September 17, 2016

あなたが消えた夜に

人の何かに触れる時、いつもそれは漂うように自分の中に残り、気持ちが微かにざわついていく。車に乗り、シートに身体をあずける。彼女が自分の孤独の中に帰っていく。そして僕も。

「あなたが消えた夜に」中村文則著(毎日新聞出版)

暗い。ものすごく暗くて、初出がほぼ1年にわたる新聞連載というのが信じられないくらいだ。でも、なぜかどんどん読み進んでしまう。

分類すれば警察小説。刑事の1人称語りで、第一部では無差別な通り魔”コートの男”事件を追い、第二部では衝撃的な連続殺人を明らかにしていく。そして第三部が犯人の手記。
とにかく損なわれた人物ばかりが次々に登場する。被害者も、加害者も、加害者を追う刑事たちも。まともな組織人は輪郭がぼやけて、名前さえさだかでない存在として扱われる。
損なわれ方に共通項があって、互いに共鳴し合い、どんどん歪んでいくのが、なんともやりきれない。孤独、虐待、依存、嗜癖、洗脳、独占欲、喪失、復讐、罪の意識…。決して猟奇的過ぎるわけではないのだが、思わず目を背けたくなるような狭くて息苦しい世界。しかも真相はやぶの中だ。

たぶん世の中は綺麗ごとじゃない。理不尽な不幸は日常にごろごろしている。では果たして人間は、何があれば引き返すことができるのか。少なくとも宗教や医療ではないということか。
ラストの3人称シーンに救いがほのめかされるけれど、行く末は不透明だろう。重いテーマ、複雑な人間関係を、ずうっと考え続ける著者のタフさに舌を巻く。

若い刑事コンビ、所轄の中島と、相棒になる捜査一課の小橋さんのやり取りが、暗い道程にぽつぽつと灯りをともすようで、ストーリーを引っ張っていく。2人は人間の闇を理解するだけに、なんとか食い止めよう、踏みとどまらせようと、誠実にもがいている。
特に天然で、空気を読まない小橋さんの発言が、実にいい味。ふだん素っ頓狂なだけに、2人が張り込み中、ついに抱えている秘密を語り合うシーンが胸に響く。「全部見せてしまえる存在」というものの、かけがえのなさ。(2016・9)

June 22, 2016

インド旅行記1

いざ彼の地に足を踏み入れてみると、想像を遥かに凌ぐハプニング続きで、たかだか映画一本の撮影を終えたくらいで疲れたなどと言ってはいられないほど、無秩序で壮絶な現実が目の前に横たわっていた。

「インド旅行記1 北インド編」中谷美紀著(幻冬舎文庫)

今夏の個人的テーマである、インド関連本の1冊目に手にとった。かつて知人に勧められた旅行記で、女優さんが単身インドへ向かう。
ヨガ体験が目的だそうで、いわゆるインド一人旅のイメージからすると、のんびりめだ。消毒のためチューブのワサビをなめつつ、ガイドを雇って定番の観光地を巡る。アシュラム(滞在型のヨガセンター)は覗くだけで、ホテルにとまってマッサージを受けたりして、けっこう贅沢だ。

そうかと思うと胃腸の不調やら、しつこい物売りやらはもちろん、パスポートを盗まれて警察に行くといった大事件にも遭遇。読みすすみつつ、おおっとのけぞるだけど、面白いのはそういうイライラする出来事も、割合淡々と綴っているところ。彼女自身がものに動じない性格なのかもしれないけど、なんだかインドという土地が、あまりに多様で矛盾に満ちているせいかも、と思えてくる。(2016・6)

November 07, 2015

あなたは、誰かの大切な人

 ねえ永美。こうしてみると、けっこう、悪くないかもよ。結婚ってものは。
 かわいいもんよ。……男ってやつは。

「あなたは、誰かの大切な人」原田マハ著(講談社)

田中哲司、小栗旬というキャストにひかれて観た2人芝居「RED」。モチーフとなっていた現代美術家ロスコの「シーグラム壁画」に触れたくて、佐倉のDIC川村記念美術館まで足を運び、著者のトークイベントに参加。装丁に壁画を使った短編集を買って帰った。
本屋大賞第3位など、文学賞の常連だけど、意外に読むのは初めてだ。決して凝ってはいない平易な表現で、平凡な庶民の、しかし当事者にとっては平凡ではすまされない人生の岐路をしみじみ描く。

主人公はこつこつ働いて、それなりの年齢になった女性たち。ふと足をとめ、よく知っているはずの親や友を思うことで、改めて親子や夫婦の愛情というものを噛みしめる。誰にでも何かしら覚えがあるような感情が、泣かせます。美術館の「ロスコ・ルーム」も効果的に登場。
意地悪くみちゃうと、ベタなセンチメンタルとも言えるものの、旅先というシチュエーションが多いので、現実との距離がうまく調節されている。特に「皿の上の孤独」の、乾いたメキシコシティの風景が鮮やかだ。いつか行ってみたいものです。(2015・11)

June 15, 2015

その問題、経済学で解決できます。

経済学は人のありとあらゆる情緒に真っ向から取り組む学問だ。世界全体を実験室に使い、社会をよりよくできる結果を出せる、そんな科学である。

「その問題、経済学で解決できます。」ウリ・ニーズィー、ジョン・A・リスト著(東洋経済新報社)

不勉強を承知でいうと、個人的には経済学というのはパソコンに向かって、金融とか財政とか労働とか貿易とかについて、小文字のいっぱいついた数式をいじくっている学問、というイメージがある。だけど1992年にノーベル経済学賞を受けたベッカーを持ち出すまでもなく、経済学の思考法を応用して、切羽詰まった社会問題を解決しようとしている人が、世界にはいっぱいいる。その手法のひとつ「実地実験」で何がわかるのかを、応用ゲーム理論などの研究者が平易に解説したのが本書だ。

冒頭、私がかねて疑問に思っていることに言及していて、まず興味をひかれた。つまり流行りのビッグデータからは面白い結論を導けるけど、単に「相関」という事実だけでなく、何らかの働きかけに役立つ「因果」をどうやって知るのか、ということ。著者たちはこの難問解決に、実地実験が効くと主張する。

例えば低所得家庭の子供の、ドロップアウトやら妊娠やら暴力やらについて、実験によって解決策を見つけられるか? 実際、著者らはシカゴの公立学校や保育園で、子供の成績をあげるため、ご褒美と罰金のプログラムを試す。そして科学的な方法に基づいて正しいインセンティブを与えれば、貧困家庭の子供たちは10カ月で、裕福な家庭の子供たちに負けない能力を身につけられる、といった結論に達する。

困っているなら思い込みを捨てて、仮説と実験によって、本当に効く解決策を見つけようよ、というメッセージだ。もちろん日本の教育現場で、マーケティングキャンペーンそのもののABテストをしちゃうなんて、現時点では難しい気がする。
実験できたとしても、結果の解釈については議論がありそうだし、実験費用という壁もある。なにしろ著者らはアイデアだけでなく行動力も凄くて、ヘッジファンド創業者夫妻を口説いてかなりの資金を引き出しているのだ。とはいえ筆致が明るいので、読んでいると意外に早く、日本の経済学も変わっていくかも、と思えてくる。

ちなみに社会問題よりは馴染み深い、経営への応用例も登場。会計サービスのインテュイットでは社員が自分で思いついたプロジェクトに、勤務時間の10%を使い、経済学者よろしく、仮説と実験・検証を手掛けて、業績アップを実現しているという。どうやら話題のデザイン思考というものにも、実地実験が重要な役割を果たすらしい。このへんは日本でも、すでに実践している企業が多そうだ。
読みやすい訳は「ヤバい経済学」などでお馴染み、望月衛。(2015年)



December 25, 2014

歌舞伎 家と血と藝

本書は、戦国武将列伝の歌舞伎役者版を描くつもりで書かれる。歌舞伎をあまり観たことのない人にも、あたかも戦国時代の武将たちの興亡のドラマを読むような感覚で読んでいただければ、ありがたい。

「歌舞伎 家と血と藝」中川右介著(講談社現代新書)

クラシック音楽などもカバーする1960年生まれの評論家が、明治からの歌舞伎の「家」の勢力図を解説する。選んだのは、2013年の歌舞伎座新開場こけら落とし公演で主役を務めた役者のいる家7つ。

ここ数年、劇場に足を運ぶようになった素人歌舞伎ファンにとっては、なかなか勉強になる1冊だ。現代では貴族階級はいなくなったけど、歌舞伎役者は擬似的貴族だと著者は指摘する。歌舞伎座の主役の座という「権力」を握るためには、芸の実力、人気はもちろん、政治力が必要であり、その裏付けになるのが門閥という格式なのだそうだ。
まさに戦国武将の世界だ。役者は今やテレビのバラエティーやCMに出演したり、家族まで公開したブログが話題になったり、とても身近な存在だ。むしろそのタレント性を売り物にしている感もある。それなのにいまだに昔ながらの価値観が脈々と生きて、それが国民的合意になっているってことが、とっても不思議。

門閥の歴史をたどるうえでは、個々の芸談よりも「権力」をめぐる栄枯盛衰に重点を置いている。確執やらスキャンダルやら、バックステージに表舞台さながらのドラマが満載なのは期待通り。
もっとも肝心の人間関係があまりに複雑なので、正直、読んでいてかなりこんがらがる。襲名を繰り返して同じ人物の名前がどんどん変わっちゃうし、養子とか部屋子とか、でも実子かもしれないとか、さらに門閥を超えて結婚したり、養子縁組したりが多くて、誰と誰が甥だか孫だか。だからこそ、少しでも歴史を頭に入れて、それぞれの役者が受け継ごうとしている「型」へのこだわりや背負っているものに感情移入できれば、観劇の味わいが増すということなんだろう。そのレベルに到達すると、観る側も深みにはまりそうだな。

というわけで「リアル戦国」は非常に特殊な、閉じた世界のストーリーなのだが、読み進むうちに普遍的な人間社会の要素も浮かんでくる。
家柄が立派な役者で、芸や人気が十分であっても、本人が権力に強く拘泥しなければ、決して長く主役というポストに君臨できない。また本人の力と意欲が十分でも、上の世代がスター揃いだとなかなか主役が回ってこなくて、結局トップに上り詰められない。
だから最近の出来事でいえば、12代目市川団十郎、18代目中村勘三郎という巨星を早く失ったことは、ファンとしてとても残念だけれど、その分、市川海老蔵、尾上菊之助、市川染五郎、中村勘九郎・七之助ら息子の世代にスポットがあたり、彼らの成長がぐんと楽しみになる。宝塚やジャニーズにも一脈通じる完成した興行モデルであり、伝統芸能継承の仕掛けといえるかもしれない。(2014・12)

March 06, 2014

去年の冬、君と別れ

この世界にいる人間は、多かれ少なかれ、復元されてるんじゃないだろうか?

「去年の冬、君と別れ」中村文則著(幻冬舎)

とっても格好良かった2009年の「掏摸」。英訳され、ウオール・ストリート・ジャーナルの2012年ベストミステリー10作に入って話題にもなりました。本作は再び、淡々とした読みやすい筆致だけれど、なかなか一筋縄でいかないミステリーだ。

物語はあるライターが取材のため、死刑判決を受けた男と接見するところから始まる。となると、シリアルキラーの内面を探る犯罪心理ものか、はたまた美女と人形という道具立てから乱歩風の猟奇ものなのか?などと思って読み進んでいると、見事に裏切られる。
曲者は、一人称の語りだろう。加害者はもとより、被害者、その関係者… この事件でいったい誰が、何の役割を果たしているのか。どんどん混沌としていく展開のなかからやがて、いびつな欲望と報復の構図が明らかになっていく。伏線が実に緻密だ。

興味深いのは伝説の人形師に、失った人そっくりの人形をオーダーするといった、「本物を復元して、その複製に執着する」という人間心理を軸にしていること。一見異常なエピソードなんだけど、実はストーカーとか熱狂的なアイドルファンとか、とても身近で現代的なところにあるものだと気づかされて、ぞっとする。
どんでん返しがちょっと懲りすぎていて、正直「掏摸」ほどには、スタイリッシュな緊迫感は味わえないかもしれない。とはいえ、細い彫刻刀で削り込んでいくような独特の世界は健在だ。これからも要注目の作家です。

October 20, 2012

贖罪の奏鳴曲

死んだ人間の分まで懸命に生きろ。決して楽な道を選ぶな。

「贖罪の奏鳴曲(ソナタ)」中山七里著(講談社) ISBN: 9784062173773

弁護士・御子柴礼司は雨の夜、ある犯罪に手を染めた。その真意とは。「このミス」大賞作家の一冊を電子書籍で。

2つの事件が絡み合いつつストーリーが進む。1つは小さな製材所の経営者の死。妻の美津子に保険金殺人の疑いがかけられて公判中だ。もう1つの事件はある雨の夜に起きたフリーライターの死。被害者はあえて美津子の弁護を引き受けた辣腕弁護士・御子柴と接点があった。一癖ある御子柴の身辺を洗い始めた埼玉県警の刑事、渡瀬と古手川は、彼の隠された過去を知る。

果たして見かけ通りの冷血漢なのか、それとも…。寡黙な御子柴の複雑な人物像が、読む者をぐっと引き込む。彼の過去を丹念にたどっていく部分は、リアリティはともかくとして、こってりした人間ドラマの色彩だ。その分、謎解きはちょっとあっけない感じがしちゃうし、決して後味がいいとも言えないものの、なかなか読み応えがあった。(2012・9)

October 20, 2011

「世界をやりなおしても生命は生まれるか?」

動く油滴は、いくつかの化学反応式と、それを表す数式で表現できてしまう。でも、生命はそんな簡単なもので表現できないはず、というのもガット・フィーリングだ。でも数式では表現できない「何か」って、いったい何だろう?

「世界をやりなおしても生命は生まれるか?」長沼毅著(朝日出版社) ISBN: 9784255005942

1961年生まれ、極地や深海など辺境の「極限生物」の探究で知られる著者が高校生を相手に、生命とは何かという大問題を説く。広島大学附属福山中・高等学校での講演、および高校生10人との3日にわたる対話の記録。

語り下ろし形式は、「単純な脳、複雑な『私』」(池谷裕二著)や「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」(加藤陽子著)と同じ。抜群に面白かった2作に比べると、ずいぶん難しく感じてしまったのは、当方の生物学に関する知識が乏しすぎるせいです。

勝手に動いたり、分裂したりする油滴(ケミカル生命)。はたまたパソコン上で動くデジタル生命。いろいろな「生命っぽくみえるもの」を例にあげながら、「そうはいっても、直感的にこれは生命ではないと感じる(ガット・フィーリング)、その理由」を考察して、生命を生命たらしめるものに迫っていく。

読んだことがある「ワンダフル・ライフ」(スティーブン・ジェイ・グールド著)とか、「眼の誕生」(アンドリュー・パーカー著)の内容にも触れていて、そのあたりまでは数式のくだりを飛ばしつつも、なんとか付いていったと思う。けれど話題はどんどん進んで、宇宙のエントロピーとか「散逸構造」とか、哲学めいたテーマにまで到達しちゃう。あとで調べたら、散逸構造のノーベル賞受賞は1977年。私の常識がないだけで、生物学ってとっくに凄いことになっているらしい、と情けなくも痛感した一冊。(2011・10)

February 26, 2011

そういうものだろ、仕事っていうのは

「体が温まったら、休む元気も出てくるさ」

「そういうものだろ、仕事っていうのは」重松清、野中柊、石田衣良、大崎善生、盛田隆二、津村記久子著(日本経済新聞出版社) ISBN: 9784532171049

「働く」を共通テーマに、6人の人気作家がリレーした短編集。

同じテーマで、こうも違うかと言うぐらい、それぞれの個性が出ていて面白い。重松さんは定年後、よりによって駅の立ち食い蕎麦屋に再就職した(というかアルバイト)父に対する、息子の複雑な思いを、丹念に描いていてホロリとさせる。かと思えば津村さんはごくごく普通のカイシャの、半径5メートルの人間模様をコミカル、かつ的確に描き出して痛快。

味わいは違うけれど、必ずどこかに共感のタネがしこまれている感じだ。日経電子版掲載の小説シリーズ第1弾。(2011・2)

July 23, 2010

「小さいおうち」

 東京でオリンピックが開かれたのは、昭和十五年ではなくて、三十九年だと、いまでは誰もが知っている。
 けれど、昭和十年には、五年後には東京大会が開かれると、それこそ誰もが思っていた。

「小さいおうち」中島京子著(文藝春秋) ISBN: 9784163292304

昭和初期の東京郊外。赤い三角屋根の文化住宅で、女中として過ごしたタキの回想。

久々に、もっていかれた。はらはらドキドキするとか、作家が提示する世界に圧倒されるとかとは違う。気持ちを丸ごと、ぐんともっていかれて、夢中になって読んだ。

物語の大半を占める、タキの手記が秀逸。270ページを費やして生き生きと、平井家で暮らした日々を描く。たった2畳の板の間だけど、田舎からひとり出てきた10代の少女にとって、与えられた部屋は大切な自分の居場所だ。ささやかな誇りをもって家事を取り仕切り、体の弱いぼっちゃんの世話を焼き、たまには京橋のアラスカや日本橋三越での楽しい食事にお相伴する。
過不足のないディテールと、散りばめられた愛らしいユーモアに引き込まれ、読む者はやがて物語のなかの空気をともに呼吸し始める。まるでジャック・フィニイの「ふりだしに戻る」のように。

二十代の若奥さま、時子のなんと輝いていることか。美しいものが好き。といっても、大変な贅沢をするのではない。ちょっとした、きらきらしたものを愛おしむ。子どもっぽく駄々をこねたりもするけれど、その気性にはきっぱりした面がある。甘やかな、若さの記憶。

物語にまんまとどっぷり浸かってしまったから、ラスト50ページほどの「最終章」の展開には本当に驚き、そして切ない気持ちを味わった。見事な構成力。人には長い長い時間をかけなければ、気付けないことがある。時代や社会がどこへ向かっているのかも、自分がとった行動のわけも、そのとき何を求めているのかさえも。

古い雑誌のような装丁も美しい。直木賞受賞。(2010・7)