発な少年、圭太が幼稚園から連れ去られた。家族と捜査陣は、誘拐犯の予想外の言動に翻弄される。

ブロガーの間で評判がいい、480ページの長編。直木賞受賞の「恋文」以来、この著者を読むのは実に四半世紀ぶりだ。文章は遠い昔の印象通り、いたって端正。しかし正直、240ページあたりまでは読み進めながら少しイライラした。というのも、伏線めいたエピソードや、蜜とか血とか思わせぶりのイメージが盛りだくさんな一方で、登場人物の誰の言うことも釈然とせず、どこまで本気か信じられない感じなのだ。隔靴掻痒というか、どうも現実感が伴わない。

ところが後半に入って、別の視点から誘拐が語られ始めると、一気に事件が別の顔を見せて、驚かされる。そこからは勢いがついた。いったい「囚われる」とは、どういうことなのか。尽きない欲望によって複雑になってしまった現代社会。人は何かしら、秘密をかかえている。例えばそれは誘拐された少年の、出生の事情のように。

そういう秘密のせいで、人はまるで誘拐事件の被害者のごとく、不自由に生きていたり、あるいは誘拐事件の加害者のように、ほかの誰かを縛り付けてしまったりしている。そんな「囚われた生活」の、どこまでが罪で、どこまでが罪でないか、境界があやふやになっていく面白さ。

たまたま最近出かけた越後湯沢が、舞台の一つとして登場。その北国に降る雪と、思い出の夏の日差しとが、合わせ鏡のようにオーバーラップするシーンが印象的だ。ちなみに最終章の第二の事件は、おまけというか、コース料理の後のデザートのような感じ。ストーリーとしては何だかまとまりがないと思うんだけど、いっそう煙に巻かれちゃいました。紗がかかったような蘭の花の装丁が美しい。(2009・1)

造花の蜜/連城三紀彦   銀の翼
造花の蜜 連城三紀彦 A  棒日記
連城三紀彦『造花の蜜』   こんな夜だから本を読もう

December 10, 2008

「暴走する資本主義」

モノを買うときの個々の消費者の好みについては資本主義はますます反応がよくなったが、市民としての私たちみんなが望むことに対する民主主義の反応は鈍くなる一方である。

「暴走する資本主義」ロバート・B・ライシュ著(東洋経済新報社) ISBN: 9784492443514

クリントン政権で労働長官を務めた経済学者が、「スーパーキャピタリズム」が引き起こした社会状況を分析。

クルーグマンに続き、個人的に「民主党政権交代シリーズ」で読んでみた。著者の主張は明快。ひたすら利潤を追い求める企業による、巧妙なロビー活動によって、民主的な政策決定がゆがんでいるという状況を、豊富な事例で説いていく。

では、企業をそういう行動に駆り立てる原因は、どこにあるのか。グローバリズムは全く無縁ではないが、著者が目を向けるのはむしろ、一般国民自身の選択だ。消費者として安い商品を求め、また投資家として、虎の子の投信の少しでも高いリターンを願う。そういう身近な振る舞いが企業を動かし、巡り巡って自らの雇用や、近隣コミュニティーの安全などを揺るがしている。だから一人ひとりがそう認識して選択を変えれば、本来の民主主義を取り戻せるかもしれない、というわけだ。

にわかには共感できない論調もあった。企業が利益追求と両立させつつ、すすんで社会的責任を果たす試みの効果を、かなり強く否定していること。それから、企業に対し納税などの責任の免除とセットで、政治参加の権利を制限する提言などだ。
しかし、格差や非正規雇用の問題など、日本でも切実になっている様々なイシューについて、その背景、メカニズムを整理するには格好の一冊だと思う。日本において多くの福祉を担ってきた企業という存在そのものについても、考えさせられる。雨宮寛・今井章子訳。(2008・12)

 すでに脱線しているかも? ロバート・B・ライシュ「暴走する資本主義」(東洋経済新報社)   梟通信

November 03, 2008

「やわらかな遺伝子」

遺伝子こそが、人間の心に学習や記憶、模倣、刷り込み、文化の吸収、本能の表現をさせているのである。遺伝子は人形使いではないし、青写真でもない。さらにはただの遺伝形質の運び屋でもない。一生のあいだ活動を続け、お互いにスイッチを入れたり切ったりし、環境に対して反応しているのだ。

「やわらかな遺伝子」マット・リドレー著(紀伊國屋書店) ISBN: 9784314009614

英国のサイエンスライターが「生まれか育ちか(Nature vs Nurture)」、つまり遺伝子か環境か、という二項対立の誤りを、様々な科学分野の研究成果から解き明かす。

ちょうどヒトゲノム計画が集結した2003年の著作を、積読の山から発掘して読んでみた。最近でも米国では、個人が399ドルでDNA解析を頼めるサービスが話題となり、実際に著名起業家が自らの遺伝子変異を告白したりしている。さて、遺伝子はどのくらい人間を支配しているのか?

著者はそんな遺伝決定論にも、環境決定論にも荷担しない。原題は「生まれは育ちを通して(Nature via Nurture)」。遺伝子は実際、思った以上に人の病気や性格、嗜好、行動までもの基盤になっている。けれども、その基盤が発現する過程には、環境との相互作用があるという。

決して読みやすくないと感じた。それは科学的解説が素人にとって難しいせいだけではなく、読者に対して、一方の決定論を選ぶことで「楽になりたい」という安易な心持ちを許さないせいだろう。何かがわかってすっきりする、というより、なにやら科学に基づく人間観というものの奥深さを思わせる一冊。中村桂子、斉藤隆史訳。

マット・リドレー『やわらかな遺伝子』  mm(ミリメートル)
]マット・リドレー「やわらかな遺伝子  Close to the Wall

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