July 31, 2024

台湾海峡一九四九

十七歳になっていた張玉法の兄は、弟の体をぐっと引き寄せて言った。ここで別れよう。二人とも南へ向かったら、同じ運命をたどるだけだ。万が一、二人ともダメだったら両親は「希望を失う」。だからここで運命を分けて両方に賭けよう。オレは北へ行く。お前は南へ行け。

「台湾海峡一九四九」龍應台著(白水社)

2022年共産党大会あたりから、ワイドショーでも台湾有事が取り沙汰されるけれど、いったい私たちは台湾の何を知っているのか。父は元国民党憲兵で、1952年高雄市生まれの作家が2009年に、国民党軍と民間人ざっと200万が台湾に渡った1949年の群像を生々しく描く。日中戦争と国共内戦という国家の暴虐が庶民に強いた、あらゆる苦難が壮絶すぎて、ただただ言葉を失う。訳知り顔の分析や諦念を吹き飛ばす、1人ひとりの物語が重い。

著者はベストセラー作家で、米国で博士号をとり、1980年代後半にドイツに移住して現地で結婚、のち離婚。2012年には文化省の初代大臣に就くなど、その知性は強靱で立体的だ。日本語版の序文で、本書は文学であって歴史書ではない、文学だけが魂に触れることができると記し、膨大な史料とインタビューから、それぞれの忘れられないワンシーンを構築していく。例えば著者の父。15歳の時、18歳と偽って貧しい農村から憲兵について行った。母が握らせた、布靴の底。漁師は船で1時間の対岸に昆布などを売りに行って封鎖に遭い、島へ帰れなくなった。

大陸と島に分かたれた家族の物語だけではない。ベトナムの劣悪な捕虜収容所、香港に逃れ悪魔山に収容された2万人もの難民… 無名の庶民、中国語圏の作家らに混じって、クアンタコンピュータの創業者や、李登輝が登場して不意を突かれる。

凄まじいのは1948年、ソ連の統治を経て国民党軍が接収した長春での、共産党軍の包囲戦だ。餓死者は十万とも三十万ともいわれる。しかし無血開城以外、独ソ戦のレニングラードのように描かれることなく、今は長春市民もさして当時を知らない。さらに台湾人の過酷な運命にも愕然とする。のどかな南部の先住民が1942年、日本軍に志願。南方の悲惨な捕虜収容所の監視につき、戦犯として長く服役する。今もボルネオ司令官だった日本人の額「日々是好日」を持っているのだ。

巻末に2011年民国百年増訂版を収録、天野健太郎の訳者あとがきの日付は2012年。(2023/7)

April 12, 2023

三体Ⅲ 死神永生 

人類世界がきみを選んだのは、つまり、生命その他すべてに愛情をもって接することを選んだということなんだよ。たとえそのためにどんなに大きな代償を支払うとしてもね。

「三体Ⅲ 死神永生 上・下」劉慈欣著(早川書房)

ヒットSF「地球往事」3部作の完結編をついに。2作目のほうが面白いという評価を聞いていたけど、なかなかどうして。殲滅戦の絶望感など、二作目を超えるスケールだ。
未曾有の危機に直面して地球文明がどんな生き残り戦略を試みるかは、現代社会にも当てはまるシミュレーションのようで、相変わらず知的、かつ空恐ろしい。巨視的な舞台設定と、これでもかと詰め込んだ理解を超える情報量。でも結局は、大切な人を救いたいという一個人の思いが、運命を決定づけていく。ロマンティックで、それでいて砂漠に吹く風のような、空しく哀しいお話でした~

物語は2作目ラスト、「暗黒森林理論」で三体文明と人類の間に緊張緩和(デタント)が構築された時代から始まる。しかし「執剣者(ソードホルダー)」に抜擢されたヒロインのエンジニア、程心(チェン・シン)は核のボタンを押せず、均衡が崩壊。さらに他文明からの攻撃であんなに強かった三体文明はあえなく散り散り、同様に太陽系も絶滅の危機に瀕する。

大混乱のなか、人類が試みる3つの生き残り策が秀逸だ。「掩体計画(バンカー・プロジェクト)」は巨大惑星の陰に移住して、攻撃による太陽爆発から逃れる。「光速宇宙船プロジェクト」は飛躍的な航空技術の進化を成し遂げて、太陽系を脱出し、生き延びる。そして「暗黒領域計画(ブラック・ドメイン・プロジェクト)」はなんと太陽系まるごと「低光速ブラックホール」に引きこもり、全宇宙に対して我々は攻撃なんてできない、無害な存在だと明示する。いわば自ら武器を捨て、同時に文明も現世的幸せも放棄しちゃう。うーん、なんだか現代の紛争でもでてきそうな発想です。

そして他文明からの攻撃は、思いもかけない形で襲来する。2作目の「水滴」の凶暴さにもまいったけど、今回はもっと凄まじい。なにせ「次元攻撃」。なにそれ。見た目はなんと、漆黒の宇宙空間を漂う一枚の紙(長方形膜状物体)! もたらされる圧倒的な滑落と、人類のなすすべなさたるや。「水滴」の先に、まだこんな終末が待ち受けていたとは。

そこから先がぐっと難しくなるんだけど、まさかの羅輯(ルオジー)が人類最後の墓守として再登場。「石に字を彫る」と語るあたりで、中国4000年の深みにひりひりする。なにせ「詩経」だもんなあ。太陽系崩潰のとき、さいはてに舞う雪。故郷は一幅の絵になってしまう。ゴッホの名画「星月夜」のエピソードがまた、効いてます。
そしてヒロインがたどり着く、宇宙の真実。万物がゼロに戻っちゃう、これ以上無い空疎な心に、小さな希望が灯る。個人的にはここまで読んできて、あんまりすっきりはしなかったけど、切ない読後感は悪くなかったかも。

登場人物は相変わらず魅力的。程心は初め男性の設定だったのを、編集者のリクエストで女性にしたとか。正しいゆえに数々の過ちをおかし、激しい後悔に襲われながらも、生きて責任を果たす。「それでも、わたしは人間性を選ぶ」。女性だからこそ、しぶといキャラクターが際立った。
そしてなんといっても、「階梯計画」に選ばれる冴えないコミュ障男・雲天明(ユン・ティエンミン)の、時空を超えた片思いが泣かせます。憧れの女性に星をひとつプレゼントして、再会を約束するなんて、直球すぎ! 
程心の相棒・艾AA(あい・えいえい)のチャキチャキ感、問答無用の武闘派トマス・ウェイドも印象的だ。「俺によこせ、すべてを」だもんなあ。三体から乗り込んできた、何でもお見通しの智子(ソフォン)が、なぜか女性型ロボット「智子(ともこ)」になって忍者のコスプレでお茶をたてるのは、違和感満載だったけど。
大森望、光吉さくら、ワン・チャイ、泊功訳。(2023・4)

February 11, 2023

世界は「関係」でできている

この世界はさまざまな視点のゲーム、互いが互いの反射としてしか存在しない鏡の戯れなのだ。
 この幻のような量子の世界が、わたしたちの世界なのである。

「世界は『関係』でできている」カルロ・ロヴェッリ著(NHK出版)

本編200ページだけど、正直ほとんど1行も理解できませんでした。でも何故かすいすい読める。なんなら面白い。
イタリアの理論物理学者が一般向けに、量子物理学を語る。まず導入3分の1を占める、量子の世界を切り開いた若き学者たちの肖像が楽しい。20代のヴェルナー・ハイゼンベルクが、北海の風吹き付けるヘルゴラント島で世紀の直感を得るシーン。対するエルヴィン・シュレーディンガーの天才ぶり、無軌道ぶり。そして若者の飛躍に、「神はサイコロを振らない」と主張したアインシュタイン… 物質とは何か、をとことん突き詰める人々を巡る、魅力的なノンフィクションだ。

量子論はこの世界を表して、最も成功した究極の理論なんだけど、その意味するところはあまりに摩訶不思議。今だにいろんな解釈があり、議論は終わっていない。本書の残り3分の2では、そのいろんな解釈を紹介しつつ、著者の持論、すべては「関係」だ、という不思議世界へと読む者を導いていく。ロシアプロレタリア思想、レーニンとボグダーノフの論争、そして2~3世紀インド哲学のナーガールジュナ(龍樹)、色即是空へ。解説で竹内薫氏が「ルネッサンス的知性」と書いているように、豊富なイメージにクラクラしちゃう。とても詩的でスリリングだ。
世界の真実って、見えているのとはだいぶ違う。立っている地面が実は丸く、それが太陽の周りをぐるぐる回っていて、生物はすべて一直線ではなくトライ&エラーで生き残ってきていて、そして物質は何一つ確かなものではない! なんだかひととき、小さい悩みがばかばかしくなる読書体験です。ともかくも冨永星訳に感謝。(2023.2)

February 27, 2022

ケルト人の夢

ジョージ・バーナード・ショーが、そこにいたすべてのアイルランド・ナショナリストに向かって言い放った、胸に突き刺さる皮肉な言葉を思い出した。《それは互いに相容れないものだよ、アリス。間違ってはならない。愛国主義は宗教なんだ。正気とは両立しない。それは単なる反啓蒙主義、信仰という行為さ》

「ケルト人の夢」マリオ・バルガス=リョサ著(岩波書店)

ペルー出身の著者による、2010年ノーベル文学賞受賞後第一作の邦訳。ドラマチックでぐいぐい引き込まれるものの、500ページにわたる全編の内容は実に重い。繰り返される人類の残虐行為、それに対抗して尊厳を求める者が味わう過酷。新聞を開けば高らかにSDGsを唱える特集の一方で、戦争の暴力を目の当たりにする今だからこそ、鋭く胸に刺さる。
1916年、ロンドンの刑務所で刻々と死刑執行が迫るロジャー・ケイスメントが、来し方を回想する物語。実在する人物の評伝ではあるけれど、フィクションならではの、人間の業に対する多面的な洞察が圧巻だ。

そもそもロジャーの生涯が世界スケールなうえ、複雑このうえない。アイルランドのプロテスタント家庭に生まれ、「未開人をキリスト教と自由貿易で文明化する」理想を抱いて、大英帝国の外交官となる。赴任したコンゴ、続いてペルーで、ゴム採取業者の先住民に対する強制労働と残虐行為の実態に直面し、理想は瓦解。その人道上の罪を国際社会に告発して名士となり、王室からナイトの称号まで受ける。いわば、ひとりアムネスティ。しかし、やがて自らの故郷こそ、アフリカや南米と同じ植民地として長年、英国に支配・抑圧されてきたとの思いを強くし、ついにはアイルランド独立闘争に身を投じて、反逆罪で絞首刑となってしまう。

コンゴとペルーでこれでもかと、ロジャーが目にする地獄絵図は、正視に耐えない。かつてキューバの観光案内に、先住民は絶滅しましたと、さらりと書いてあって驚愕したのを思い出した。ロジャーが監督責任を問いかける、コンゴ公安軍大尉の言葉がすさまじい。いわく過重なゴム採取の割り当てを定めたのは本国ベルギーの役人と会社重役であり、制度を変えるのは裁判官や政治家の仕事、我々現場の軍人もまた被害者だ…。絶望的な罪の構図。
厳しい環境で悲惨な現実を記録し続け、ロジャーは心身ともにぼろぼろになっていく。だからこそ、アマゾンを発つ船旅で満月の夜、南国の美しい光景に涙するシーンが胸に染みる。

英国文化人サロンでのマーク・トゥエイン、コナン・ドイルといった華やかな交流もあるが、終盤で外務省を辞しアイルランドに戻ってから、その運命はさらに苛烈、かつ皮肉なものになっていく。ロジャーは一次大戦中、英国の敵ドイツに渡り、独立への支援をとりつけようと工作。しかし闘争を急ぐ仲間から孤立していき、イースター蜂起の計画すら知らされない。蜂起が挫折して逮捕されると、ドイツと結んだことで英国知識層の友人たちも離反。名士であったからなおさら、ゲイの暴露がスキャンダルとなる。ピュアに理想を追っていたはずなのに、いったいどこで道を誤ってしまったのか。

北アイルランドでは今も南北統一派と親英派の対立が続く。「夢」という書名からして、ある民族・文化が自立することの困難を、冷徹に表している。それを理屈でなく、ひとりの異端者に象徴させる、小説の力が見事だ。ロジャーは決して英雄ではないし、失敗だらけで弱々しく、恋人に裏切られたりして、時に滑稽ですらある。だからこそ、人間という存在そのものの哀しさが際立つ。あえて主人公の肖像写真を収録していないのも、虚構がもつ普遍性を思わせる。

ちなみにアマゾンのゴム業者が破綻する原因として、ロジャーの告発が引き金となった不買運動や融資引き上げだけでなく、新興のアジア産との競争にも触れている。英国人ウィッカムがブラジルから持ち出した種子が、マレー半島で一大産地を形成したという。著者の知性はなんと強靱なことか。野谷文昭著。(2022・2)

May 23, 2021

三体Ⅱ 黒暗森林

宇宙文明の公理が誕生したこのとき、はるか彼方のあの世界は、固唾を呑んで一部始終を聞いていた。

「三体Ⅱ 黒暗森林 上・下」劉慈欣著(早川書房)

ヒットSF「地球往事」3部作の2作目。1作目をはるかに超える壮大さで、数光年の彼方から刻々と迫りくる「三体文明」との、手に汗握る終末決戦、そして人類の選択を描く。その時空を超えるイマジネーションに、まずは圧倒される。
なにしろ人工冬眠によって、登場人物は世紀をまたいで生きる。巨額の軍事費や異常気象で、人類は世界人口がなんと半減以下に落ち込んじゃう、恐ろしい「大峡谷時代」を経験する。さらにたった一機の美しい三体探査機「水滴」が、完膚なきまでに人類の希望たる大宇宙艦隊を粉砕する。映像的なスケールも絶望感も、半端ない。

知的情報量は、三体文明とのファーストコンタクトを描いた前作以上。全宇宙の謎「フェルミのパラドックス」だの、物理学ネタ(核融合エネルギーその他)だの軍事ネタ(特攻隊も!)だの、何が何だか正直、全く消化できない。これがエンタメとして成立してるだから、その力業に舌を巻く。
ひとりの社会学者、どっちかというと覇気のない、女たらしの羅輯(ルオ・ジー)がすべての鍵を握る。なんという娯楽性! 1作目に続いて登場、はぐれ警官の史強(シー・チアン=大史ダーシー)とのコンビは、まるで海外刑事ドラマで痛快だし。思索と果断の人・章北海(ジャン・ベイハイ)や、知性と誠意の人・丁儀(ディン・イー)も魅力的だ。

なによりツボなのは、「危機に瀕した際の選択」というテーマが、SFどころじゃなく実に現実的だってこと。露わになる集団心理や制度のカベについて、決してくだくだ論ぜず、クールかつさらっと指摘していて、ドキリとさせる。
例えば三体文明の到達前に、人類が太陽系を脱出することは不可能、なぜなら倫理感が壁になって、逃げおおす者と残る者を選別できないから、とか。受ける者が自ら希望するなら、マインドコントロール(精神印章)は思想統制とは言えない、とか。あー、どっかで聞いたような。
極めつきは宇宙船で繰り広げられる、あるべき社会の議論だ。民主主義はイノベーションを生むけど、全体のために部分を犠牲にするような危機(コロナ禍?)に対して脆弱、全体主義はその逆。どちらを選ぶか、人類はまだ答えを見いだしていない… 

結局、SFだけど、全編を牽引するのはサイエンスというより心理戦。ゲーム理論のような洞察なのです。なにしろ三体文明が送り込んだ極小AI「智子(ソフォン)」に対抗する人類の最終兵器が、決して心の内を明かさない4人が立案する「面壁計画」! それって禅ですか? 
そして伏線が回収され、謎解きは相互確証破壊に至る。中国4000年の知恵、恐るべし。鮮やかです。

んー、こうなるとすべての発端、葉文潔(イエ・ウェンジエ)って結局、何をどうしたかったの? そして3作目ってどうなっちゃうの? 気になるー。大森望・立原透耶・上原かおり・泊功訳。(2021・5)

September 11, 2020

三体

もし人類が道徳に目覚めるとしたら、それは、人類以外の力を借りる必要がある。

「三体」劉慈欣(リウ・ツーシン)著(早川書房)

1963年生まれ、発電所技術者でもある作家のSF大作をようやく。2015年、アジア人初のヒューゴー賞を受賞、オバマさんも愛読したという話題付き。

いきなり苛烈な文革期から始まるのに面食らう。この過去パートでは、女性天体物理学者・葉文潔(イエ・ウェンジエ)が粛清を受けて研究の表舞台から去り、辺境の紅岸基地に勤務する。一方、現代パートではナノマテリアル研究者の汪淼(ワン・ミャオ)が超自然的怪異に見舞われ、謎の手がかりを得ようとオンラインVRゲーム「三体」をプレイする。
延々展開する三体の壮大な世界は、個人的に苦手なファンタジーかと思いきや、ぐいぐい引き込まれていく。なにしろ古今東西の文明、人類の英知が登場するものの、灼熱と極寒という厳しい環境によってことごとく壊滅しちゃうのだ。果たしてこのゲームの意図は…
人類を脅かす驚くべき陰謀が明らかになってくる後半は、もう怒涛。はるか宇宙の知性との交信という、古典的だけど魅力ある展開、そしてパナマ運河で敵のタンカーを「切り刻む」シーンの迫力!

ニュートン力学の三体問題(3つ以上の天体が万有引力によって相互に干渉し合うと、運動の予測が難しくなる現象)がテーマになっているように、様々な科学技術の知識が散りばめられている。中国の現代史の描写には、そのハイテク立国ぶりも横溢。と同時に、文革など人類の知性に対する疑念が語られるのも興味深い。
というわけで、大風呂敷三部作は続く。大森望、光吉さくら、ワン・チャイ訳。(2020・9)

November 30, 2017

How Google Works

何千年も前にピラミッドを構想し、建設したエジプト王は、非常に有能な経営者だった。インターネットの世紀は、未建設のピラミッドであふれている。さあ、とりかかろうじゃないか。

「How Google Works 私達の働き方とマネジメント」(エリック・シュミット、ジョナサン・ローゼンバーグ、アラン・イーグル、ラリー・ペイジ著)日経ビジネス人文庫

元グーグルCEOのシュミットと、共同創業者ペイジのアドバイザー、ローゼンバーグが、巨大プラットフォーム企業が何を優先しているか?を説いた経営書(イーグルは広報担当として協力)。
すなわちあらゆる企業は、プロダクト開発のスピードと、その質を高めることに集中すべきで、そのために必要なのは、なにより優秀な人材(スマート・クリエイティブ)をいかに採用するか、そして人材を獲得したら、いかに自主性を発揮させるか、という主張だ。
幹部の目標を把握していて、顔をみたらどんどん質問するとか、大量のメールへは「OHIO(対処するのは一度だけ)」で臨め、とか、細部がいちいち面白い。かたちを真似することから入る発想も大事かも、と思えてくる。土方奈美訳。(2017・11)

February 11, 2017

彼女が家に帰るまで

おれはきみをいつまでもここに住まわせるわけにはいかない。もうここは安全じゃない

「彼女が家に帰るまで」ローリー・ロイ著(集英社文庫)

1958年のデトロイト。若い白人女性が忽然と姿を消した。近隣をあげての捜索の2週間。

本書の魅力は、ライターの温水ゆかりが解説でほぼ書き尽くしちゃっている感じがある。サスペンスだけど、眼目はいわば、ご近所主婦もの。新興住宅地のマイホーム、ご近所付き合いと子育てという、専業主婦3人のささやかな日常が、事件をきっかけに歪んでいく。
夫に対する疑念、重大な秘密、過去の深い傷、狭いコミュニティでの息苦しさ。事件の謎とともに、登場人物それぞれが隠し持つ真実も明かされていく。日本のテレビドラマでも、2クールに1本はありそうな道具立てだが、女性の著者とあって、抑えた筆致と細やかな心理描写で読ませる。

加えていま気になるのは、舞台である町の設定だ。地域を支える工場に不況の影が迫り、雇用も不安。加えて人種対立や治安の悪化が、人々の心をささくれ立たせている。毎晩、何者かが道にまき散らしていくガラス片や、割られる窓。均質なはずの中流社会が直面する、崩壊の予感。
豊かな消費を象徴するT型フォードのお膝元は、やがて犯罪都市と呼ばれ、2013年ついに財政破綻に至るけれど、それにはまだまだ間がある。本作はその2013年発刊というから、のちのトランプ政権誕生を踏まえているわけでもない。それでも、時代の気分を感じさせる1冊だ。翻訳ミステリー大賞シンジケート発起人のひとり田口俊樹と、不二淑子の訳。(2017・2)

June 15, 2015

その問題、経済学で解決できます。

経済学は人のありとあらゆる情緒に真っ向から取り組む学問だ。世界全体を実験室に使い、社会をよりよくできる結果を出せる、そんな科学である。

「その問題、経済学で解決できます。」ウリ・ニーズィー、ジョン・A・リスト著(東洋経済新報社)

不勉強を承知でいうと、個人的には経済学というのはパソコンに向かって、金融とか財政とか労働とか貿易とかについて、小文字のいっぱいついた数式をいじくっている学問、というイメージがある。だけど1992年にノーベル経済学賞を受けたベッカーを持ち出すまでもなく、経済学の思考法を応用して、切羽詰まった社会問題を解決しようとしている人が、世界にはいっぱいいる。その手法のひとつ「実地実験」で何がわかるのかを、応用ゲーム理論などの研究者が平易に解説したのが本書だ。

冒頭、私がかねて疑問に思っていることに言及していて、まず興味をひかれた。つまり流行りのビッグデータからは面白い結論を導けるけど、単に「相関」という事実だけでなく、何らかの働きかけに役立つ「因果」をどうやって知るのか、ということ。著者たちはこの難問解決に、実地実験が効くと主張する。

例えば低所得家庭の子供の、ドロップアウトやら妊娠やら暴力やらについて、実験によって解決策を見つけられるか? 実際、著者らはシカゴの公立学校や保育園で、子供の成績をあげるため、ご褒美と罰金のプログラムを試す。そして科学的な方法に基づいて正しいインセンティブを与えれば、貧困家庭の子供たちは10カ月で、裕福な家庭の子供たちに負けない能力を身につけられる、といった結論に達する。

困っているなら思い込みを捨てて、仮説と実験によって、本当に効く解決策を見つけようよ、というメッセージだ。もちろん日本の教育現場で、マーケティングキャンペーンそのもののABテストをしちゃうなんて、現時点では難しい気がする。
実験できたとしても、結果の解釈については議論がありそうだし、実験費用という壁もある。なにしろ著者らはアイデアだけでなく行動力も凄くて、ヘッジファンド創業者夫妻を口説いてかなりの資金を引き出しているのだ。とはいえ筆致が明るいので、読んでいると意外に早く、日本の経済学も変わっていくかも、と思えてくる。

ちなみに社会問題よりは馴染み深い、経営への応用例も登場。会計サービスのインテュイットでは社員が自分で思いついたプロジェクトに、勤務時間の10%を使い、経済学者よろしく、仮説と実験・検証を手掛けて、業績アップを実現しているという。どうやら話題のデザイン思考というものにも、実地実験が重要な役割を果たすらしい。このへんは日本でも、すでに実践している企業が多そうだ。
読みやすい訳は「ヤバい経済学」などでお馴染み、望月衛。(2015年)



February 06, 2015

その女アレックス

人は本当の意味で自分自身に向き合うとき、涙を流さずにはいられない。

「その女アレックス」ピエール・ルメートル著(文春文庫)

2011年にフランスで刊行し、イギリス推理作家協会賞を受賞。さらに翻訳が2014年のミステリーランキング海外部門を総なめにした話題の犯罪小説を、電子書籍で。

とにかくテンポが速い。思わず振り返るような30歳の美女、アレックスがパリの路上でいきなり拉致されるところから始まって、壮絶な暴力描写が畳みかけられる。目を覆うばかりのシーンが続くのだけれど、同時に謎の女の正体、事件の様相そのものが二転三転していくので、感情をぶんぶん振り回されて読むのを止められない。何はともあれ、サスペンスや警察ものなど異質なミステリー要素を1作に盛り込み、ぐいぐい引っ張る筆力は並大抵でない。

人物の造形も強烈。なんといっても幼く、几帳面で、悲壮なタイトロールの存在が異彩を放つ。ずっと持ち歩いている思い出のガラクタとか、細部が鮮やかだ。
一方、アレックスを追うカミーユ警部のキャラも独創的で、身長145センチの小柄な体に刑事魂と反骨がみなぎる一方、過去経験した悲劇によって心に傷を抱えている。そんなカミーユの深い孤独が、姿なきアレックスと共鳴していく展開がなんとも切ない。
けれどもカミーユはアレックスとは違う。皮肉で気難しいたちなのに、彼に負けず劣らず個性的な仲間たちが理解し、見守っていて、それは殺伐とした小説の中で一筋の救いになっている。

ショッキングな描写のあざとさや、一人称語りによる矛盾、破綻など、難点を指摘する声もあるらしい。確かにお世辞にも爽快とは言えないし、肝心なところが理屈に合わない気もするけれど、強引なまでに読者を引っ張るパワーを持つことは間違いない。橘明美訳。(2015・1)