何かが靖代の頭に引っ掛かった。田島百合子が印象的な地名を口にしていたような気がする。やがて、その文字が浮かんできた。
「そうだ、日本橋……」
「祈りの幕が下りる時」東野圭吾著(講談社)
2013年ミステリーを代表する1作を、駆け込みで読んだ。感動必至の刑事加賀恭一郎シリーズ。10作目にしてついに、加賀はかつて自分をおいて失踪した母親の思いに迫ることになる。
いつもながら、ページを繰る手を止めさせない筆力はさすがだ。東野さんの名作「白夜行」を彷彿とさせる、哀しも壮絶な女の人生。380ページの長編だけど、大仰な表現は一切なく、丁寧な散文の積み重ねから、鮮やかにドラマが立ち上がる。
発端は小菅のアパートの一室で、40前後の女性が遺体で発見されたこと。さらに近くの新小岩の河川敷で、ひとりのホームレスが亡くなる。2つの事件の捜査線上に、ちょうど明治座で上演していた芝居の演出家、浅居博美が浮かぶ。博美は加賀の知り合いでもあった。博美の過去に、どんな秘密が潜んでいるのか、それは果たして加賀の過去とつながるのだろうか?
捜査のプロセスには、これまで博美とかかわった人物を中心に、数多くの証言者が登場する。多種多様な人生が交錯するので、筋運びはけっこう複雑だ。その過程で巧妙に読者をミスリードしておいて、大詰めで明かされる真相が衝撃となる。実に緻密なプロットです。
淡々とした筆致だけれど、道具立てには工夫が多い。たとえば謎解きのカギとして、加賀の本拠地・日本橋を中心とする橋めぐりのエピソードが出てくるのだけど、これがなんともいい江戸情緒だ。一方で、流浪の身である原発労働者の境遇に触れていて、鋭い社会性もはらむ。
登場人物のなかでとりわけ印象的なのは3人の女、博美、加賀の母、加賀の従兄・松宮脩平の母だろう。いずれも辛い思いを抱えながら、覚悟をきめて潔く生きる、名も無き女性だ。切ないなあ。
全体に重いトーンの物語のなかで、爽やかな存在感を放つ女性もいる。かつて加賀の父の看護にあたった金森登紀子だ。宿命の女性たちと、うまい対比になっている。加賀父子の真情をよく理解している役回りでもあり、これからのシリーズでも気になる人物になりそう。
肝心の加賀は、粘り強く真実を追い、鋭敏に人の心を感じとるという魅力的な造形が、一段とくっきりした印象だ。今作で日本橋周辺での活躍は一区切りとなる。松宮も着実に成長をみせた。この2人は阿部寛と溝端淳平のイメージがぴったりだなあ。映像化が楽しみかも。(2013・12)