September 24, 2023

悪童日記

ぼくらが記述するのは、あるがままの事物、ぼくらが見たこと、ぼくらが聞いたこと、ぼくらが実行したこと、でなければならない。

「悪童日記」アゴタ・クリストフ著(ハヤカワepi文庫)

270ページほどの文庫本に、度しがたい戦争の不条理、人間の醜さが詰まっている。壮絶な貧困、むき出しの欲望、孤絶と死。目を背けたいけど、背けてはならないものが、徹底して乾いた文章で綴られて鮮烈だ。随分前から気になっていた小説。このタイミングで読んで、余計に重い。

形式は、双子の少年がこっそり書いていた作文だ。戦時下、二人は〈大きな町〉を逃れ、〈小さな町〉の外れに住む祖母の家に預けられる。祖母は愛情のかけらもなく、文盲で不潔で吝嗇。環境は想像を超える劣悪さだ。双子はお互いだけを頼りに盗みも暴力も、手段を選ばずサバイブし、それをありのまま淡々と綴っていく。狡猾で、全く可愛げはない。

仏文学者・堀茂樹の訳注によると、二次大戦時のハンガリー・クーセグが念頭にあるという。オーストリア国境に位置し、ナチスドイツ支配下。男たちは戦線へ動員され、ユダヤ人が収容所へ引き立てられていく。終盤で〈解放者たち〉がやってくるが、それはソ連軍であり、支配が全体主義から全体主義へと移行するだけ。

著者は少女時代にクーセグで暮らし、1956年のハンガリー動乱で活動家の夫、乳飲み子とスイスへ亡命したという。個人的には、かつて観光でブダペストを訪れたとき、動乱で処刑されたナジ首相の像に衝撃を受けたことを思い出す。多くの観光客が訪れる国会議事堂近くに立ち、気のせいか哀しげに議事堂のほうを見つめていて、なんと足下には戦車の轍。この像が2019年に移設されたというニュースに接したとき、また暗い気持ちになった。
そして今。国境を接するウクライナへのロシア侵攻で、ハンガリー現政権はEUやNATOの加盟国でありながら、制裁に反対するなど親ロシアの立場をとる。オスマン帝国やハプスブルク帝国の支配も受けてきた中欧の、一筋縄でいかない歴史の重みと、進行中の現在。たまたま居合わせた個人の人生が、なんと過酷なことか。

そう考えていくと、この小説で双子が学問や宗教はおろか、親の愛さえきっぱりと否定する幕切れには圧倒されるけれど、どこか爽快でもある。生ぬるい同情や善悪をはるかに超えて、凜と立つ一個の生命。続編があるというけれど、この唐突なラストが、いい。
1986年、著者による初の小説で、翻訳は1991年刊行。今だからこそ、多くの人に読んでほしいと思う。(2023.9)

September 13, 2023

ヴェルディ

ヴェルディの見事な人生は、「建国神話」にふさわしいものだったのだろう。政治的意図がなかったとしても、彼は時代に必要とされた存在だったのではないだろうか。

「ヴェルディ オペラ変革者の素顔と作品」加藤浩子著(平凡社新書)

素敵な音楽物書き、加藤浩子が愛してやまない巨匠ヴェルディの評伝から楽曲解説まで、全てをぎゅっと詰め込んだ一冊。

当然ながら内外の文献、楽譜をじっくり読み込んでいるので、通り一遍ではない。例えば、有名なオペラ「ナブッコ」の〈行け、わが想いよ〉をめぐる「神話」について。1842年、ミラノのスカラ座で初演された時、オーストリア占領下にあった聴衆が熱狂し、アンコールを要求したという。そして今も第二の国歌と呼ばれるほど愛され、ヴェルディはイタリア統一の象徴になっている。
でも、実は初演でアンコールされたのは、別の曲だった。著名な音楽家であると同時に立派な事業家であり、晩年は慈善家でもあった彼だからこそ神話になりえたのだと、読み解いていく。

圧巻はやっぱり後半のオペラ全26作の解説。粗筋から聴きどころ、創作の背景までを網羅していて、絶好のガイドになっている。巻末には音楽用語の解説も。こうして眺めてみると、意外になかなか上演されない作品もけっこうある。2013年初版なので、お勧め歌手の章は残念ながら古くなりつつあるけれど、その情報の更新も含めて、まだまだ知らないヴェルディがあるなあと、楽しみが増える読書体験だ。(2023.9)

May 06, 2023

官邸官僚が本音で語る権力の使い方

経済再生担当大臣だった甘利明さんは、内閣官房の幹部が何人かで出向いたときに、「俺は役人を使いまくる」と言いました。「おまえらを徹底的に使うぞ」と言われて、役人はその言葉に奮い立ったんです。

「官邸官僚が本音で語る権力の使い方」兼原信克、佐々木豊成、蘇我豪、髙見澤將林著(新潮選書)

お馴染み兼原氏の座談会シリーズをさらっと。今回は「官邸一強」と言われた第二次安倍政権で、内閣官房副長官補を務めた財務省、外務省、防衛省の3人と、朝日新聞の政治記者が、官僚が強い総理にどう仕え、どう政策目的を達成するか、を語りあう。2023年3月発刊だけど、座談会を開いたのは2022年7月6日、元総理襲撃の2日前とのこと。
素材は安倍政権に限らず、実際に語り手たちが関わったり、先輩から見聞したりした意思決定のシーンで、危機管理、予算編成、通商交渉など多岐にわたる。官僚は職位の高低ではなく、最高権力者=総理との「距離」がパワーであり、パワーの衝突が仕事を滞らせたりする、といった解説がリアルだ。政治家たちの人物評のほか、あるべき体制についても安全保障局との規模とか、内閣官房と内閣府の切り分けとか、具体的に論じる。
まあ、後半はいつも通り、兼原氏、髙見澤氏が安保を語りまくるわけだけど。なかでもインテリジェンスに力が入っているのが印象的。(2023.5)

January 31, 2023

16人16曲でわかるオペラの歴史

イタリアオペラの武器が「歌」で、ドイツオペラの武器が「オーケストラ」なら、フランスオペラのそれは「バレエ(フランス語では「バレ」)」と「演劇」なのである。

「16人16曲でわかる オペラの歴史」加藤浩子著(平凡社新書)

オペラはエンタメとして、とびきりゴージャスだと思う。ピットにひしめくオーケストラ、マイク無しで大劇場を圧する歌手、キラキラから不条理まで演劇としてのセットや衣装… この希有な芸術が17世紀イタリアの宮廷から現代まで、いかに進化し、生き残ってきたか、わかりやすく案内する一冊だ。
時系列に16人+1人の作曲家、それぞれ1作にスポットをあてる。聴き手の変化、すなわち貴族からベネチアなどの富裕な商人、近代の権力者、一般大衆へという移り変わりが、オペラを変えてきたことがくっきり。作曲家それぞれの横顔も、生き生きと描かれていて楽しい。恋多きプッチーニは、だからこそ、あれだけのヒットドラマを書けたのかも。
秀逸なのは、オペラ情報サイトの上演統計を手がかりに、いま現在どう聴かれているかを紹介しているところ。よく上演される作品には、曲の魅力はもちろんのこと、上演にかかる時間とか、ソロ歌手が何人必要かとか、興行として成立させるための必然性もある。そう知ってみるとかえって、定番の人気演目に加えて、なかなか上演されない演目にも興味がわいてくる。新国立劇場でベッリーニあたりをもっと上演してほしい、なんて。楽しくて奥深い世界です。
朝日カルチャーセンターのオンライン講座をもとに書籍化。(2023.1)

November 15, 2022

国難に立ち向かう新国防論

核戦争の可能性を考慮したとき、軍事介入をしないというアメリカの姿を世界が初めて見たということです。

「国難に立ち向かう新国防論」河野克俊、兼原信克著(ビジネス社)

お馴染みの安全保障の論客による対談集。一連の新潮新書での主張と重複も多いが、実際に政策論議が動いているだけに、2人の影響力が感じられる。本編とは別に、2人がそれぞれ海上自衛隊と外務省の課長として遭遇した2001年の米国同時多発テロを振り返っていて、主張が形作られる背景や論客たちの人間関係も垣間見える。(2022.11)

June 26, 2022

自衛隊最高幹部が語る台湾有事

東シナ海のような半閉鎖海で紛争が起きれば、必ず沿岸国を巻き込むのである。

「自衛隊最高幹部が語る台湾有事」岩田清文、武居智久、尾上定正、兼原信克著(新潮新書)

シリーズ3冊目は武居・元海上幕僚長がホストとなり、前半でシナリオ別シミュレーションを収録。研究者や議員らが参加して、2021年8月に実施したというが、2022年になって起きたウクライナ侵攻によって、残念ながら、より懸念を呼ぶタイムリーなテーマとなったしまった。
後半はお馴染み、武居のほか岩田・元陸上幕僚長、尾上・元航空自衛隊補給本部長、兼原・元国家安全保障局次長による座談会だ。台湾との連絡経路やサイバー防衛、邦人移送の難しさなど、ずいぶんネタばらしに思えるけれど、その分野ではいずれも常識の範囲なのだろう。
いたずらに危機をあおらず、冷静で前向きな対話の姿勢が重要なのは、いうまでもない。そのうえで、米軍のミサイル持ち込みなど、微妙なところを一部の専門家任せでなく、広く議論しておける土壌が求められる気がする。(2022.6)

 

April 17, 2022

核兵器について、本音で話そう

戦後、核兵器を巡る議論は欧州を中心に展開した。英仏の核武装、ドイツを始めとしたアメリカの同盟国の安全保障、アジアでの米国の同盟網創設、NPT(核兵器不拡散条約)体制の発足など、戦後の主要な外交、安全保障問題にはほとんど核問題が絡んでいた。
 日本は、半世紀近く続いた冷戦の期間中、陸上国境で強大なソ連軍と接していた欧州ほどの軍事的緊張感をついぞ抱かなかった。

「核兵器について、本音で話そう」太田昌克、兼原信克、高見澤將林、番匠幸一郎著(新潮新書)

「令和の国防」に続き、外務官僚で元国家安全保障局次長の兼原信克氏がホストを務める座談会だ。2021年9月の収録だが、刊行が2022年2月となり、ロシアがウクライナの原発を一時占拠する事態が発生。タイムリーな論考となった。
国家安全保障局次長を経てジュネーブ軍縮会議日本政府代表部大使を務める元防衛官僚、元陸将、そして長年核問題をカバーしてきた元共同通信論説委員という顔ぶれ。台湾、北朝鮮やロシアの現状、サイバー・宇宙防衛との関係などを論点に、歴史的な経緯やドイツとの比較、近年のアジアにおける急激な情勢変化を確認していく。
「核シェアリング」とNPT(核兵器不拡散条約)との関係等、議論は必ずしも収束しない。だからこそ、幅広いリテラシーの深化が必要だと、強く思わせる1冊だ。(2022.5)

 

December 19, 2021

「グレート・ギャツビー」を追え

きつい一日があったようなときには、僕はときどきこっそりここに降りてくる。そして鍵をかけて閉じこもり、本を引っ張り出すんだ。そして想像してみる。一九五一年にJ・D・サリンジャーであるというのは、どういうことだったんだろうってね。

「『グレート・ギャツビー』を追え」ジョン・グリシャム著(中央公論新社)

法廷もののヒットメーカーが意外にも、稀覯本取引をめぐるサスペンスを執筆、なんと村上春樹が翻訳。400ページをするする読めて楽しい。ハルキマジックもあると思うけど、後書きで訳者自身が「いったん読みだしたら止まらなくなった」と書いているから、掛け値無しなんだろう。

いきなりオープニングの疾走感、プリンストン大学から大胆不敵にも、フィッツジェラルドの直筆原稿が強奪されるくだりで引き込まれる。お約束、終盤の盛り上がりも期待通りで、コレクターと警察の息詰まる攻防は、スピーディーでスリル満点、かつ国境をまたいでスケールが大きい。そのままトム・クルーズに映画化してもらいたい。
もうひとつの大きな魅力は、美しいフロリダ・カミノ島で書店を営むブルース・ケーブルの人物造形だ。リッチで知的で圧倒的人たらし、本と小説家コミュニティーと女性たち(!)をこよなく愛する。こっちはブラピのイメージか。なにせ巧いです。

メーンの題材は稀覯本取引の、知られざる世界。大好きな出久根達郎さん著書に「作家の値段」というものがあって、文学的価値はもちろん重要だけれど、古書という資産としての価値も、十分ドラマチックなんだよなあ。出版ビジネスの事情も興味深い。著者による書店サイン会ツアーの悲喜こもごもとか。
ブルースが主人公の続編も出ているという。期待。(2021年12月)

September 26, 2021

最後通牒ゲームの謎

理屈をいくら説明されても気持ちのうえではどうにも納得がいかないと、多くの学生さんにそんな顔をされるほとんど唯一といっていいものが、この最後通牒ゲームです。

「最後通牒ゲームの謎」小林佳世子著(日本評論社)

あなたは被験者です。1000円を、もうひとりの被験者と分ける、いくら渡すかは自由だけど、相手が受け取りを拒否したら全額没収です。さていくら渡す? いくらだったら受け取る?
経済学の1分野、ゲーム理論の研究できわめてポピュラーだという「最後通牒ゲーム」は、しごくシンプルでありながら、「模範解答」を聞かされてもなかなか納得しづらい「謎」のモデルだ。人はなぜ、納得しづらいのか?

著者はたった一つの問いを徹底して吟味し、考えるための枠組みを求めて、実験経済学から神経経済学、脳科学、進化心理学へと突き進んでいく。見えてくるのは人の行動を左右するキーワード、すなわち共感、協調、裏切りへの反発、ゴシップ好き…。不合理にみえても、それぞれのキーワードには、壮大な人類生き残りの知恵が詰まっているのだ。ほお。

終始とぼけた筆致だし、繰り出される知見が面白くて、すいすい読める。しかし広範な先行研究を読み解き、組み立てていく知的運動量は並大抵でない。
これって経済学なの?と突っ込みつつ、ラストではちゃんと経済学の問題意識に帰ってくるあたりが爽快だ。それは「社会に生きるヒト」という存在が、どう意思決定するのか、そのクセを解明して、幸せな社会のシステムを作るっていうこと。

副題は「進化心理学からみた行動ゲーム理論入門」。入門というだけあって、素人は本文だけを、ちゃんと勉強したい人は「コラム」「補足」を、さらに興味があれば大量に紹介している参考文献をどうぞ、という構成が親切だ。第1版はちょこちょこ誤植があるのが、玉にキズだけど。(2021・9)

 

June 13, 2021

令和の国防

アメリカは、一体、インド太平洋地域のどこまでを軍事力を使って守るだろうかというリアリティチェックが必要です。米国の国力は無限ではありません。

「自衛隊最高幹部が語る 令和の国防」岩田清文、武居智久、尾上定正、兼原信克著(新潮選書)

外交官で、2014年新設の国家安全保障局で次長も務めた兼原信克氏が舞台回しを務めた、陸海空の元自衛隊幹部による座談会。2020年6月収録なので、バイデン米大統領の誕生前だし、コロナ禍もまだ半ばではあるが、台湾有事をめぐる危機感など、その後の議論を先取りする部分も多い。

まず歴史と国際情勢を学び、現実を直視して、冷静に分析すべし。そして責任ある立場の者が、責任ある場で逃げずに議論すべし、という論調には、多くの示唆がある。一方で、具体的な人員とか予算とかに話題が及ぶと、自らの組織第一の意識が見え隠れしてきて、胸がざわざわするのは否めない。こういう組織の論理が結局、国家の道を誤らせることになるのでは、と。

巻末には具体的な提言も。まずはこの意味を広く議論できるリテラシーの普及が必要、あまり時間は残されていないのでは、と思えてならない。(2021.6)

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