告白
熊太郎は恐怖の十字架を負った道化師であったのである。
「告白」町田康著(中央文庫)
一度、町田康を読んでみたくて、2005年谷崎潤一郎賞受賞作を手に取った。いや、長かった。1893(明治26)年の大事件で、河内音頭のスタンダードナンバーとなった「河内十人斬り」の犯人、城戸熊太郎の36年の人生。といっても大阪の片田舎にくすぶる、ごくしがない放蕩者だ。それがなぜ、歴史に残る凄惨な事件を起こすに至るのか。紙だと900ページ超にわたって、ほぼ全編これ、熊太郎の言い訳。
繰り返されるのは、どうしようもなく肥大化した自意識だ。いわく子供のころから周囲を単純でつまらない、と軽蔑していた。本人にしてみれば、自分は「極度に思弁的、思索的」で二重三重に屈折しており、それを河内の百姓言葉では表せず、「日本語を英語に翻訳したのをフランス語に翻訳したのをスワヒリ語に翻訳したのを京都弁に翻訳したみたいなことになって」、ちぐはぐな行動をとってしまう。「自分よりアホな人間に白痴と断定されるほど情け無いことはない」。あげく酒と博打に身を持ち崩し、粋がって無茶な喧嘩沙汰や金銭トラブルを繰り返し、追い詰められていく。
15歳で人を殺したと思い込み、これはなにやら熊太郎の妄想めいているのだが、いつか報いを受けるに違いないと、深い恐怖にとらわれている。義侠心など一切ないのに、暴力に直面すると自分の罪を突きつけられるようでいたたまれず、反撃し大暴れしちゃう。心中は常にくよくよと鬱屈し、寂しく空疎で、村娘ひとり満足に口説けない。愚かで情けなく、それを十分自覚しているところは憎めないんだけど、とにかく面倒臭い。ああ、こういう人いるのかも。
よくぞこの面倒臭い人物の語りを、飽きず新聞で連載したものだと思うのだが、文章は軽妙だ。「ほんほん。ほんでほんで」「うわっ。二十円。おっとろしな」と、登場人物が話す河内弁がリズミカル。たまに著者の突っ込みも挟まる。「その生活態度たるやふざけきっていた。あかんではないか」「なんじぇえわれ、というのは、標準語に翻訳すると、お前は何者だ、という意味であるが、はっきりいってあほである。犬を相手に、おまえは何者だ、と誰何したからといって犬が、はい。私は大阪府泉佐野市からやってきた尨犬でございましてなどと返事をするわけがない。」
さらには30過ぎていっぱしの侠客となった熊太郎を、幼なじみたちが呆れて遠巻きにする様子を、音楽しかないフリーターといずれ就職する大学生がロックバンドを組んだときに例えたりして、笑っちゃう。郷土料理「あかねこ」の登場とか、芸も細かい。
あくまで熊太郎の告白であり、犯罪の背景として明治の近代精神の歪みとか、古墳時代から続く河内という土地の重みといった観念には走らない。それでいて終盤でふいに、宿命を予感させる一行。「金剛山の上空に黒雲がたちこめて驟雨。」パンクな力技です。いやー、疲れた。
それにしても芸能というのは面白い。救いようのない陰惨な事件を「新聞読み」としてすぐさま河内音頭にしたら大ヒットし、いまも継承されている。文楽、歌舞伎にもそうした演目があって、人間の深い業、現実を描く。幕切れ、盆踊りの熱狂が印象的だ。(2025.7)