January 11, 2021

「井上ひさし」を読む

井上構想によれば、まず劇場の前に飲み屋街を作る。そして、そこで五〇人の未亡人を雇う。(略)芝居を観終わった後は、未亡人たちが経営するその五〇軒の飲み屋さんで必ず飲むようにするーー。今は「未亡人」ではなく、「寡婦」と言いますね。

「『井上ひさし』をよむ 人生を肯定するまなざし」小森陽一、成田龍一編著(集英社新書)

2010年急逝した作家・劇作家の作品と「趣向」を読み解く座談会6編。誰もが井上ひさしが生きていたら、と思った2011年から、「すばる」で断続的に掲載したものだ。
個人的な井上ひさし体験は、そう豊富ではないのだけれど、震災の年に観た「たいこどんどん」や2018年の「夢の裂け目」に、感銘を受けてきた。その背景を知りたくて、手にとった。

日本近代文学、近現代日本史の研究者2人がホストとなり、大江健三郎や西武劇場オーナーとしての辻井喬ら、豪華メンバーが参加。それぞれが思い入れたっぷりに井上ひさしの魅力を語る。これだけの人物たちを引きつけてやまないことが、まず圧倒的だ。
その魅力の中身というと、実に広範囲。歴史をとらえるシビアな姿勢から、愚かな人間への温かい視線、猥雑で目の前の人を喜ばさずにはいられないサービス精神まで、企みに満ちている。情報量が多くて、まあ、一筋縄ではいかないということが、よくわかりました…

井上ひさし初心者として新鮮だったのは、平田オリザを招いた鼎談。新書化にあたって2019年、語りおろしたという。1993年の日本劇作家協会設立時に、新劇でもアングラでもない井上を初代会長に引っ張り出した経緯だとか、井上が生前語っていた劇場の公共性、「広場」の役割に関する構想とか、いわば社会と劇作家の接点に触れている。
遅筆のあまり、舞台現場に大変な苦労をさせたことで知られる井上。それでも晩年、戯曲が上演されて生き続けることに力を入れていた、という逸話も印象的だ。浅草で鍛えられた、一期一会の創造性。巻末には「組曲虐殺」初演時の2009年、作家自ら参加した座談会も収録。井上ひさしの作品世界、まだまだ勉強したいです。(2021.1)

October 29, 2018

現代経済学の巨人たち

二十世紀に経済学は本当に科学として進歩したのだろうか。実はこの素朴な疑問に答えることは意外に難しい。

「現代経済学の巨人たち 20世紀の人・時代・思想」日本経済新聞社編(日経ビジネス人文庫)
お馴染みケインズ、シュンペーターから、ベッカー、コンピューターの父ノイマンまで20人。今更ながら、歴史的な著名経済学者の列伝を読む。
巨人たちの思想や功績、天才ぶりを解説した1993年の日経連載を、94年に単行本化、さらに2001年に文庫化。20年近くたって読んでも、引用の問いは決して古びていない。すなわち、果たして経済学に真理はあるのか。
もともとは当時の「やさしい経済学」欄に掲載した原稿というけれど、案の定、素人にとって記述は決して易しくない。著者のほうも吉川洋、猪木武徳ら、そうそうたる経済学者の面々だから、それも致し方ないところ。むしろ書き手の思い入れや主張がにじんでいて、興味深い。
ここで明らかになる泰斗たちの主張の開きは、経済学というノーベル賞も与えられるれっきとした学問が、現実の問題を解決するうえでは、決して普遍的な決め手にたどりついていないということの証しに思える。
20人の出身はバラバラだけれど、ほとんどが英米を拠点にして活躍してきた。そして21世紀の今、経済学は中国という、新たな経済大国の体制、仕組みをどう理解するか、新しい課題に直面している。英米という軸以外の新たな発想が求められるのかもしれない。
またGAFAに代表されるデータエコノミー、巨大プラットフォーマーの影響と制御も、前世紀の巨人たちの念頭にはなかったテーマだ。もっとも技術革新の帰結としての、富の偏在やポピュリズムの台頭は、いつかみた景色なのに、アカデミズムからは有効な対策が提示されてはいない。卓越した知性をもってしても、経済学に終わりがないのは、人間社会そのものの難しさの写し絵なのだろうか。(2018・10)

January 27, 2018

SHOE DOG

寝てはいけない夜がある。自分の最も望むものがその時やってくる。

「SHOE DOG. 靴にすべてを。」フィル・ナイト 著(東洋経済)

ナイキ創業者の疾風怒濤の起業家人生。危機また危機の、リアル「陸王」だ。
60年代、オレゴン大学の陸上選手だった若者が世界一周の旅に出て、日本製シューズと出会い、輸入販売のビジネスに踏み出す。それから約20年。常に綱渡りの資金繰り、取引先との訴訟、新製品のリコール。日本の中小企業と変わらず何度も追い詰められながらも、世界ブランドを築き上げ、上場を成し遂げる。ハラハラドキドキ、面白すぎて550ページ弱を一気読み。

間違いなくナイトは聖人君子ではない。無茶なはったりやら、勝手な人事やらも赤裸々。おそらく記述には、一方的な言い分も含まれるだろう。
それでも散りばめられたユーモアと、苦しいときほど、むくむくと頭をもたげる闘争心が、なんとも痛快だ。ウィンブルドンで「気が荒いから近づかないでください」と忠告され、たちまち魅せられたというプレーヤーが、当時まだハイスクールの学生だったマッケンロー、という逸話が洒落ている。
これがオレゴン魂というものか。やんちゃ揃いの幹部たちとの冒険の果てに、自分のしていることは単なるビジネスではなく、創造なんだ、と宣言するくだりが感動的。「単に生きるだけでなく、他人がより充実した人生を送る手助けをするのだ。もしそうすることをビジネスを呼ぶならば、私をビジネスマンと呼んでくれて結構だ」。格好いいなあ。

日本との縁が深いのも興味深い。シューズビジネスへの道を拓いたオニツカ(現アシックス)とは結局、激しく争うことになってしまった。一方で、危機を救ったのは日商岩井(現双日)の商社マンの慧眼。いまアシックスの経営者が双日出身というのも運命の不思議かも。ドライブ感満載の名訳は大田黒奉之。(2018・2)

September 17, 2016

あなたが消えた夜に

人の何かに触れる時、いつもそれは漂うように自分の中に残り、気持ちが微かにざわついていく。車に乗り、シートに身体をあずける。彼女が自分の孤独の中に帰っていく。そして僕も。

「あなたが消えた夜に」中村文則著(毎日新聞出版)

暗い。ものすごく暗くて、初出がほぼ1年にわたる新聞連載というのが信じられないくらいだ。でも、なぜかどんどん読み進んでしまう。

分類すれば警察小説。刑事の1人称語りで、第一部では無差別な通り魔”コートの男”事件を追い、第二部では衝撃的な連続殺人を明らかにしていく。そして第三部が犯人の手記。
とにかく損なわれた人物ばかりが次々に登場する。被害者も、加害者も、加害者を追う刑事たちも。まともな組織人は輪郭がぼやけて、名前さえさだかでない存在として扱われる。
損なわれ方に共通項があって、互いに共鳴し合い、どんどん歪んでいくのが、なんともやりきれない。孤独、虐待、依存、嗜癖、洗脳、独占欲、喪失、復讐、罪の意識…。決して猟奇的過ぎるわけではないのだが、思わず目を背けたくなるような狭くて息苦しい世界。しかも真相はやぶの中だ。

たぶん世の中は綺麗ごとじゃない。理不尽な不幸は日常にごろごろしている。では果たして人間は、何があれば引き返すことができるのか。少なくとも宗教や医療ではないということか。
ラストの3人称シーンに救いがほのめかされるけれど、行く末は不透明だろう。重いテーマ、複雑な人間関係を、ずうっと考え続ける著者のタフさに舌を巻く。

若い刑事コンビ、所轄の中島と、相棒になる捜査一課の小橋さんのやり取りが、暗い道程にぽつぽつと灯りをともすようで、ストーリーを引っ張っていく。2人は人間の闇を理解するだけに、なんとか食い止めよう、踏みとどまらせようと、誠実にもがいている。
特に天然で、空気を読まない小橋さんの発言が、実にいい味。ふだん素っ頓狂なだけに、2人が張り込み中、ついに抱えている秘密を語り合うシーンが胸に響く。「全部見せてしまえる存在」というものの、かけがえのなさ。(2016・9)

July 01, 2016

永い言い訳

幸夫くん。もう私、行かなきゃなんだけど。

 

「永い言い訳」西川美和著(文藝春秋)

 

人気作家・幸夫は、すでに心の離れていた妻を、突然の事故で亡くす。テレビカメラの前で悲しみを語りながら、実際には涙も出ず、心中冷え冷えとした日々。そこへ大宮家の面々、同じ事故で亡くなった妻の親友の夫・陽一、幼い子供・真平と灯が現れる。

 

まず幸夫の造形が絶妙だ。女性にもてて、知的でクイズ番組なんかに出ながら、物書きとしては行き詰まりを感じている。子供の頃から、名前の読みがマッチョな野球選手と同じなことを嫌がってきた、自意識のかたまり。売れないころ生活を支えた妻に、ずっと引け目がぬぐえなかった、いじけ虫。
ネガティブで身勝手で面倒臭くて、つくづくリアルだ。大人はたいてい、リアルを上手に隠して生きていくのだ。突然、配偶者を失ったりしなければ。

トラック運転手の陽一は、対照的に率直だ。子供たちも健気に、突然母に去られたショックと戦う。幸夫はそんな大宮家の面々に、柄にもなく関わって、心惹かれ、苛立ち、傷つける。そしてたどり着く、きっぱりと、さびしい背中。

 

「人生は、他者だ」。心に染みいる言い訳を綴れるようになるまで、編集者やら、妻の同僚やら、事故遺族のドキュメンタリーを撮るクルーのアシスタントやら、幸夫をとりまく数多くの視点をつないで、心理の揺れを表現していく。それぞれに説得力があって、読みやすい。
著者は言わずと知れた、才色兼備の映画監督にして作家。巧いです。2016年に映画化。(2016・6)

 

 

 

 

June 22, 2016

インド旅行記1

いざ彼の地に足を踏み入れてみると、想像を遥かに凌ぐハプニング続きで、たかだか映画一本の撮影を終えたくらいで疲れたなどと言ってはいられないほど、無秩序で壮絶な現実が目の前に横たわっていた。

「インド旅行記1 北インド編」中谷美紀著(幻冬舎文庫)

今夏の個人的テーマである、インド関連本の1冊目に手にとった。かつて知人に勧められた旅行記で、女優さんが単身インドへ向かう。
ヨガ体験が目的だそうで、いわゆるインド一人旅のイメージからすると、のんびりめだ。消毒のためチューブのワサビをなめつつ、ガイドを雇って定番の観光地を巡る。アシュラム(滞在型のヨガセンター)は覗くだけで、ホテルにとまってマッサージを受けたりして、けっこう贅沢だ。

そうかと思うと胃腸の不調やら、しつこい物売りやらはもちろん、パスポートを盗まれて警察に行くといった大事件にも遭遇。読みすすみつつ、おおっとのけぞるだけど、面白いのはそういうイライラする出来事も、割合淡々と綴っているところ。彼女自身がものに動じない性格なのかもしれないけど、なんだかインドという土地が、あまりに多様で矛盾に満ちているせいかも、と思えてくる。(2016・6)

November 07, 2015

あなたは、誰かの大切な人

 ねえ永美。こうしてみると、けっこう、悪くないかもよ。結婚ってものは。
 かわいいもんよ。……男ってやつは。

「あなたは、誰かの大切な人」原田マハ著(講談社)

田中哲司、小栗旬というキャストにひかれて観た2人芝居「RED」。モチーフとなっていた現代美術家ロスコの「シーグラム壁画」に触れたくて、佐倉のDIC川村記念美術館まで足を運び、著者のトークイベントに参加。装丁に壁画を使った短編集を買って帰った。
本屋大賞第3位など、文学賞の常連だけど、意外に読むのは初めてだ。決して凝ってはいない平易な表現で、平凡な庶民の、しかし当事者にとっては平凡ではすまされない人生の岐路をしみじみ描く。

主人公はこつこつ働いて、それなりの年齢になった女性たち。ふと足をとめ、よく知っているはずの親や友を思うことで、改めて親子や夫婦の愛情というものを噛みしめる。誰にでも何かしら覚えがあるような感情が、泣かせます。美術館の「ロスコ・ルーム」も効果的に登場。
意地悪くみちゃうと、ベタなセンチメンタルとも言えるものの、旅先というシチュエーションが多いので、現実との距離がうまく調節されている。特に「皿の上の孤独」の、乾いたメキシコシティの風景が鮮やかだ。いつか行ってみたいものです。(2015・11)

June 15, 2015

その問題、経済学で解決できます。

経済学は人のありとあらゆる情緒に真っ向から取り組む学問だ。世界全体を実験室に使い、社会をよりよくできる結果を出せる、そんな科学である。

「その問題、経済学で解決できます。」ウリ・ニーズィー、ジョン・A・リスト著(東洋経済新報社)

不勉強を承知でいうと、個人的には経済学というのはパソコンに向かって、金融とか財政とか労働とか貿易とかについて、小文字のいっぱいついた数式をいじくっている学問、というイメージがある。だけど1992年にノーベル経済学賞を受けたベッカーを持ち出すまでもなく、経済学の思考法を応用して、切羽詰まった社会問題を解決しようとしている人が、世界にはいっぱいいる。その手法のひとつ「実地実験」で何がわかるのかを、応用ゲーム理論などの研究者が平易に解説したのが本書だ。

冒頭、私がかねて疑問に思っていることに言及していて、まず興味をひかれた。つまり流行りのビッグデータからは面白い結論を導けるけど、単に「相関」という事実だけでなく、何らかの働きかけに役立つ「因果」をどうやって知るのか、ということ。著者たちはこの難問解決に、実地実験が効くと主張する。

例えば低所得家庭の子供の、ドロップアウトやら妊娠やら暴力やらについて、実験によって解決策を見つけられるか? 実際、著者らはシカゴの公立学校や保育園で、子供の成績をあげるため、ご褒美と罰金のプログラムを試す。そして科学的な方法に基づいて正しいインセンティブを与えれば、貧困家庭の子供たちは10カ月で、裕福な家庭の子供たちに負けない能力を身につけられる、といった結論に達する。

困っているなら思い込みを捨てて、仮説と実験によって、本当に効く解決策を見つけようよ、というメッセージだ。もちろん日本の教育現場で、マーケティングキャンペーンそのもののABテストをしちゃうなんて、現時点では難しい気がする。
実験できたとしても、結果の解釈については議論がありそうだし、実験費用という壁もある。なにしろ著者らはアイデアだけでなく行動力も凄くて、ヘッジファンド創業者夫妻を口説いてかなりの資金を引き出しているのだ。とはいえ筆致が明るいので、読んでいると意外に早く、日本の経済学も変わっていくかも、と思えてくる。

ちなみに社会問題よりは馴染み深い、経営への応用例も登場。会計サービスのインテュイットでは社員が自分で思いついたプロジェクトに、勤務時間の10%を使い、経済学者よろしく、仮説と実験・検証を手掛けて、業績アップを実現しているという。どうやら話題のデザイン思考というものにも、実地実験が重要な役割を果たすらしい。このへんは日本でも、すでに実践している企業が多そうだ。
読みやすい訳は「ヤバい経済学」などでお馴染み、望月衛。(2015年)



December 25, 2014

歌舞伎 家と血と藝

本書は、戦国武将列伝の歌舞伎役者版を描くつもりで書かれる。歌舞伎をあまり観たことのない人にも、あたかも戦国時代の武将たちの興亡のドラマを読むような感覚で読んでいただければ、ありがたい。

「歌舞伎 家と血と藝」中川右介著(講談社現代新書)

クラシック音楽などもカバーする1960年生まれの評論家が、明治からの歌舞伎の「家」の勢力図を解説する。選んだのは、2013年の歌舞伎座新開場こけら落とし公演で主役を務めた役者のいる家7つ。

ここ数年、劇場に足を運ぶようになった素人歌舞伎ファンにとっては、なかなか勉強になる1冊だ。現代では貴族階級はいなくなったけど、歌舞伎役者は擬似的貴族だと著者は指摘する。歌舞伎座の主役の座という「権力」を握るためには、芸の実力、人気はもちろん、政治力が必要であり、その裏付けになるのが門閥という格式なのだそうだ。
まさに戦国武将の世界だ。役者は今やテレビのバラエティーやCMに出演したり、家族まで公開したブログが話題になったり、とても身近な存在だ。むしろそのタレント性を売り物にしている感もある。それなのにいまだに昔ながらの価値観が脈々と生きて、それが国民的合意になっているってことが、とっても不思議。

門閥の歴史をたどるうえでは、個々の芸談よりも「権力」をめぐる栄枯盛衰に重点を置いている。確執やらスキャンダルやら、バックステージに表舞台さながらのドラマが満載なのは期待通り。
もっとも肝心の人間関係があまりに複雑なので、正直、読んでいてかなりこんがらがる。襲名を繰り返して同じ人物の名前がどんどん変わっちゃうし、養子とか部屋子とか、でも実子かもしれないとか、さらに門閥を超えて結婚したり、養子縁組したりが多くて、誰と誰が甥だか孫だか。だからこそ、少しでも歴史を頭に入れて、それぞれの役者が受け継ごうとしている「型」へのこだわりや背負っているものに感情移入できれば、観劇の味わいが増すということなんだろう。そのレベルに到達すると、観る側も深みにはまりそうだな。

というわけで「リアル戦国」は非常に特殊な、閉じた世界のストーリーなのだが、読み進むうちに普遍的な人間社会の要素も浮かんでくる。
家柄が立派な役者で、芸や人気が十分であっても、本人が権力に強く拘泥しなければ、決して長く主役というポストに君臨できない。また本人の力と意欲が十分でも、上の世代がスター揃いだとなかなか主役が回ってこなくて、結局トップに上り詰められない。
だから最近の出来事でいえば、12代目市川団十郎、18代目中村勘三郎という巨星を早く失ったことは、ファンとしてとても残念だけれど、その分、市川海老蔵、尾上菊之助、市川染五郎、中村勘九郎・七之助ら息子の世代にスポットがあたり、彼らの成長がぐんと楽しみになる。宝塚やジャニーズにも一脈通じる完成した興行モデルであり、伝統芸能継承の仕掛けといえるかもしれない。(2014・12)

March 06, 2014

去年の冬、君と別れ

この世界にいる人間は、多かれ少なかれ、復元されてるんじゃないだろうか?

「去年の冬、君と別れ」中村文則著(幻冬舎)

とっても格好良かった2009年の「掏摸」。英訳され、ウオール・ストリート・ジャーナルの2012年ベストミステリー10作に入って話題にもなりました。本作は再び、淡々とした読みやすい筆致だけれど、なかなか一筋縄でいかないミステリーだ。

物語はあるライターが取材のため、死刑判決を受けた男と接見するところから始まる。となると、シリアルキラーの内面を探る犯罪心理ものか、はたまた美女と人形という道具立てから乱歩風の猟奇ものなのか?などと思って読み進んでいると、見事に裏切られる。
曲者は、一人称の語りだろう。加害者はもとより、被害者、その関係者… この事件でいったい誰が、何の役割を果たしているのか。どんどん混沌としていく展開のなかからやがて、いびつな欲望と報復の構図が明らかになっていく。伏線が実に緻密だ。

興味深いのは伝説の人形師に、失った人そっくりの人形をオーダーするといった、「本物を復元して、その複製に執着する」という人間心理を軸にしていること。一見異常なエピソードなんだけど、実はストーカーとか熱狂的なアイドルファンとか、とても身近で現代的なところにあるものだと気づかされて、ぞっとする。
どんでん返しがちょっと懲りすぎていて、正直「掏摸」ほどには、スタイリッシュな緊迫感は味わえないかもしれない。とはいえ、細い彫刻刀で削り込んでいくような独特の世界は健在だ。これからも要注目の作家です。