« May 2012 | Main | July 2012 »

June 20, 2012

誤飲

小瓶1つ分に過ぎないのに、手に持ったバッグが、とても軽く感じられた。

「誤飲」仙川環著(小学館文庫) ISBN: 9784094086829

インフルエンザや花粉症など、身近な薬を題材にした連作短篇集。著者お得意の科学知識をからめた医療ミステリーというより、市井の人間模様に重点が置かれていて、また味わいがある。8人の男女を主人公とする8編で、章ごとに登場人物が少しずつ重なっており、緻密な構成だ。

夫婦の軋轢、結婚願望、フリーターからの脱却…。主人公たちは何とか現状を打開しようとしているのだけれど、小さな裏切りによって結局は思惑が外れてしまう、という展開が目立つ。後味は薬のようにほろ苦い。だからこそ、すべり込ませてある前向きのエピソードが、淡い希望を感じさせて効果的だ。ある登場人物がつぶやく、「人生、できることをやっていくしかない」という言葉。なかなか洒落てるなあ。文庫判小説誌の連載に書き下ろしを加えた。電子書籍で読了。(2012・6)

June 19, 2012

「だから演劇は面白い!」

仕事とは、与えられた状況のなかで、その人自身が何を仕事ととらえ、仕事として呼び込むか、だと思うのです。これはお金のことだから会計担当の○○さんの仕事、これはPRのことだから広報担当の××さんの仕事、と勝手に線引きせず、いかにそのはざまからも仕事を探し出して、自分から手を出し、拾い出し、仕事にさせるか。

「だから演劇は面白い!」北村明子著(小学館101新書) ISBN: 9784098250509

敏腕演劇プロデューサーが、舞台制作と俳優マネジメントにまつわる信条、仕事術を語り下ろす。

著者は女優をへて1985年から野田秀樹率いる夢の遊眠社の営業担当、「NODA・MAP」のプロデューサーを歴任したヒットメイカーだ。シス・カンパニー社長として舞台制作のほか、堤真一、段田安則ら実力派俳優を抱えてもいる。興行は水もの、どんぶり勘定が通り相場の演劇界で、いかに黒字を維持しているか。180ページ弱の薄い新書だが、自信たっぷりの語り口が心地良い。

自意識が強い作家や役者とわたり合い、チラシひとつまで工夫をこらして確実にチケットをさばき、稽古から打ち上げまで立ち会って心配りを欠かさない。いかにも大変な仕事だけれど、トラブルこそやる気の源、と言い切るエネルギーが頼もしい。要は好きな舞台を実現し続けるには、収支を合わせなければいけない、という信念なのだろう。
女性スタッフが多いので、社名のシスはシスターからとったと思われがちだが、実はIT用語のSIS、つまり戦略情報システムからとったという逸話が意外。情報の大切さを、あえて無機的に表現したのだそうだ。(2012・6)

June 05, 2012

「深読みシェイクスピア」

芝居の稽古場は発見の場でもある。俳優たちにとってばかりでなく、翻訳者にとってもそうなのだ。彼らの疑問質問に答えているうちに、書斎での作業では気づかなかったことに目を開かれる。

「深読みシェイクスピア」松岡和子著(新潮社) ISBN: 9784106036729

シェイクスピア個人全訳に取り組んだ翻訳家が、手練れの編集者・小森収を聞き手に、生きた舞台における言葉の魅力を語り下ろす。

著者は英米の劇団を羨ましいという。シェイクスピアを英語でそのまま上演でき、翻訳に悩まなくて済むから。けれど、苦労して翻訳するからこそ発見できることもある。
たとえば「ハムレット」。オフィーリアがハムレットを相手に、自分のことを「品位を尊ぶ者」と語るくだりがある。いくら貴族の娘とはいえ、この言葉遣いはちょっと気位が高すぎないか。そんな疑問を解いたのは、蜷川幸雄演出の舞台でオフィーリアを演じた女優・松たか子だという。「私、それ、親に言わされていると思ってやってます」! 松たか子だからこその見事な解釈に、翻訳者ははたと手を打ち、再度全編の訳文を見直すのだ。

ほかにもジュリエットがロミオを呼ぶときの言い方が表すものとか、マクベス夫妻に亀裂が生じた一瞬はいつかとか、様々な解釈の軌跡が満載。演劇の言葉がもつ豊かさ、立体感を味わえる一冊だ。電子書籍で読了。(2012・6)

June 04, 2012

「シャンタラム」

プラバカルは歌を歌いながら歩き去った。それはわかっているからだった--まわりのみすぼらしい小屋で眠る人々の誰ひとり気にしたりしないことを。目を覚ました者がいたとしても、ほんのちょっとのあいだ彼の歌を聞いたら、微笑みながらまた眠りに戻ることを。なぜなら、彼が歌っているのはほかでもない、愛の歌だからだ。

「シャンタラム」(上)(中)(下)グレゴリー・デイヴィット・ロバーツ著(新潮文庫) ISBN: 9784102179413 9784102179420 9784102179437

文庫で3冊・1800ページを超える長編をようやく読了した。1980年代、オーストラリアからボンベイ(現ムンバイ)に流れ着いた脱獄犯、通称リンの波瀾万丈の物語。1952年生まれの著者は実際に武装強盗で服役中の80年に脱走、ボンベイで暮らし、再逮捕されて残りの刑期を務めた後で本書を発表したという。あまりのジェットコースターぶりが一見、荒唐無稽のようだけど、実体験に裏打ちされているらしい不思議な迫力がある。

ボンベイを震撼させるテロ組織「サプナ」の正体、という謎を含んでいるが、読み心地はミステリーではなく大河小説。さしずめインド版「人生劇場」か「青春の門」といったところか。リンは外国人相手のガイドや、スラムでの医師の真似ごとを経て、やがて生き抜くため裏社会に身を投じていく。その過程で深く関わることになる、どいつもこいつもワケありの個性的な面々が魅力的だ。明るく逞しいスラムの住人たち、欧米から流れてきたひと癖もふた癖もある無法者たち、そしてアフガニスタンやパキスタン、中東、アフリカ出身のタフで家族的なマフィアのメンバー。

ところどころ哲学的な問答が挟まったりして、決して読みやすくはない。しかし全編を貫く混沌とエネルギー、リンが魅せられる「愛の土壌」ともいうべきインドの風土が、読む者を巻き込む。田口俊樹訳。(2012・6)

« May 2012 | Main | July 2012 »