おまえさん
これからはもっと巧く登ってやる。次はどんなことをしたって、折れない枝につかまって、赤い実のあるところまで登るんだって、決めたんですよ
「おまえさん」宮部みゆき著(講談社文庫) ISBN: 9784062770729 ISBN: 9784062770736
痒み止め「王疹膏」が大評判の瓶屋主人、新兵衛が殺された。お馴染み本所深川のぼんくら同心・平四郎と賢く美形の甥っ子・弓之助のコンビに、成長株の若手同心・信之助、偏屈なご隠居・源右衛門らが加わって、謎解きに乗り出す。
時代ミステリ「ぼんくら」シリーズ第3作を、単行本と同時発売の文庫で読む。上下巻合計でなんと1200ページもの長丁場を、するすると読ませてしまう筆力が、いつもながら凄い。
なにしろメーンの謎解きという最大の見せ場が、下巻の冒頭で終わっちゃうという掟破りの展開だ。ところが手の内をあかしてから後も、下手人の行方やら何やら、ことが治まるべきところへすっかり治まるエンディングまで、少しも気をそらさない。
いなせな政五郎親分や面倒見のいいおばんざい屋のお徳ら、レギュラー陣の人物造形の魅力は相変わらず。加えてどんな脇役も、それこそ子供からお年寄りまで一人としてゆるがせにせず、人物の背景、なぜそんな言動をするのかを、きっちり描ききって説得力がある。
登場する女たちの弱い立場や貧しさ。誰もがなにかしら不運やら屈託やらを胸に抱え込み、それでもなんとか生きている甲斐のようなものを手にしようと、もがいている。ちっぽけな市井の人々の姿が、いちいち切ない。
時代物であっても人の悩みとか、弱さには普遍性がある。作家が人間に向ける視線の、なんという確かさ。
たとえば政五郎の手下、記憶力抜群の三太郎少年をめぐってドラマがあり、実の母おきえが登場する。ミステリーとしては完全に脇筋なのだが、この母が実に鮮やかだ。身勝手な悪女なんだけれど、逆境をはね返し、自分の手で幸せの赤い実を掴もうと、覚悟を決めている。したたかさが、いっそ爽快。
物語が進むにつれ、ばらばらに描かれてきた各々の屈託が、次第に共鳴し始める。家中で身の置きどころがなかったり、長年隠しごとに苦しんできたり。このへんの展開が精緻だ。不運は誰の身にも降りかかる。しかし同じような不運に遭っても、その時どんな道を選びとるかによって人生はまるっきり違ってしまう。道を分ける決め手は「引き受ける力」のあるなし、なのだろうか。苦みも含んだ人情ドラマを堪能した。(2011・11)
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