「絹と明察」
男子工員のうちに二三、よく輝やく目を見た。それは単純な矜りに輝やいているのではなくて、もっと冷たい内的な光りである。
『何といい工場だろう。危険の兆候まで具わっている』
と岡野は酔うような気持で思った。
「絹と明察」三島由紀夫著(新潮文庫) ISBN: 9784101050379
人権ないがしろの労働管理をテコに成長する、新興紡績メーカーのワンマン社長、駒沢。政財界のフィクサー岡野は、駒沢の工場でストライキが起こるよう、工員たちの背後にいて巧妙に糸をひく。
SNS読書会の課題本を読んでみた。私は常識に欠けるところがいっぱいあるのだが、その一つが、恥ずかしながら三島文学。没後40年だし、先日、三島歌舞伎をもとにした文楽を観劇した、という巡り合わせもあって、挑戦した。
結論から言うと、面白かった。流麗な文章には実はちょっと馴染めなかったけれど、緩急が心地良い。トントンと進めるところは進めて、ここぞ、というシーンに華麗な形容詞をつぎ込む。だから盛り上がるシーンは、とても映像的で鮮やかに目に浮かぶ。たとえば大詰め、ストライキの青年リーダー、大槻と対面する直前に、駒沢が目にする真っ赤なカンナの花など。
モデルになったのは1954年の近江絹糸争議だとか。駒沢は劣悪な労働環境を棚に上げて、家族的経営なのだと言い張っていた。その姿勢が世間から指弾され、労働運動の盛り上がりの前についに敗れ去るのは時代の流れ。しかし、作家はそれだけでは物語を終わらせない。最終章で、それぞれの信じるものが一気に流動化してしまう。それぞれの価値観の、なんという不確かさ。
登場人物がみな個性的で、物語が進むに連れ、印象が微妙に変わっていくのも秀逸だ。元インテリ芸者の寮母とか、大槻の清純そうな恋人とか。
私たちの常識は、駒沢の主張を当然、明確に否定する。けれど本当に、その理不尽な家族主義を拒絶できるのだろうか。いま現在、本当に「家族主義的なもの」に寄りかからず、きちんと自分の頭で考え、自分で決め、自分の足で歩いていると言い切れるのか。70年代からバブル経済、失われた20年を経ても、この問いは色あせない意味をもっているように思う。発表が1964年、東京オリンピックの年だということに、ただ驚くばかりだ。(2010・9)
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