帰れない探偵
誰かが話すそのとき、その人が見ている光景。いつか確かに見た光景。どこかに確かにあった光景。それは、どこに行ってしまうのだろう。わたしはそれが見たいのに、ずっと見ることができない。
「帰れない探偵」柴崎友香著(講談社)
「今から十年くらいあとの話。」。1行目から、不思議な時空が広がる秀作だ。語り手は世界探偵委員会連盟に所属し、異国の地で活動する探偵の「わたし」。なぜか事務所兼住居への路地が見当たらなくなり、仮の宿を点々としている。まずこの浮遊感にぐっと引き込まれる。
そもそも「わたし」は10年前、探偵学校へ留学している間に、大災害と政変で帰国がままならなくなり、以来、連盟に指示されるまま、ひとり異国から異国へと移動している。古今東西、よそ者として生きることの不安が全編に漂う。周囲が「いるのに、いないことにしてしまってる」人々。通奏低音のように、なにやら巨大IT企業の陰謀めいた気配もある。普遍的な、ぼんやりとした空恐ろしさ。
けれど「わたし」が先々で引き受ける依頼はとても日常的で、出会う人生それぞれの手触りがあって、温かい。古書店に渡してしまった本を取り返してほしい、別れた恋人と同じ景色を見たいので、当時住んでいた部屋を探してほしい…
なにより各地の風景、人々の暮らしぶりがとてもリアルなのが魅力的だ。町の名は明示せず、登場人物もみな「(仮名)」で無国籍。けれど冒頭のケーブルカー七路線が張り巡らされた、急坂だらけの港町に、何故か昨夏訪れた南米のラパスの街並みが、ありありと浮かんだ。もちろんラパスは内陸なので全く違うのだけれど。四作目のやたらビールを呑む国の、世界の果てのような孤島では、読みながらずっと、数年前に旅したアイルランドの景色が浮かんでいた。ああ、この町には行ったことがある。
音楽の描写がまた美しい。路地を歩いてふいに響くスウィート・チャリオット。持って踊るとひゅうと音が鳴る青い水差し。どの町にも音楽があり、音楽があればそこが居場所になる。終盤の舞台は町ではなく、このトランプの時代を映すような混沌とした巨大空港。カオスの果てに、音楽が「わたし」にもたらすインパクトの、なんと爽快なことか。
読売文学賞小説賞受賞。(2026.1)
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