色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
そして現実の人生に復帰していく。しっかりそいつを生きるんだな。いくら薄っぺらで平板であっても、この人生には生きるだけの価値がある。
「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」村上春樹著(文藝春秋) ISBN 9784163821108
多崎つくる、36歳は、鉄道駅を設計するエンジニア。学生時代、とても幸福だった友人関係を失って、人生が暗転した経験をもつ。そして年上の恋人から、その時何が起こったかを知るべきだと告げられる。
言わずと知れた2013年の書き下ろしベストセラーを読む。著者3年ぶりの長編には、近年目立っていたブラックなファンタジーや暴力の匂いは薄く、リアルな青春の影を題材にしていて、どこか1987年の「ノルウェイの森」を思わせる。
もっとも、自ら死期が近いと語ったジャズピアニストの印象的な挿話あたりでは、現実から浮遊したイマジネーションがかき立てられる。「村上節」の健在ぶりが、なんだか嬉しい。
フェイスブックやツイッターで、個人情報がたやすく手に入る時代に生きながら、人と人は容易に分かり合えない。「世界で最も乗降客の多い駅」を擁する社会であっても、そこには何ら、人間らしいつながりは見いだせない。現代人の、まっとうで誠実な暮らしぶりに潜んでいる、底なしの虚無。
しかし虚無を自覚した淡々とした筆致から、やがて、どこかへ向かって踏み出そうとする、静かで強い思いが立ち上る。そのどこかが、はっきりとは見えなくても。(2013・5)
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