ウェブスター辞書あるいは英語をめぐる冒険
バスの乗れば広告を読み、次にポケットに突っ込んだレシートを読み、最後は他人の肩越しにその人が読んでいるものを読んでしまわずにはいられないこのわたしがーー読むことでお給料をもらえるなんて。この仕事はやばい、最高。
「ウェブスター辞書あるいは英語をめぐる冒険」コーリー・スタンパー著(左右社)
2017年のTEDトークで人気を博したスター編纂者が語る、辞書づくりの裏側。英語愛と自虐ネタが満載で落語みたいに軽妙なんだけど、不定冠詞やら完了形やら言語学の知見だけでなく、「OMGの初出はチャーチル宛の手紙」といったトリビアも満載で、意外と読むのに時間がかかった。なにせ翻訳が6人がかりだもの。
編纂者の仕事というのは言葉の正しさを追求することではなく、広く長持ちする「真実」を伝えること。英語は変化し、成長し続けているものだから。
一方で辞書もシビアな出版ビジネスであり、2、3年ごとの改訂スケジュールに追われながら、シェイクスピアからあらゆる専門誌、地方紙までを探索する日常に、まず驚かされる。レストランでメニューの写真をとったり、旅行先から興味深い宣伝文句が書いてある石鹸を持ち帰ったり。いやいや、病気でしょ。
仕事の大半は地味で泥臭い。例えば「take」ひとつの意味、成句、引用例がいかに幅広いか。なんと1語にひと月、げっそりして夫に心配され、掃除業者に床に並べたメモをぐちゃぐちゃにされて絶望し… その後「北米辞書協会」の会合で、オックスフォード英語辞典の編纂者がにこやかに「ぼくはrunに9カ月かかった」と語るシーンは、爽快でさえある。
膨大な退屈があるからこそ、物議を醸す言葉ともフラットに向き合う真摯さが腑に落ちる。bitchの項では現代の差別の文脈での受け止め方、語感に潜む個人の激しい怒りに思いを巡らせる。marriageでは政治的な軋轢にも直面。奮闘の果てに著者が言い切る「辞書編纂はartではなくcraft」という言葉に、矜持がにじむ。
仲間のオタクぶりは楽しい味付けだ。突然フィンランド語を話したり、発音の調査で日がなYoutubeを観ていたり。いったん不採用になった失業中に、欠員補充で「ただ同然」のオファーを受けた同僚が、「波止場まで歩いていき、すわって海を見つめた。人生が始まろうとしていると感じた」というエピソードが、幸せな余韻を残す。
鴻巣友季子、竹内要江、木下眞穗、ラッシャー貴子、手嶋由美子、井口富美子訳。(2022.6)
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