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February 10, 2026

春にして君を離れ

何日も何日も自分のことばかり考えてすごしたら、自分についてどんな新しい発見をすると思う?

「春にして君を離れ」アガサ・クリスティー著(早川書房クリスティー文庫)

地元ブックカフェの読書会で「春」がテーマになり、超久しぶりに再読。言わずと知れたミステリーの女王が1944年、メアリ・ウェストマコット名義で発表した「ロマンス小説」6作のうちのひとつだ。探偵も犯人も出てこないけれど、これは間違いなくミステリー。主人公が「自分自身の欺瞞」という最も恐ろしい真実を自ら暴いていく。そのプロセスが極上だ。

主人公の中年女性ジョーンは、弁護士の夫と1男2女に恵まれ、よき妻、よき母を自負し、人生に満足しきっている。ひとりでバグダッドに急病の末娘バーバラを見舞った帰り、悪天候でトルコ国境の宿泊所(レストハウス)に足止めされる。今と違ってネットもなく、思いがけず暇を持て余して、自分の来し方を回想し…

1930〜40年代のイギリス中産階級の規範が、ジョーンの強固なアイデンティティとなっている。今の日本に比べるとだいぶ古臭い感覚だけれど、扱うテーマは普遍的だ。自分は自分の人生を、実はわかっていなかったという衝撃。年齢を重ねて読むと、特に身に染みる。クリスティーがミステリー作家として「これだけは書きたかった」と語った心理ドラマの傑作で、長く構想を練り、3日で書きあげたという。さすが女王。
「完璧な人生」の自意識にひびが入るくだりは、読んでいてきっかけになるシーンが目に浮かぶよう。美しいタイトルも心に残る。原題は Absent in the Spring。これはシェイクスピアのソネット「From you」の1節、From you have I been absent in the springが元になっている。すなわち、あなた=愛すべき夫ロドニーのいない春なんて虚しいだけ。読み終わって、このフレーズがまたほろ苦い。

中村妙子訳。おりしも2026年はアガサ・クリスティー没後50年で記念イベントが多く、本作はまもなく新訳がでるとのことでした。(2026.2)

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