献灯使
脳味噌から脳味噌に目に見えない信号が飛び、それが無意識のうちに特定の人々によって同意され、同意した者の口座には自動的に儲けが振り込まれるという新しい世界経済の仕組みがとっくに成立している。今のところ生物学者も経済学者もこの新しい汚職メカニズムの存在をうまく実証することができないが、なんとなくそういうことではないかと感じている人間は特に詩人たちの中にはたくさんいる。
「献灯使」多和田葉子著(講談社)
ノーベル文学賞の季節になるといつも名前があがる作家の代表作のひとつを、初めて読む。うねりつつ、どんどん走る文体。淡々と軽快に描かれるディストピアの不気味さに、シュルリアリズムの絵画を観るようで今ひとつ入り込めないまま、読み進んだ。どこかつながりがある中短編5作で構成。
表題作に登場する小説家の義郎は、100歳を超えていっこうに死なない。一方で、面倒を見ている曾孫の無名は、美しいけどひどく虚弱だ。食べることも歩くことも満足にできない。殺伐とした「仮設住宅」暮らしで、ネットも車もない。
都心は住むと健康に害がある地域となっていて、ゴーストタウン化。世界の多くの国は鎖国し、民営化された日本政府は機能しているのかしていないのか。すべてが宙づりで曖昧で、ゆっくりと静かに崩壊している。
こ難しい説明はないけれど、どうやら背景に巨大地震と深刻な原発事故があるようで、不自由な鎖国の様子は、今読めばコロナ禍も連想される。突飛なディストピアも他人事ではなく、細部が妙に身にしみて、背筋が寒くなる。
視点はあくまで普通の個人。大変な災厄のなかにあって、何が原因でどこへ向かっているのか、しかとはわからない。わからないながらも、生きていくしかなく、いっそ清明でみずみずしくさえある。外来語が禁じられてジョギングを「駆け落ち」と呼ぶとか、そこここに脱力するようなユーモアが漂うのも凄い。秘密結社から密航する子供に選ばれた無名の運命が気になるけど…
2014年に単行本出版、2018年に英訳版出版。2018年全米図書賞翻訳部門受賞。(2024/9)