September 30, 2024

献灯使

脳味噌から脳味噌に目に見えない信号が飛び、それが無意識のうちに特定の人々によって同意され、同意した者の口座には自動的に儲けが振り込まれるという新しい世界経済の仕組みがとっくに成立している。今のところ生物学者も経済学者もこの新しい汚職メカニズムの存在をうまく実証することができないが、なんとなくそういうことではないかと感じている人間は特に詩人たちの中にはたくさんいる。

「献灯使」多和田葉子著(講談社)

ノーベル文学賞の季節になるといつも名前があがる作家の代表作のひとつを、初めて読む。うねりつつ、どんどん走る文体。淡々と軽快に描かれるディストピアの不気味さに、シュルリアリズムの絵画を観るようで今ひとつ入り込めないまま、読み進んだ。どこかつながりがある中短編5作で構成。

表題作に登場する小説家の義郎は、100歳を超えていっこうに死なない。一方で、面倒を見ている曾孫の無名は、美しいけどひどく虚弱だ。食べることも歩くことも満足にできない。殺伐とした「仮設住宅」暮らしで、ネットも車もない。
都心は住むと健康に害がある地域となっていて、ゴーストタウン化。世界の多くの国は鎖国し、民営化された日本政府は機能しているのかしていないのか。すべてが宙づりで曖昧で、ゆっくりと静かに崩壊している。
こ難しい説明はないけれど、どうやら背景に巨大地震と深刻な原発事故があるようで、不自由な鎖国の様子は、今読めばコロナ禍も連想される。突飛なディストピアも他人事ではなく、細部が妙に身にしみて、背筋が寒くなる。

視点はあくまで普通の個人。大変な災厄のなかにあって、何が原因でどこへ向かっているのか、しかとはわからない。わからないながらも、生きていくしかなく、いっそ清明でみずみずしくさえある。外来語が禁じられてジョギングを「駆け落ち」と呼ぶとか、そこここに脱力するようなユーモアが漂うのも凄い。秘密結社から密航する子供に選ばれた無名の運命が気になるけど…

2014年に単行本出版、2018年に英訳版出版。2018年全米図書賞翻訳部門受賞。(2024/9)

 

May 22, 2024

一千字の表うら

唯一の自慢は、すべて自分が目を通した作品のみを使ったことである。『チボー家の人々』も『大菩薩峠』も、何ヶ月もかかって読了した上で用いた。

「一千字の表うら」出久根達郎著

博覧強記の著者による「読んでためになる」文学案内。ただの粗筋ではなく、作中の印象的なシーンから著者の来歴まで、ぎゅっと一千字に詰め込んだのだから、面白くないわけがない。公明新聞での足かけ8年にわたった連載をまとめた、貴重な私家版の1冊。

李白やバルザック、井上靖…にまじって、聞いたこともない作家、作品も次々登場する。13世紀ペルシア文学を代表するサアディーの詩集なんて、どこから見つけてくるのか。
驚いたのは、あの楽劇王ワーグナーの小説「ベートーヴェンまいり」。熱烈なベートーヴェンファンによる架空の会見記だとか。知らなかったなあ。まあ、あの長大なオペラ台本をほとんど、ひとりで書いたのだから、言われてみれば小説があっても頷ける。次項ではその「ベートーヴェンまいり」を含む小説集の翻訳者、高木卓が1940年になんと芥川賞を辞退しちゃった、前代未聞の事件を紹介。
黙阿弥の項では、死後に「弁天小僧」が無断上演され、娘が訴えて大審院(最高裁)まで争った歴史的著作権裁判を取り上げ、坪内逍遙が弁護した縁で長女に婿養子を世話したとき、永井荷風も候補のひとりだった、とか、もうそれだけで小説になる楽しいエピソードが満載だ。

ジョイスの項によると、著者は古書店員だった10代の頃、世界文学事典収録の作家を片っ端から1作ずつ読むという「野望」を抱き、短編、特に自伝的なものを選んで毎日、何年か続けたという。サラッと書いているけれど、凄い蓄積。この名エッセイストが清少納言の項を、「これぞ随筆。」と結んでいるのがまた、感慨深い。(2024/5)

December 10, 2023

第三のチンパンジー

ヒトを人間にした鍵となるほんのわずかな中身とは何だったのでしょうか?

「第三のチンパンジー 上下」ジャレド・ダイヤモンド著(日経ビジネス人文庫)

1998年ピューリッツァー賞の「銃・病原菌・鉄」が話題だった、UCLAの進化生物学・生物地理学者の初期の著作を読んでみた。遺伝子ではチンパンジーと1.6%しか違わない人間が、言語によってユニークさを獲得していく過程をたどる。
読んでいくと人間、なかでも地球上を席巻した欧州人が、決して特別に優秀な存在ではなく、素晴らしい技術も芸術も、逆に救いがたいジェノサイドも環境破壊も、すべては猿から地続きのものだと思えてくる。分野をまたぐ論考なので正直、どうも展開が大雑把な印象はぬぐえないんだけど、たまたま居住地域に機動力があって飼いやすい動物=馬がいた民族が、戦争する能力と躍進を手に入れた、という解説は面白かった。

後半は当初の問いよりも、自らの存在を脅かすジェノサイドと環境破壊に警鐘を鳴らすことに力点がおかれている感じ。問題の所在ややるべきことは明らかで、実際動き出してもいるのだから、皆が理解すれば破滅は止められると、結論もちょっと大雑把に明るい。
行動生態学の長谷川真理子、寿一夫妻の訳で1993年出版、その後の研究の進展を訳注に追加して、2023年に文庫化。原著ペーパーバック版の補遺も収録した完全版とのことです。(2023/12)

October 14, 2023

言語が違えば、世界も違って見えるわけ

フランス語はロマンス諸語のひとつであるだけでなく、現実のロマンスにもぴったりの言語だ。英語は順応性があるのを通り越して、来るもの拒まずでなんでも受け入れてしまう。そして、イタリア語は…そう、イタリア語は…
 この手の単純明快な考察は、ディナーの席の会話に彩りを添えることが多い。言語とその話し手のさまざまな特徴というのは、あれこれつつき回すのに格好の話題だからである。しかし、この高尚なテーマが和気あいあいとしたディナーの場を離れ、冷え冷えとした書斎に持ち込まれると、冷めたらしぼむスフレよろしくあっというまに潰れてしまうーーよくいって面白いが無意味、悪くすると頑迷な珍説に過ぎないからである。

「言語が違えば、世界も違って見えるわけ」ガイ・ドイッチャー著(ハヤカワノンフィクション文庫)

母語に固有の特徴は、意外な形で、話し手の外界を知覚するやり方に影響を及ぼす。そんな最新の研究を、1969年生まれ、イスラエル出身の言語学者が一般向けに解説した。「フランス語のエスプリは英語には無い、フランス人は英国人よりエスプリに富んでいるのは当然」といったお洒落な言説をきっぱりと否定。言語と認知の関係をあくまで学問的に解き明かしていて、地味なんだけれど真摯な論理展開に好感をもてる。

とりあげるのは例えば、古代ギリシャ、ホメロスの色彩表現。海も牛も「葡萄酒色」ってどういうこと? 世界がモノクロに見えていたのか? あるいはドイツ語の名詞で、象はオスもメスも男性、キリンは女性って?
最もユニークなのはオーストラリア先住民のグーグ・イミディル語における位置関係の表現だ。自分を中心とせず、東西南北の絶対座標軸を使うという。「私の右側」ではなく「私の西側」というふうに。なんて刺激的。

経済の結びつきやネットの普及で「社会」のサイズが大きくなると、言語は誰にでも理解しやすいように特徴を失い、どんどん単純になっていくらしい。合理的だけれど、それって寂しく感じられる。巻末に膨大な原註、参考文献付き。椋田直子訳。(2023/10)

May 06, 2023

官邸官僚が本音で語る権力の使い方

経済再生担当大臣だった甘利明さんは、内閣官房の幹部が何人かで出向いたときに、「俺は役人を使いまくる」と言いました。「おまえらを徹底的に使うぞ」と言われて、役人はその言葉に奮い立ったんです。

「官邸官僚が本音で語る権力の使い方」兼原信克、佐々木豊成、蘇我豪、髙見澤將林著(新潮選書)

お馴染み兼原氏の座談会シリーズをさらっと。今回は「官邸一強」と言われた第二次安倍政権で、内閣官房副長官補を務めた財務省、外務省、防衛省の3人と、朝日新聞の政治記者が、官僚が強い総理にどう仕え、どう政策目的を達成するか、を語りあう。2023年3月発刊だけど、座談会を開いたのは2022年7月6日、元総理襲撃の2日前とのこと。
素材は安倍政権に限らず、実際に語り手たちが関わったり、先輩から見聞したりした意思決定のシーンで、危機管理、予算編成、通商交渉など多岐にわたる。官僚は職位の高低ではなく、最高権力者=総理との「距離」がパワーであり、パワーの衝突が仕事を滞らせたりする、といった解説がリアルだ。政治家たちの人物評のほか、あるべき体制についても安全保障局との規模とか、内閣官房と内閣府の切り分けとか、具体的に論じる。
まあ、後半はいつも通り、兼原氏、髙見澤氏が安保を語りまくるわけだけど。なかでもインテリジェンスに力が入っているのが印象的。(2023.5)

September 25, 2022

気候で読み解く人物列伝 日本史編

名君として誉れ高い吉宗の人生に一点の影を落としたのは、梅雨前線による大気の流れに乗って大陸から渡って来るわずか5ミリ以下の小さな虫であった。

「気候で読み解く人物列伝 日本史編」田家康著(日本経済新聞出版)

最近ニュースで耳にして、2011年「世界史を変えた異常気象」で興味深かった独ソ戦と気象の関係を思い出した。同じ著者(副業・気象予報士)による最新刊。今回は日本史上の英傑たち個人に焦点を当て、その運命を左右した気象を読み解く。どれほど怜悧、果断の傑物でも、自然災害や疫病は人知を超えていく。

そもそも1000年以上も前の天気をどうやって知るのか、が興味津々だ。例えば寺社仏閣に残る古文書で、長雨や日照りに際して捧げた祈祷の記録をたどっていくあたり、途方もなく粘り強い探偵のよう。また疫病や飢饉に直面し、国家が食料などを緊急放出(振給)した記録には、いつの時代も為政者に期待されるものは変わらないのだなあ、と思わせる。

本書のもうひとつの柱はもちろん、歴史の解説だ。奈良時代、戦国、江戸とさまざまな時代をとりあげて、その転機を詳しく記述。巻末に並んだ参考文献が、並大抵でない勉強量を思わせる。(2022.9)

July 10, 2022

彩は匂へど

その一門に、面白いお人がおいでとか。聞いた話では、お前様と馬が合いそうな気がいたしんす。

「彩は匂へど」田牧大和著(光文社文庫)

講談などで知られた絵師の暁雲、後の英一蝶と、芭蕉一番弟子の其角との友情を描くシリーズ2冊目。今回は出会いのエピソードで、二人が協力して、深川・芭蕉庵での投げ文騒動を解明する時代ミステリーだ。
琉球の悲劇という主題はひどく悲しく、いつになく全編が沈んでいる。琉歌と俳句を織り交ぜた謎かけも、ちょっと複雑過ぎるかな。とはいえ、才気煥発、失礼千万な若い其角と、その面白さをおおらかに受け止める一蝶の関係性は微笑ましい。(2022.7)

June 26, 2022

自衛隊最高幹部が語る台湾有事

東シナ海のような半閉鎖海で紛争が起きれば、必ず沿岸国を巻き込むのである。

「自衛隊最高幹部が語る台湾有事」岩田清文、武居智久、尾上定正、兼原信克著(新潮新書)

シリーズ3冊目は武居・元海上幕僚長がホストとなり、前半でシナリオ別シミュレーションを収録。研究者や議員らが参加して、2021年8月に実施したというが、2022年になって起きたウクライナ侵攻によって、残念ながら、より懸念を呼ぶタイムリーなテーマとなったしまった。
後半はお馴染み、武居のほか岩田・元陸上幕僚長、尾上・元航空自衛隊補給本部長、兼原・元国家安全保障局次長による座談会だ。台湾との連絡経路やサイバー防衛、邦人移送の難しさなど、ずいぶんネタばらしに思えるけれど、その分野ではいずれも常識の範囲なのだろう。
いたずらに危機をあおらず、冷静で前向きな対話の姿勢が重要なのは、いうまでもない。そのうえで、米軍のミサイル持ち込みなど、微妙なところを一部の専門家任せでなく、広く議論しておける土壌が求められる気がする。(2022.6)

 

April 17, 2022

核兵器について、本音で話そう

戦後、核兵器を巡る議論は欧州を中心に展開した。英仏の核武装、ドイツを始めとしたアメリカの同盟国の安全保障、アジアでの米国の同盟網創設、NPT(核兵器不拡散条約)体制の発足など、戦後の主要な外交、安全保障問題にはほとんど核問題が絡んでいた。
 日本は、半世紀近く続いた冷戦の期間中、陸上国境で強大なソ連軍と接していた欧州ほどの軍事的緊張感をついぞ抱かなかった。

「核兵器について、本音で話そう」太田昌克、兼原信克、高見澤將林、番匠幸一郎著(新潮新書)

「令和の国防」に続き、外務官僚で元国家安全保障局次長の兼原信克氏がホストを務める座談会だ。2021年9月の収録だが、刊行が2022年2月となり、ロシアがウクライナの原発を一時占拠する事態が発生。タイムリーな論考となった。
国家安全保障局次長を経てジュネーブ軍縮会議日本政府代表部大使を務める元防衛官僚、元陸将、そして長年核問題をカバーしてきた元共同通信論説委員という顔ぶれ。台湾、北朝鮮やロシアの現状、サイバー・宇宙防衛との関係などを論点に、歴史的な経緯やドイツとの比較、近年のアジアにおける急激な情勢変化を確認していく。
「核シェアリング」とNPT(核兵器不拡散条約)との関係等、議論は必ずしも収束しない。だからこそ、幅広いリテラシーの深化が必要だと、強く思わせる1冊だ。(2022.5)

 

June 13, 2021

令和の国防

アメリカは、一体、インド太平洋地域のどこまでを軍事力を使って守るだろうかというリアリティチェックが必要です。米国の国力は無限ではありません。

「自衛隊最高幹部が語る 令和の国防」岩田清文、武居智久、尾上定正、兼原信克著(新潮選書)

外交官で、2014年新設の国家安全保障局で次長も務めた兼原信克氏が舞台回しを務めた、陸海空の元自衛隊幹部による座談会。2020年6月収録なので、バイデン米大統領の誕生前だし、コロナ禍もまだ半ばではあるが、台湾有事をめぐる危機感など、その後の議論を先取りする部分も多い。

まず歴史と国際情勢を学び、現実を直視して、冷静に分析すべし。そして責任ある立場の者が、責任ある場で逃げずに議論すべし、という論調には、多くの示唆がある。一方で、具体的な人員とか予算とかに話題が及ぶと、自らの組織第一の意識が見え隠れしてきて、胸がざわざわするのは否めない。こういう組織の論理が結局、国家の道を誤らせることになるのでは、と。

巻末には具体的な提言も。まずはこの意味を広く議論できるリテラシーの普及が必要、あまり時間は残されていないのでは、と思えてならない。(2021.6)

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