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January 31, 2026

帰れない探偵

誰かが話すそのとき、その人が見ている光景。いつか確かに見た光景。どこかに確かにあった光景。それは、どこに行ってしまうのだろう。わたしはそれが見たいのに、ずっと見ることができない。

「帰れない探偵」柴崎友香著(講談社)

「今から十年くらいあとの話。」。1行目から、不思議な時空が広がる秀作だ。語り手は世界探偵委員会連盟に所属し、異国の地で活動する探偵の「わたし」。なぜか事務所兼住居への路地が見当たらなくなり、仮の宿を点々としている。まずこの浮遊感にぐっと引き込まれる。

そもそも「わたし」は10年前、探偵学校へ留学している間に、大災害と政変で帰国がままならなくなり、以来、連盟に指示されるまま、ひとり異国から異国へと移動している。古今東西、よそ者として生きることの不安が全編に漂う。周囲が「いるのに、いないことにしてしまってる」人々。通奏低音のように、なにやら巨大IT企業の陰謀めいた気配もある。普遍的な、ぼんやりとした空恐ろしさ。

けれど「わたし」が先々で引き受ける依頼はとても日常的で、出会う人生それぞれの手触りがあって、温かい。古書店に渡してしまった本を取り返してほしい、別れた恋人と同じ景色を見たいので、当時住んでいた部屋を探してほしい…
なにより各地の風景、人々の暮らしぶりがとてもリアルなのが魅力的だ。町の名は明示せず、登場人物もみな「(仮名)」で無国籍。けれど冒頭のケーブルカー七路線が張り巡らされた、急坂だらけの港町に、何故か昨夏訪れた南米のラパスの街並みが、ありありと浮かんだ。もちろんラパスは内陸なので全く違うのだけれど。四作目のやたらビールを呑む国の、世界の果てのような孤島では、読みながらずっと、数年前に旅したアイルランドの景色が浮かんでいた。ああ、この町には行ったことがある。

音楽の描写がまた美しい。路地を歩いてふいに響くスウィート・チャリオット。持って踊るとひゅうと音が鳴る青い水差し。どの町にも音楽があり、音楽があればそこが居場所になる。終盤の舞台は町ではなく、このトランプの時代を映すような混沌とした巨大空港。カオスの果てに、音楽が「わたし」にもたらすインパクトの、なんと爽快なことか。
読売文学賞小説賞受賞。(2026.1)

January 04, 2026

「紀国の徳人」と「布衣の農相」

前田は答えた。「国家は自分だよ」
高橋が驚いた。「自分って……」

「『紀国の徳人』と『布衣の農相』」出久根達郎著(藤吾堂出版)

坂本龍馬、勝海舟、渋沢栄一… 私たちは大河ドラマなどで、明治日本を作り上げたヒーローに触れてきた。しかし決して華やかでなくても、社会の礎となった多くの人物がいる。時代小説やエッセーの名手が濱口梧陵、そして前田正名に焦点をあてた評伝だ。

梧陵は安政大地震で津波の襲来を察知し、田に火を放って人々を避難させた逸話「稲むらの火」で知られ、小泉八雲の著作に登場する。本家は紀州で、銚子ヤマサ醤油の7代目。富豪で志が高く、海舟や医師・関寛ら若者を支援したり、種痘所(東大医学部の源流)開設時に寄付したりした。
郵便事業を立案した前島密がイギリスに派遣された際、梧陵が初代の「駅逓頭」に起用されるが、わずか3週間で帰国した前島にとってかわられてしまう。著者は梧陵が飛脚のイメージを捨てきれず、前島のように西洋の文明を学んで発想を転換する必要を痛感したのでは、と推測する。なんと60歳を過ぎて世界一周の旅に出、ニューヨークで客死。

生真面目、高潔な梧陵の印象と対照的に、前田正名は破天荒でちょっとコミカル。薩摩藩士で、龍馬の命で薩長の秘密交渉に関わったりし、20歳そこそこでフランスに留学。そこで殖産興業を「百年の仕事」と思い定め、大久保利通に1878年パリ万博への参加と農産物の育種場開設を進言して許可される。その会談場所がなんと、西郷隆盛の挙兵で京都に置かれた大本営だったというから凄まじい。大久保利通には冷徹な官僚の権化のイメージをもっていたけれど、さすが慧眼だったんだなあ。
前田は農商務省で「真に国家のために計るとすれば、まず人民の暮らしを豊かにする策を立てるべきだ」と唱え、猛烈に働く。ところが猛烈すぎて反発を食い、山梨県知事に就くなど紆余曲折の末、42歳で野に下る羽目に。それでへこたれる正名ではなく、お得意の脚絆に草鞋、行李を背負って全国を行脚し、茶・生糸や陶器など工芸品の生産者を組織して輸出を促進。とにかくパワフルで、72年の生涯で欧米を8回視察した。

エピソード満載なんだけど、なかでも偉人たちの洋書への向き合い方が印象的だ。海舟は持ち主が寝ている夜間、半年通って兵法書を書き写した。諭吉も寝ずに築城書を写し、緒方洪庵に贈って入門を果たした。正名は海外渡航の資金を捻出すべく、仲間と日本初の活字英辞書「薩摩辞書」を出版…
これが筆者の、膨大な読書量と響きあう。先行する研究の類いはもとより、「薩摩辞書」やパリ万博時に前田が作・演出した戯曲に至るまでくまなく読破。実は正名の直筆書簡を数通持っているけれど、字が個性的で読めないとか。だから関連する話題はくめど尽きず、徳冨蘆花やら陸奥宗光やらが続々登場、その人物像がまたいちいち面白過ぎる。特に前田の盟友となった高橋是清! 大河ドラマが何本作れるやら。
全国市長会の機関誌「市政」での連載をまとめた。(2026.1)

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