平成の終焉
ともに膝をつき、一人ひとりに向かって語りかける「平成流」と呼ばれるスタイルは、美智子妃が主導する形で、昭和期の行啓のなかにすでに芽生えていたのです。
「平成の終焉ーー退位と天皇・皇后」原武史著(岩波新書)
新元号や退位・即位のイベントで、なんだか明るい気分になっている2019年。そのことにケチをつける気は毛頭ないんだけど、ちょっと冷静になってみると… 毎日出版文化賞の「大正天皇」、司馬遼太郎賞の「昭和天皇」などで知られる研究者が、「平成」の意味を問う話題作だ。
まず2016年に、天皇みずから退位の意向を、一般に向かって直接語った「おことば」を分析。それがいかに異例なものだったか、ということ、さらに、実は誰もよくわかっていなさそうな「象徴」をどう定義しているか、を読み取っていく。
祈り=宮中祭祀と並んで、重要な務めと自認していたのは「行幸」だと喝破。そこから皇太子時代の地方訪問について、平成につながる要素を解き明かしていく。
なにしろ公式資料が十分でないので、地方紙の報道を丹念に追って、一回一回の訪問の内容を掘り起こしていく。その労作から導かれる「人々に近づき、語りかける」スタイルがすでに昭和期からみられ、背景に美智子妃のカトリックの教養がありそうだ、という分析には驚かされる。
天皇は恋愛結婚という選択に始まり、天皇家の家族観を革新。憧れと同時にバッシングに遭ったり、右派の揺り戻し「提灯奉迎」を受けたりしながらも、直実に独自の「象徴」を形作ってきた。粘り強さに改めて感嘆するし、それほどに、過去の天皇の苦悩が深かったのかもしれない、と思う。また、行幸での触れ合いがたとえ何ら目の前の問題を解決しなくても、忘れられがちな人々に対して、ただ「忘れていないよ」というメッセージを届けるのなら、それはまさに、統合の象徴という仕事であり、この分断の時代に、貴重な意味をもつように感じる。
そのうえでやはり、こうした象徴の定義は本来、主権者一人ひとり、あるいはその代行者である国会が議論すべきもの、という指摘には、うなずかずにいられない。盛り上がる令和お祝いムードに、全く罪はないのだけど、ムードから「政治利用」への距離は、本当にほんの一歩だ。代替わりによる皇室のキャラクターの変化も、未知数、かつ不可避なのだろうから。(2019・5)
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