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August 15, 2025

教養として学んでおきたい神社

ない宗教としての神道とある宗教としての仏教とは相性がいいとも言える。

「教養として学んでおきたい神社」島田裕巳著(マイナビ新書)

自宅本棚にあったごく簡単な新書を読んでみた。誰もが近所の散歩でも観光でもよく訪れ、スピリチュアルを持ち出さなくても、訪れれば自然に手を合わせる場所。そんな施設としての神社の成り立ちを、宗教学者が整理する。考え方の一部は伊勢や高千穂を訪れた際にも触れていて、断片的な知識がちょっとつながって面白い。

神道の神とは本居宣長が喝破したように、善良であっても、人に祟りをもたらす邪悪であってもおかまいなく、尋常でない、凄い存在ならすべて神だ、という概念にまずびっくり。だから古来の神話に登場する神に加えて、八幡神など神話以外の神、さらには菅原道真ら人間だった神と、どんどん増殖してきた。なるほど。
古典や絵巻物から、立派な建物としての「社殿」の起源を探るくだりは、研究者ならではだろう。いわく13世紀、鎌倉時代あたり、社殿の前に建つ「拝殿」になると14世紀と、意外に新しい。もっと時代をさかのぼると、ルーツは巨石=「磐座」に注連縄という自然信仰なのだという。こういう信仰のかたちは、アイルランドでもペルーでも見かけた世界共通のものではないか。8世紀ぐらいまでの沖ノ島では定まった建物どころか、祭礼をとりおこなう岩場や使う道具は一回限りで、終わったらそのまま放置していたという。

日本独特のようで、さらに面白いのは江戸期まで当たり前だった神仏習合だ。ヨーロッパでは土着の宗教がキリスト教にすっかり取り込まれた。例えば新約聖書にはキリストの誕生日の記述がなく、季節さえはっきりしない。土着の冬至の祭りを取り入れて12月25日にしたのだという。
ところが日本では国家が仏教を統治の基盤にしたにもかかわらず、神道もしっかり生き残った。すなわち本地垂迹説で、神の本当の姿(御正体)は仏、としちゃった。先日展覧会で観た平安時代の春日宮曼荼羅は、まさに本地垂迹を図解したもの。驚くべき融通無碍!
神道が明確な教祖や教義をもたない、「ない」宗教だからこその芸当で、そこに至るには8世紀、八幡神が国家的プロジェクトの大仏建立を助けて、菩薩号を与えられたことが大きかった、とか、三社祭でお馴染み浅草神社の三人の祭神は、なんと隅田川で浅草寺の本尊を発見した漁師ら3人のことだ、とか、トリビアが満載だ。
明治維新の神仏分離で、後付けで神道にも教派や社格の概念が導入され、さらに戦後、国家と神社が切り離されて伊勢神宮を本宗とする体制が整備されたと。ずいぶん最近のことなんだな~

全く意識していなくても、日本に生まれたら自動的に全員、神道の信者、という解説を聞いたことがある。世界の分断をみるまでもなく古来、宗教観は良くも悪くも、国家や民族の基盤のひとつ。考えだすと面倒も多いけれど、今更ながら重要な知識ではあると思い直した次第。(2025.8)

August 10, 2025

向日葵の咲かない夏

誰だって、自分の物語の中にいるじゃないか。自分だけの物語の中に。その物語はいつだって、何かを隠そうとしているし、何かを忘れようとしてるじゃないか

「向日葵の咲かない夏」道尾秀介著(新潮文庫)

「夏」をテーマにした読書会の、オススメ本の一冊を手にとってみた。久々に読む人気作家の、2009年出版のベストセラーだ。確かにアクロバティックな叙述ミステリーで、映像化不可能という解説も頷けた。

とはいえ、気持ちよく欺されるというのとは違う。小4男子が夏休みに、級友の死の謎を追う物語。その謎解きうんぬんよりも、描かれる日常が重過ぎる。いじめ、動物虐待、トンデモ教師…。ストーリーの核となる幼い精神の歪み、閉じ込められた心に、説得力があるのが悲しい。

2004年に読んだ「葉桜の季節に君を想うということ」(歌野晶午著)を思い出す技巧なのだけれど、それにしても道具立てが暗過ぎないか。結末を知って冒頭から読み返したら、随所にある伏線にたぶん感嘆するのだろうけれど、その元気はなかったな。(2025.8)

August 09, 2025

Yes,Noh

舞台では面と装束で自己を閉じ込め、只々型を無心に行っているだけです。

「Yes,Noh」関直美著(KuLaScip)

ちょっとご縁があった宝生流シテ方の女流能楽師が綴った、ジェットコースターのような半生を読む。振り出しは帯広。裏千家教授の娘として育つものの、与えられた境遇を飛び出してニューヨークに留学。人種のるつぼで夢をつかみ、いよいよ心理学修士を取得しようという目前になって母が病に倒れてしまう。急きょ帰国し茶道の社中を継ぐが、1998年、33歳でさらに大きな転機が訪れる。
気分転換のつもりで鑑賞した能舞台に衝撃を受け、一念発起してなんと芸大に入学。以降、大変な努力を重ねて能楽師の道を歩みながら、現在は伝統芸能の普及団体も主宰している。

人生を変えた舞台が衝撃だ。金春流79世宗家・金春信高氏が喜寿の祝いで、一子相伝の秘曲「関寺小町」を41年ぶりに舞う。2年もかけて準備した舞台で倒れたこともショッキングだけど、そのあとこそが凄まじい。能舞台は曲の途中で止めることができない。後見の金春晃實が朦朧とする信高氏を後方へ引きづっていき、固く握った指を開いて扇を受け取って、舞い納めたという。
長男である金春安明氏との対談が収録されている。当日、安明氏は地謡を務めており、シテの面倒をみるのは後見の役割。「父が倒れた時、何を思ったかと言うと、『あぁ、僕は地謡でよかったな』なのです。これも親不孝なものですよね」「僕達地謡は余計な事を考えず、とにかく謡い続けました」「それがプロとしてのこちらの仕事だと思っています。ですから謡い続けました」… 信高氏は重症ではなかったものの、この不本意な舞台を最後に結局、シテを辞めることになる。なんという厳しさ。
「関寺小町」とは小野小町百歳の、衰えを嘆きつつものんびりした一日を描く演目だ。安明氏はいう。「百歳の小野小町の役をやると言う事は、何か訳がわからない役をやると言う事なのですね」「父の著書に『動かぬ故に能という』があるのですが、この事がやはりただ事ではないのです。これはいい加減な人ではできません」

そもそも、シテは面をかけているため極端に視界が狭く、10キロ近い装束をまとっているので手足の自由もそうきかない。舞台に立つときには結界のように自己を閉じ込める、と著者は記す。例えば「シオリ」という悲しみを表現する型でも、悲しい気持ちを伴うのではなく淡々と、型を忠実に再現するだけ。だからこそ、人生をかけて積み重ねた人となりが現われる、と。
お能はそれほど観ていないのだけれど、さまざまな古典芸能につながるものだし、もう少し理解したいかも、と思わせる一冊。いや、老後の楽しみが増えちゃうな。(2025.8)

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