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October 25, 2024

われ巣鴨に出頭せず

「今夜できる限りのことをお父さんから聞いて、書き残しておきなさい」
「そんなことできるでしょうか」

「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子著(日本経済新聞社)

長く荻窪に住んで、子供のころ「近衛さんの坂」と呼んでいた道があった。近衛文麿の邸宅「荻外荘」の跡だ。1940年に東条英機らと開戦の方針を協議した荻窪会談の舞台となり、のちにGHQの逮捕命令が出て出頭期限となる日の朝には、近衛がその一間で自ら命を絶った。享年54歳。その近衛の生涯を、吉田茂の評伝などで知られるノンフィクション作家が追ったのが本作。
2006年の出版で、冒頭「かつての広壮な屋敷はマンションや駐車場に分断され」と記しているが、2024年末に杉並区による移築復元が成り、公開されると知って、そもそも近衛さんとは?と思い、本書を手にとった。

いわずとしれた近衛は1937年から41年にかけて3次にわたり首相を務めた人物で、1937年の「全国民に次ぐ」宣言で日本の全体主義化を決定づけ、大本営や大政翼賛会、国家総動員法を設置。戦争責任の重さにはさまざまな見解がある。本書はいきなり自殺の日の描写から始っていて、その結末を知ってからの細かい字で430ページは、どうにも息苦しい。

若き日はクラクラするようなエリートなのだ。学習院進学が一般的だった華族ながら、東大や京大で哲学、経済学を学び、生まれながらにリーダーとして期待を負う。25歳で貴族院議員。1934年に渡米した折には、なんとルーズベルト大統領、ハル国務長官と会談しており、首相並みの扱いだ。
なにせ家系図のはじまりは藤原鎌足。五摂家の筆頭で、最も天皇に近い。昭和天皇に会うとき、だれもが畏まるのに、近衛は部屋に入ってくるなり天皇の前の椅子にかけて、足を組んじゃうものだから、お付きがハラハラしたとか。そんな幼なじみのような2人の関係が、側近・木戸幸一の存在や軍部内の確執によって、どんどん隔てられていくのが悲しい。

同時に昭和天皇も元老・西園寺公望も、近衛におおいに期待しつつ、その言動を危ぶんでもいるところが、複雑だ。学生時代は社会主義思想に傾倒し、議員としては改革派。一次大戦後の1919年、パリ講和会議に西園寺の随員として参加し、英米本位の国際秩序に強烈な反感をもつ。軍部では二・二六事件を引き起こした皇道派に近かった。スパイ・ゾルゲと親しく、ソ連への機密漏洩も疑われた。
日中戦争から太平洋戦争へと突き進む一方で、和平の努力をしていたのは事実。ただ優柔不断、無責任と評され、1940年の三国同盟交渉では天皇がいつになく深刻な表情で、「近衛はああかき回しておいて、じき逃げ出すのではないか」と語ったとも。

自ら冷たいところがあるという性格で、外見は身長180㎝、スポーツマンだが病弱。孤高の存在だったのか…
最終的に敗戦後、一度はマッカーサーや天皇から憲法改正案の策定を委嘱され、熱心に取り組みながら、結局、戦犯と目された。全編のハイライトはロンドンのナショナル・アーカイブで発掘した、前後の米政府・戦略爆撃調査団による尋問録だろう。通訳の牛場友彦だけが同行、駆逐艦「アンコン」での長時間の尋問を読み解いた著者は、近衛への追及に対して同情的にみえる。ただ、読んでいて思うのは近衛個人の罪というより、こうなるまえに誰かがどこかで止められなかったのか、という圧倒的な虚しさだ。

歴史の場面場面で運命が交差する著名人が、多々登場。近衛と気脈を通じて、終戦工作にあたる吉田茂の存在感が印象的だ。(2024.10)

October 17, 2024

イラク水滸伝

仁義に篤すぎて、新に知り合った人は、必ず「その前に昼飯をご馳走しよう」となるし、招かれれば半日が過ぎてしまうのが難点である。

「イラク水滸伝」高野秀行著(文藝春秋)

2014年「謎の独立国家ソマリランド」が面白かったノンフィクション作家の、またも強烈な冒険談。とにかくアフリカだのミャンマーだの、普通の人は行かないところへ行き、しないことをする人で、今度は南イラクの湿地帯アフワールだ。中東というと砂漠のイメージで、湿地とは意外だったけれど、考えてみればティグリス=ユーフラテス文明の故郷だものなあ。
一帯は迷路のように入り組んだ水路を小舟で移動するしかなく、昔から戦争に負けた者や迫害されたマイノリティ、山賊や犯罪者が逃げ込む場所だった。はみ出し者の梁山泊、いわば元祖・水滸伝。まだISと政府軍の攻防が熾烈を極める2017年、著者は「これほど魅力的でありつつ、これほど行きにくい世界遺産は他にない」と確信。「舟でアフワールを旅するぞ!」と決意しちゃう。いやはや。

当然、困難とハプニングの連続だ。そして困れば困るほど愉快そうなオフビートぶりが、この著者の魅力。湿地帯の案内人にコンタクトをとろうとするが、誰もがまず食事をおごろうとする土地柄。「会食湿地」にはまって、なかなか目的にたどり着けない。舟作りを発注したら、現地の船大工の板材の切り方がアバウト過ぎて、見ていて背筋がむずむずするけれど、できあがりはなんら問題無し。これはシュメール文明から「5000年来の雑さ」なのだ、と納得する。
個性的でオフビートな人物が続々登場。その勝手なあだ名がまた愉快だ。ずばり水滸伝のジャーシム宋江、アヤド呉用、風貌が思い浮かぶアリー松方弘樹少佐や白熊マーヘル…

決して無茶に行動しているわけではない。様々な文献、調査への言及もふんだん。水牛と浮島のライフスタイルは、紀元前2300年ごろのアッカド王朝まで遡れそうだと、悠久の歴史を語ったかと思えば、水量データを示しつつ戦乱や開発による湿地の危機を嘆く。アガサ・クリスティがコレクションしていたという工芸品、マーシュアラブ布の起源を探求し、ユダヤ人との接点に驚いたりもする。
もちろん戦争、武器・麻薬の密輸、宗教差別といった厳しい現実も。小学生のとき子供百人以上がバスでイラン・イラク戦争の前線に連れて行かれ、「子供は強くならなきゃいけないから、戦争を見て覚えなさい」と言われた。東京での事前調査で知り合ったイラク人の、そんな証言は衝撃だ。

情報は時にとりとめないけれど、生半可に整理しすぎない。「ゲッサ・ブ・ゲッサ(取り替えっこ)」結婚とか、にわかに理解できない慣習はどうしたって理解できない。それがノンフィクションの醍醐味かも。なんたって水滸伝、一筋縄ではいきません。
そうして情熱と体験、自分なりの考察を重ねて、湿地民は反米、反イランながら戦う人ではなく、文明や国家を他人事として突き放している、と思い至る。終盤で著者が見上げる、ギラギラと空自体が落ちてきそうな「すさまじい星空」が心に残る。
2019年、2023年「オール讀物」掲載を加筆・修正。(2024.10)

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