本にだって雄と雌があります
文集に将来の夢のベスト・スリーをそれぞれ発表するコーナーがあったのだが、何を隠そう私は第三位のところに「小説家」と書いていた。これだけでもう執行猶予のつかない懲役四年ぐらいだ。しかしこれは奈落へと至る三段跳びのホップに過ぎなかった。というのも、私はさらに第二位の欄には「中説家」、そして第一の欄には狙い過たず「大説家」と書いてしまったのだ。死刑確定で再審請求も却下だ。大、中、小、この三段構えの冗談を思いついた小学校六年生の私の心は亢竜のごとく舞いあがり、これで一生喰いっぱぐれない、このギャグ一つで世界を回れる、と思った。日本語なのに。
「本にだって雄と雌があります」小田雅久仁著(新潮社)
2012年Twitter文学賞国内編第1位に輝く、奇想天外な圧巻ファンタジーを電子書籍で。全編がごく平凡そうな男・博が息子の恵次郎に、深井家の歴史を伝える長大な手記の形をとっている。その物語には、本と本から本が生まれ、まるで鳥のように飛び回っちゃう「幻書」の奇跡がまつわっていた。
大変な力技だ。とにかく全編を彩る無駄な笑いがリズミカルかつ強引で、ぐいぐい持っていかれる。そうして何が本筋なのが判然としないまま、ニタニタしているうちに、読む者は壮大な夢に巻き込まれちゃう。
それは本好きなら、誰もが一度は想像するであろう2つの夢だ。1つは、家にある本がどんどん増殖しちゃう謎の正体。自分で手に入れているくせに、不思議としか思えない。そしてもう1つは、世界のどこかに古今東西の書物が集まった理想郷があるというイメージだ。好きな本、無尽蔵な人類の智恵を、時間無制限に読みまくれる図書館。
饒舌なギャグと幻想とのミックスを、見事なディテール、膨大な情報が支える。帝大生で後に学者・文筆家になり、生涯脱力するようなジョークばかり言っていた祖父與次郎と、後年は画家になるおきゃんな祖母ミキ。この個性的なおしどり夫婦の若き日の馴れ染めが、なんともチャーミングだ。古風な青春の眩しいこと。
対照的に、與次郎が青年期に経験した壮絶なボルネオの戦闘、そして昭和61年に彼を襲った飛行機事故の恐怖は壮絶。昭和史の明暗が、リアルに描かれていて引き込まれる。
長大な物語の終盤、目いっぱい広がった大風呂敷が畳まれてみれば、これは「人から人へ伝わっていくこと」の愛おしさにまつわる物語だとわかってくる。あらゆる書物、そして誰かの想い。「與次郎の人生が誰かの続きであったように、私の人生が誰かの続きであるように、君の人生もまた誰かの続きであるはずだから。」というくだりが、妙に胸にしみる。快作。(2014・12)
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