忘れられた巨人
分かち合ってきた過去を思い出せないんじゃ、夫婦の愛をどう証明したらいいの?
「忘れられた巨人」カズオ・イシグロ著(ハヤカワ文庫)
名作「わたしを離さないで」から10年ぶりの長編を、2017年ノーベル文学賞受賞で繰り上げ発売された文庫で。設定は意表をついて、6世紀ごろイングランドを舞台にしたファンタジーだ。鬼や竜や妖精が跋扈する山谷を、ブリトン人の老夫婦が息子を訪ねて旅をし、騎士のクエリグ(雌竜)退治に立ち会うことになる。
もちろん単なる冒険談ではない。テーマは共同体の記憶。登場人物はなぜか記憶を長く保てなくなっており、老夫婦はそのことを訝しく思っている。
舞台はケルト系の土着民族ブリトン人の土地に、大陸からサクソン人が侵入して争った後。ブリトンを率いた伝説のアーサー王も、すでに亡くなっている。両者は和解し、一見平穏となった社会。しかし都合のいい忘却、それでも消え去らない敵意という闇が横たわっているのだ。
旧東欧あたりを観光すると、暴力など負の遺跡がしっかり残されていて戸惑うことがある。報復の連鎖を断ち切るため、前を向くことは大事。戦後ニッポンは忘却によって、豊かで自由な社会を築いたとも言えるだろう。しかし果たして過去を水に流すことは、本当に可能なのか。霧ですべてを曖昧にするクエリグを倒すことが、果たして幸せなのか?
テーマは民族、国家から夫婦関係まで、普遍的なものだ。世代交代で戦乱の記憶が薄れると、次の戦乱が引き起こされるという説が、どうしても思い出される。作家は2006年のユーゴスラビア解体と泥沼の紛争あたりからずっと、このテーマを意識していたという。長く考え続けるという精神の強靭さにこそ、信頼が宿るのだなあ。
ひとり語りだったりSFだったり、テーマに合わせてぴったりの形式を追求する手法に驚かされる。それにしてもファンタジーというのは意外。慣れてない私にはちょっと読みにくかったけど、ジャンルを超える職人芸ですねえ。失われた記憶のモヤモヤが読み手を引っ張る。
そして形式が変わっても、恐れを知らない若者と、いろんなものを抱えている老人の対比、そして取り返しのつかない人生を遠くみやる、苦い静謐は常に共通している。老妻が渡る島は、彼岸なのか。切ないなあ。(2018・1)
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