« February 2017 | Main | April 2017 »

March 19, 2017

数学者たちの楽園

ベンダーのシリアルナンバーを、数学史上の重要な数である1729にできただけでも、博士号を取った甲斐はあると思えるんだ。博士論文の指導教授がどう思うかは知らないけどね

「数学者たちの楽園――「ザ・シンプソンズ」を作った天才たち」サイモン・シン著(新潮社)

1989年放送開始の長寿コメディアニメで、20回以上のエミー賞などに輝く「ザ・シンプソンズ」と、同じ製作者によるSFアニメ「フューチュラマ」。その脚本家チームに実は立派な学位をもつ元・数学者が複数在籍し、作中にも「トポロジー」やら「メルセンヌ素数」やら、素人にはピンとこない高度かつマニアックな理系ネタがふんだんに登場していた。
「フェルマーの最終定理」「暗号解読」でお馴染み、サイモン・シンによるノンフィクション。今回はドキドキさせる壮大な人間ドラマではなく、広く愛されるサブカルチャーに、どんな知的悪戯が仕込まれていたかを解き明かしていて、また楽しい。

とにかく日米のオタク文化の決定的な違いに驚く。日本で長寿アニメといえば「サザエさん」か「ドラえもん」、はたまた「ちびまる子ちゃん」。その抒情的、文学的な味わいに対して、シンプソンズを動画サイトでチェックしてみると、お下劣ギャグと乾いた笑いの印象が強い。
家族愛をベースにしつつも、労働者階級の日常を痛烈に皮肉っているとのことだが、高いクオリティを保ち、多くの著名人ゲストも引きつけてきたのは、こういうことだったのか、と納得させられる。シリコンバレーやウォール街の興隆にもつながるナード、ギークコミュニティの雰囲気は、羨ましいなあ。

アニメ制作の舞台裏もさることながら、もちろん数学をめぐる硬軟さまざまなトリビアも満載だ。エンタメ人脈を表す「ケヴィン・ベーコンの6次の隔たり」とか、セイバーメトリクスの扉を開いた「ベースボール・アブストラクト」の功績とか、ウォーレン・バフェットとビル・ゲイツの非推移的サイコロをめぐる富豪対決とか、「クラインの瓶」とか。
安定の青木薫訳。翻訳は英語タイトルの掛け言葉など、膨大な作業だったろうなあ。巻末に詳細な索引や「オイラーの式」などの解説、初級から博士程度までの数学ジョークという、たっぷりのおまけ付き。(2017・3)

March 13, 2017

騎士団長殺し 第1部顕れるイデア編 第2部遷ろうメタファー編

「目に見えるものが好きなの。目に見えないものと同じくらい」

「騎士団長殺し 第1部顕れるイデア編 第2部遷ろうメタファー編」村上春樹著(新潮社)

今やイベントとなったハルキの書き下ろし新作は、「1Q84」からだと7年ぶりという大長編。1部、2部で1000ページを超えるが、いつもの春樹節が満載で一気読み。まずはいつもながらのリーダビリティの高さに感服する。

肖像画家である「私」は、妻に別れを切り出されたことで家を出て、小田原の山中にある屋敷に留守番として住み始める。そこで一幅の日本画「騎士団長殺し」を見つけたことで、不思議な出来事に巻き込まれていく。

道具立てはお馴染みのもので、読んでいて「ああ、この感じ」と嬉しくなる。まさにベストアルバム。孤独だけど他人を羨まない主人公の1人称語り、端正な日常、異界からの使者、気の強い美少女、謎の穴と冒険。オペラ「ドン・ジョバンニ」をはじめ、たっぷりと散りばめられた文化的薀蓄やら、気の利いた比喩の数々やらが、定番過ぎてニマニマしちゃう。

とはいえストーリーの印象は、従来とちょっと違う。性と暴力や戦争は登場するものの、「1Q84」のBOOK1、2までのような、目を背けたくなる執拗さは影をひそめた。妻と復縁した時点から振り返る、と冒頭で宣言してあるので、わりあい落ち着いて読めるし、人生の限られた時間を意識して、生きた意味をどう見出すか、というテーマは、もうすぐ70代となった作家の「枯れ」さえ感じさせる。激しい喪失の時期をへた、家族への回帰と再生が温かく、ちょっと拍子抜けするくらい現実的だ。

もちろん油断は禁物。絵画論で繰り返される、見えているものがすべてではないというイメージとか、顔のない肖像画の依頼人、2つの屋敷を隔てる谷とか、読む者を不安にさせる仕掛けには事欠かない。レコードのA面B面、イルカの左右の脳といった些細なエピソードも繋がって、虚と実、裏と表、ものごとの不確かさがひたひたと迫る。そして震災を乗り越えた後に、何を手にするのか。もしかしたら続編があるのかも。

楽しいのは、人物造形がいつにも増してくっきりとして、魅力的なこと。なにより異界から現れ、妙な話し方をする身長60センチほどの「騎士団長」が、際立ってチャーミング! こんなイデアに守られたい。
さらに主人公を翻弄する3人の人物が、徹底して謎めいているのもご機嫌だ。屋敷の主で、人嫌いだった高名な日本画家・雨田具彦は、過去にどんな闇を抱えていたのか。近くの白い豪邸にひとりで住み、見事な白髪でジャガーを駆るギャツビー風の中年男・免色渉の企みは? そして東北での放浪で出会った顔のない男は何者なのか? 例によって、すべての謎が解明されるわけではなく、このあたりにも続編への期待が高まる。(2017・3)

« February 2017 | Main | April 2017 »