終わりの感覚
私たちは実に軽薄な思いこみによって生きている。たとえば、記憶とは出来事と時間の合計だ、とか。だが、何であれ、そんな簡単なことですむわけがない。
「終わりの感覚」ジュリアン・バーンズ著(新潮クレスト・ブックス)
2011年、4度目の候補でブッカー賞を得た中編小説。引退した主人公トニーのもとへ、思いがけない報せが届き、数十年ぶりに忘れていた記憶の蓋が開く。
トニーはロンドン郊外でひとり暮らしの初老の男。離婚した妻、娘と穏やかな交流を保ち、ボランティアなどをして日々を過ごしている。このまま静かに、平凡な人生が暮れていくはずだった。それなのに1通の手紙から、自らが遠い昔、親しい人に投げつけてしまった心ない言葉や、長きにわたって理解していなかった重大な事情に直面するはめになる。
時計は決して巻き戻せない。もう先が見えている、そんなタイミングで、押し寄せる鋭い悔恨。なかなか残酷な物語だ。
大学時代の恋人ベロニカはトニーと別れた後、よりによってトニーの親友エイドリアンと付き合い始め、トニーは少なからず傷ついた。しかし頭脳明晰、前途有望のはずのエイドリアンは、若くして自ら命を絶ってしまう。それからほぼ四十年。亡くなったベロニカの母親が、トニーにエイドリアンの日記を遺したという。母親はなぜその日記を持っていて、しかもトニーに託したのか。ベロニカはなぜ日記の引き渡しを拒むのか。そもそもエイドリアンの死の真相は…。
全編トニーの独白。気恥ずかしい青春の思い出や、歴史を巡る考察などでユーモラスに彩りつつ、主観的な語りによって巧妙に記憶のズレを仕掛けていく。そして待ちかまえるどんでん返し。精緻だけれど、その巧さよりも、人生の苦さが胸に残る。土屋政雄訳。(2013・11)
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