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February 27, 2022

ケルト人の夢

ジョージ・バーナード・ショーが、そこにいたすべてのアイルランド・ナショナリストに向かって言い放った、胸に突き刺さる皮肉な言葉を思い出した。《それは互いに相容れないものだよ、アリス。間違ってはならない。愛国主義は宗教なんだ。正気とは両立しない。それは単なる反啓蒙主義、信仰という行為さ》

「ケルト人の夢」マリオ・バルガス=リョサ著(岩波書店)

ペルー出身の著者による、2010年ノーベル文学賞受賞後第一作の邦訳。ドラマチックでぐいぐい引き込まれるものの、500ページにわたる全編の内容は実に重い。繰り返される人類の残虐行為、それに対抗して尊厳を求める者が味わう過酷。新聞を開けば高らかにSDGsを唱える特集の一方で、戦争の暴力を目の当たりにする今だからこそ、鋭く胸に刺さる。
1916年、ロンドンの刑務所で刻々と死刑執行が迫るロジャー・ケイスメントが、来し方を回想する物語。実在する人物の評伝ではあるけれど、フィクションならではの、人間の業に対する多面的な洞察が圧巻だ。

そもそもロジャーの生涯が世界スケールなうえ、複雑このうえない。アイルランドのプロテスタント家庭に生まれ、「未開人をキリスト教と自由貿易で文明化する」理想を抱いて、大英帝国の外交官となる。赴任したコンゴ、続いてペルーで、ゴム採取業者の先住民に対する強制労働と残虐行為の実態に直面し、理想は瓦解。その人道上の罪を国際社会に告発して名士となり、王室からナイトの称号まで受ける。いわば、ひとりアムネスティ。しかし、やがて自らの故郷こそ、アフリカや南米と同じ植民地として長年、英国に支配・抑圧されてきたとの思いを強くし、ついにはアイルランド独立闘争に身を投じて、反逆罪で絞首刑となってしまう。

コンゴとペルーでこれでもかと、ロジャーが目にする地獄絵図は、正視に耐えない。かつてキューバの観光案内に、先住民は絶滅しましたと、さらりと書いてあって驚愕したのを思い出した。ロジャーが監督責任を問いかける、コンゴ公安軍大尉の言葉がすさまじい。いわく過重なゴム採取の割り当てを定めたのは本国ベルギーの役人と会社重役であり、制度を変えるのは裁判官や政治家の仕事、我々現場の軍人もまた被害者だ…。絶望的な罪の構図。
厳しい環境で悲惨な現実を記録し続け、ロジャーは心身ともにぼろぼろになっていく。だからこそ、アマゾンを発つ船旅で満月の夜、南国の美しい光景に涙するシーンが胸に染みる。

英国文化人サロンでのマーク・トゥエイン、コナン・ドイルといった華やかな交流もあるが、終盤で外務省を辞しアイルランドに戻ってから、その運命はさらに苛烈、かつ皮肉なものになっていく。ロジャーは一次大戦中、英国の敵ドイツに渡り、独立への支援をとりつけようと工作。しかし闘争を急ぐ仲間から孤立していき、イースター蜂起の計画すら知らされない。蜂起が挫折して逮捕されると、ドイツと結んだことで英国知識層の友人たちも離反。名士であったからなおさら、ゲイの暴露がスキャンダルとなる。ピュアに理想を追っていたはずなのに、いったいどこで道を誤ってしまったのか。

北アイルランドでは今も南北統一派と親英派の対立が続く。「夢」という書名からして、ある民族・文化が自立することの困難を、冷徹に表している。それを理屈でなく、ひとりの異端者に象徴させる、小説の力が見事だ。ロジャーは決して英雄ではないし、失敗だらけで弱々しく、恋人に裏切られたりして、時に滑稽ですらある。だからこそ、人間という存在そのものの哀しさが際立つ。あえて主人公の肖像写真を収録していないのも、虚構がもつ普遍性を思わせる。

ちなみにアマゾンのゴム業者が破綻する原因として、ロジャーの告発が引き金となった不買運動や融資引き上げだけでなく、新興のアジア産との競争にも触れている。英国人ウィッカムがブラジルから持ち出した種子が、マレー半島で一大産地を形成したという。著者の知性はなんと強靱なことか。野谷文昭著。(2022・2)

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