きのね
元日の朝は、人が「金銀銅のお宝」と羨むこの家の三兄弟が紋付き袴で揃い、父に手をついて新年の賀をのべるのを、遠くから見て光乃は涙のにじむような感動をおぼえた。
「きのね 上・下」宮尾登美子著(新潮文庫)
昭和初期から戦後にかけて、思いがけず歌舞伎役者の家の住み込み女中となり、ついには宗家の跡取りの妻となった、ひとりの女性の生涯。モデルは11代目市川團十郎の妻、千代とのことで、「松緑芸話」で読んで興味をもっていた。んー、想像以上に壮絶である。
もとより部分部分はフィクションなんだろうけど、檀ふみの後書きによると、12代目誕生の裏(自宅ひとり出産!)を知る産婆さんにまで取材したとのことで、作家の執念が感じられる。封建的で、体面を何より気にする梨園のこと。執筆には相当な困難が伴ったはずだ。そこまでして書きたかった、千代の生き様とは何なのか。
親兄弟を頼らず食べていくには、女中になるしかなかった光乃。地味で無口で、常にじいっと周囲を観察している。巡り会った坊ちゃま雪雄は美貌の花形なのに、伝説的な癇癪持ちで、命の危険すら覚えるDVが日常茶飯事。そもそも妻を人間扱いしておらず、優しくするなどもってのほか、長男が小学校にあがるまで存在自体をひた隠しにする。なんてスキャンダラス。それでも光乃は尽くしに尽くす。決して読んでいて気持ちの良い話ではない。
愛情とも言えるけど、なんだか光乃は行き場がなくて耐えるうち、役者たちという特異な生き物が放つオーラに巻き込まれたと思えてくる。深い舞台表現と、磨かれた伝統の芸と、華やかで危ういアイドル性…。歌舞伎世界に棲む、何か魔物めいたものと恋に落ちたのではないか。
流れるような文体で、すらすら読める。ところどころ登場する名優たちの横顔も興味深い。(2021・11)