「モーダルな事象」
溝口? 誰だ、そいつは? 桑幸が不審の表情を浮かべると、男は自分だけで大きくひとつ頷いてみせた。
「溝口俊平には未発表の作品があったんです」
「モーダルな事象」奥泉光著(文藝春秋) ISBN: 9784163239705
近代文学を専門とする桑潟幸一助教授、通称桑幸(くわこう)。大阪の短大でくすぶっていた彼のもとへある日、無名の児童文学作家・溝口俊平の遺稿が持ち込まれる。太宰治の友人だったという以外、さしたる価値もないと思っていたのに、遺稿を出版するや予想に反して大ヒットとなる一方、関係する編集者が事件に巻き込まれ…。
500ページを超えるボリュームに恐れをなして、ずうっと積んでいた小説を読んだ。手にとってみれば心配は無用、ずんずん読み進みました。
物語が大きく3つのパートに分かれていて、細かく転換しながら進んでいくからテンポがいいし、文章にも独特のリズムがある。パートの1つ目は桑幸の日常で、これが笑っちゃうんだなあ。学者としてなかなか日があたらず、恋愛もうまくいかずに、相当ひがみっぽくなっている。いかにも小市民な言動に、現代日本の文芸出版事情なども透けてみえて、なんだか自虐的。昨年読んだ「シューマンの指」と同じ作家とは思えないほどのユーモアぶりです。
もう1つのパートは、ひょんなことから溝口俊平を巡る事件に関心を持ったフリーライター兼ジャズ歌手、北川アキの謎解き行。北海道、東京の郊外、大阪、京都、そして瀬戸内の孤島へと、この素人探偵のパートだけでも2時間ドラマ4本分ぐらいのミステリーが詰まっている感じです。おおざっぱな性格のアキと、同行する元夫で知的な変人・諸橋倫敦との、つかず離れずの名コンビぶりも楽しい。キャラクターが魅力的ですねえ。
しかし、面白楽しいだけで終わらないのが、奥泉節の侮れないところ。3つ目のパートがくせもので、事件をきっかけに桑幸を悩まし始める伝奇的な悪夢が綴られる。戦中、瀬戸内の孤島で行われていた謎めいた実験、消えた子供たち、外国からもたらされた希少なコインをめぐるオカルト話……。ダークファンタジーのイメージが、物語に色濃く陰影をつける。
伏線に次ぐ伏線、終盤に至って3つのパートが重なり合い、ミステリーとしてきっちり決着がつく。と思ったらさらに、おまけみたいに歴史の書き換えめいたエピソードがくっついていて、口をあんぐり。遊び心満載の筋書きを堪能した後、ニッポンの小説というもの、その蓄積に対するちょっと屈折した愛情が、じわっと染みます。さすがのサービス精神ですね~。桑幸のその後も気になります。巻末にスペシャル・インタヴュー、作品リスト付き。(2011・5)
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