一千字の表うら
唯一の自慢は、すべて自分が目を通した作品のみを使ったことである。『チボー家の人々』も『大菩薩峠』も、何ヶ月もかかって読了した上で用いた。
「一千字の表うら」出久根達郎著
博覧強記の著者による「読んでためになる」文学案内。ただの粗筋ではなく、作中の印象的なシーンから著者の来歴まで、ぎゅっと一千字に詰め込んだのだから、面白くないわけがない。公明新聞での足かけ8年にわたった連載をまとめた、貴重な私家版の1冊。
李白やバルザック、井上靖…にまじって、聞いたこともない作家、作品も次々登場する。13世紀ペルシア文学を代表するサアディーの詩集なんて、どこから見つけてくるのか。
驚いたのは、あの楽劇王ワーグナーの小説「ベートーヴェンまいり」。熱烈なベートーヴェンファンによる架空の会見記だとか。知らなかったなあ。まあ、あの長大なオペラ台本をほとんど、ひとりで書いたのだから、言われてみれば小説があっても頷ける。次項ではその「ベートーヴェンまいり」を含む小説集の翻訳者、高木卓が1940年になんと芥川賞を辞退しちゃった、前代未聞の事件を紹介。
黙阿弥の項では、死後に「弁天小僧」が無断上演され、娘が訴えて大審院(最高裁)まで争った歴史的著作権裁判を取り上げ、坪内逍遙が弁護した縁で長女に婿養子を世話したとき、永井荷風も候補のひとりだった、とか、もうそれだけで小説になる楽しいエピソードが満載だ。
ジョイスの項によると、著者は古書店員だった10代の頃、世界文学事典収録の作家を片っ端から1作ずつ読むという「野望」を抱き、短編、特に自伝的なものを選んで毎日、何年か続けたという。サラッと書いているけれど、凄い蓄積。この名エッセイストが清少納言の項を、「これぞ随筆。」と結んでいるのがまた、感慨深い。(2024/5)