悪童日記
ぼくらが記述するのは、あるがままの事物、ぼくらが見たこと、ぼくらが聞いたこと、ぼくらが実行したこと、でなければならない。
「悪童日記」アゴタ・クリストフ著(ハヤカワepi文庫)
270ページほどの文庫本に、度しがたい戦争の不条理、人間の醜さが詰まっている。壮絶な貧困、むき出しの欲望、孤絶と死。目を背けたいけど、背けてはならないものが、徹底して乾いた文章で綴られて鮮烈だ。随分前から気になっていた小説。このタイミングで読んで、余計に重い。
形式は、双子の少年がこっそり書いていた作文だ。戦時下、二人は〈大きな町〉を逃れ、〈小さな町〉の外れに住む祖母の家に預けられる。祖母は愛情のかけらもなく、文盲で不潔で吝嗇。環境は想像を超える劣悪さだ。双子はお互いだけを頼りに盗みも暴力も、手段を選ばずサバイブし、それをありのまま淡々と綴っていく。狡猾で、全く可愛げはない。
仏文学者・堀茂樹の訳注によると、二次大戦時のハンガリー・クーセグが念頭にあるという。オーストリア国境に位置し、ナチスドイツ支配下。男たちは戦線へ動員され、ユダヤ人が収容所へ引き立てられていく。終盤で〈解放者たち〉がやってくるが、それはソ連軍であり、支配が全体主義から全体主義へと移行するだけ。
著者は少女時代にクーセグで暮らし、1956年のハンガリー動乱で活動家の夫、乳飲み子とスイスへ亡命したという。個人的には、かつて観光でブダペストを訪れたとき、動乱で処刑されたナジ首相の像に衝撃を受けたことを思い出す。多くの観光客が訪れる国会議事堂近くに立ち、気のせいか哀しげに議事堂のほうを見つめていて、なんと足下には戦車の轍。この像が2019年に移設されたというニュースに接したとき、また暗い気持ちになった。
そして今。国境を接するウクライナへのロシア侵攻で、ハンガリー現政権はEUやNATOの加盟国でありながら、制裁に反対するなど親ロシアの立場をとる。オスマン帝国やハプスブルク帝国の支配も受けてきた中欧の、一筋縄でいかない歴史の重みと、進行中の現在。たまたま居合わせた個人の人生が、なんと過酷なことか。
そう考えていくと、この小説で双子が学問や宗教はおろか、親の愛さえきっぱりと否定する幕切れには圧倒されるけれど、どこか爽快でもある。生ぬるい同情や善悪をはるかに超えて、凜と立つ一個の生命。続編があるというけれど、この唐突なラストが、いい。
1986年、著者による初の小説で、翻訳は1991年刊行。今だからこそ、多くの人に読んでほしいと思う。(2023.9)