« 1964東京五輪聖火空輸作戦 | Main | 愛蘭土紀行 »

March 02, 2019

雪の階

夕暮れの、一面が濃紫に染まった空の下、炎に炙られ焼け焦げたものか、それとも何かの疾病なのか、どれも一様に黒変した、ひょろ長い灌木とも棒杭ともつかぬものの点在する荒野を独り彷徨い歩きながら、寒草疎らに散るこの冷たい地面の下には、獣や鳥や虫の死骸が折り重なり堆積して居るのだと考えた惟佐子は、ふいに湧き起こって耳に溢れた音響に夢から現へと引き戻され、すると突然の驟雨のごとき響きは人々の拍手であり、高さのない舞台では演奏を終えたピアニストが椅子から立ち上がるところだった。

「雪の階」奥泉光著(中央公論新社)
2018年の話題作を読む。名手・奥泉光が今回選んだ文体は、美文調というべきか。冒頭の一文から、流麗につながり、捻れて、読む者を昭和十年の華族のサロンに引きこむ。
物語はロマンミステリー。伯爵令嬢・惟佐子が、親友の心中事件に疑念を抱き、幼い頃の「おあいてさん」だった新米報道カメラマン・千代子とともに真相を追う。清張ばりの時刻表の謎解きあり、国境をまたいだ謀略あり、まがまがしい神秘主義あり、ボーイズラブありと、味付けは盛りだくさん。自在に語りの視点を変える精緻なカメラワークも心地よく、600ページ近い大部を全く飽きさせない。
もちろんエンタメで終わらないのが、この作家の凄いところ。226に向かって突き進む不穏な空気が、全編を貫く。天皇機関説を巡る政局、目先の利益を追って、国を誤らせてしまう貴族や軍部。実際、歴史とはこんなものかもしれない。若者らしく夢を追っていた惟佐子の弟が、軍事教育に染まってしまうシーンの痛ましさ。
初出「中央公論」での連載開始が2016年3月号。天皇の生前退位の意向が報道され、「戦争のなかった平成時代」を印象づけたのが、その年の7月だから、問題意識の符合に驚く。
読み物としては、主人公の女性2人のキャラクターがすこぶる魅力的。惟佐子は謎めいた二十歳の美少女で、贅沢な着物をまとい、どんどん女ぶりを上げていく。同時に聡明で、数学と囲碁にしか興味がなく、俗な父や言い寄る男たちに向ける視線はあくまでクールだ。千代子は対照的に、溌剌としたキャリアウーマンで、その恋は平凡だけど、微笑ましい。終盤、ナチス的な極右カルトに取り囲まれた惟佐子が、千代子と交流することで、いまこの日常を生きていこう、と思い定める場面が感動を呼ぶ。

226といえば、傑作「蒲生邸事件」を思い出す。本作もまた、歴史に対峙する人々の、ちっぽけでも強靭な心が鮮やかだ。私たちはこの後、日本のたどった道を知っている。「無力だけれど、100年後の人間に恥じないよう行動したい」という恋人と千代子がやがて幸せになることを願わずにいられない。
柴田錬三郎賞、毎日出版文化賞を受賞。このミス、文春ベストテン入り。(2019・2)

« 1964東京五輪聖火空輸作戦 | Main | 愛蘭土紀行 »

Comments

Post a comment

Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.

(Not displayed with comment.)

TrackBack


Listed below are links to weblogs that reference 雪の階:

« 1964東京五輪聖火空輸作戦 | Main | 愛蘭土紀行 »