古書の来歴
たまたまはさまっていたパン屑を分析すれば一冊の古書についてどれだけのことがわかるか--それはもう驚嘆に値する。
「古書の来歴」ジェラルディン・ブルックス著(武田ランダムハウスジャパン) ISBN: 9784270005620
シドニー在住の女性研究者ハンナ・ヒースは1996年、国連から著名な稀覯本の修復を依頼され、いさんで紛争終結間もないサラエボに飛ぶ。稀覯本とは「サラエボ・ハガター」。中世スペインのユダヤの祈祷書で、珍しい色つきの細密画で知られていた。果たしてハガターはどのように記され、どのようにしてサラエボにたどり着いたのか? 1冊の美しい本が生き抜いた、文明の衝突と流浪の500年。
実在するというハガターを素材に、想像の翼を思い切り広げたフィクションだ。ハンナは残された蝶の羽やらワインの染みやらを分析して、過去に本がくぐってきた境遇を推理する。まるでリンカーン・ライムシリーズのように、ごく微細な手がかりを追う手際に、まず引き込まれる。
世紀末のウィーン、17世紀初頭のヴェネチア、さらに時代を遡ってスペインへ。わずかな手がかりからイメージが膨らみ、時代時代で本に関わった人々が生き生きと蘇る。短編小説のような一つひとつの逸話は、なんとも人間くさい。背景をつなぐのは、異端審問や追放などユダヤの民がたどった長い足跡だ。その苛酷さには、いささか圧倒される。
仕掛けはそれだけにとどまらない。合間に、現代を生きるハンナの恋とか、母親との軋轢といったエピソードが差し挟まれ、後半に至ってそうしたハンナの物語とハガターにまつわる遠い過去とが、響きあい始める。ミステリ要素まで、てんこ盛り。あくまで重厚な歴史譚を期待するとアテがはずれるだろうけれど、エンタテインメントとしてのサービス精神はたっぷりだ。
宗教や民族の深刻な対立は、今もなくなっていない。人類が経験した様々な悲しい史実を知っていてもなお、人は紛争を避けられないのか。けれど一方で、サラエボ・ハガターが生きながらえてきたということは、苛烈な対立を超えて本を救った人が存在した、ということだ。たとえそれぞれは、歴史に埋もれた名もない人物であっても。
著者はウォールストリート・ジャーナルでボスニア、ソマリア、中東などを取材。小説でピューリッツアー賞を受けたこともある。世の中には才能のある人がいるもんです。森嶋マリ訳。(2011・1)
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