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July 18, 2020

嘘と正典

歴史上の成果は二つの種類に分けることができるということなんです。ある特定の人物がいなくても存在したものと、ある特定の人物がいなければ存在し得なかったものの二つに

「嘘と正典」小川哲著(早川書房)

2019年後半の直木賞候補作となった注目のSF短編集を、電子書籍で。一読して理屈っぽい、頭でっかちの印象は否めない。
淡々と無駄のない語り口なんだけど、共産主義の誕生秘話、奇術や競馬の血統史、音楽理論など、リサーチがぎっしり。さらにタイムマシン・パラドクスの議論が中心テーマになっていたり、本格とかSFに慣れない身には、胃もたれする。1編読み終わるたびに「誰か解説してよー」と言いたくなっちゃう。

それだけに、不意にじわっと抑えきれない情熱みたいなものがにじむのが、印象を残す。共産主義やナチズムなど歴史の非情に翻弄される、ちっぽけな個人の抵抗。あるいは苦い葛藤の記憶しかない息子が、初めて父の人生に触れる感慨。
特にフィリピンの離島が舞台の「ムジカ・ムンダーナ」が美しい。なにしろこの島には独自の文化があって、旋律が貨幣であり、交換や蓄財の対象になっている。厳しい英才教育に耐えかねて、作曲家の父と決別した「僕」が、遺品のテープから島にたどり着き、父が目指したものを知る。宇宙を旅する探査機ボイジャーに積まれた、レコードのイメージも素敵。まあ、表題は古代ローマの哲学者のうんぬん…と、やっぱり理屈っぽいんだけど。
共通するテーマは「時」なのかな。著者のプロフィールを見ると1986年生まれ、渋幕→東大理1→東大教養博士課程でチューリングを研究。なるほど、相当曲者な感じ。(2020・7)

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