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September 20, 2010

「絹と明察」

男子工員のうちに二三、よく輝やく目を見た。それは単純な矜りに輝やいているのではなくて、もっと冷たい内的な光りである。
『何といい工場だろう。危険の兆候まで具わっている』
 と岡野は酔うような気持で思った。

「絹と明察」三島由紀夫著(新潮文庫) ISBN: 9784101050379

人権ないがしろの労働管理をテコに成長する、新興紡績メーカーのワンマン社長、駒沢。政財界のフィクサー岡野は、駒沢の工場でストライキが起こるよう、工員たちの背後にいて巧妙に糸をひく。

SNS読書会の課題本を読んでみた。私は常識に欠けるところがいっぱいあるのだが、その一つが、恥ずかしながら三島文学。没後40年だし、先日、三島歌舞伎をもとにした文楽を観劇した、という巡り合わせもあって、挑戦した。

結論から言うと、面白かった。流麗な文章には実はちょっと馴染めなかったけれど、緩急が心地良い。トントンと進めるところは進めて、ここぞ、というシーンに華麗な形容詞をつぎ込む。だから盛り上がるシーンは、とても映像的で鮮やかに目に浮かぶ。たとえば大詰め、ストライキの青年リーダー、大槻と対面する直前に、駒沢が目にする真っ赤なカンナの花など。

モデルになったのは1954年の近江絹糸争議だとか。駒沢は劣悪な労働環境を棚に上げて、家族的経営なのだと言い張っていた。その姿勢が世間から指弾され、労働運動の盛り上がりの前についに敗れ去るのは時代の流れ。しかし、作家はそれだけでは物語を終わらせない。最終章で、それぞれの信じるものが一気に流動化してしまう。それぞれの価値観の、なんという不確かさ。
登場人物がみな個性的で、物語が進むに連れ、印象が微妙に変わっていくのも秀逸だ。元インテリ芸者の寮母とか、大槻の清純そうな恋人とか。

私たちの常識は、駒沢の主張を当然、明確に否定する。けれど本当に、その理不尽な家族主義を拒絶できるのだろうか。いま現在、本当に「家族主義的なもの」に寄りかからず、きちんと自分の頭で考え、自分で決め、自分の足で歩いていると言い切れるのか。70年代からバブル経済、失われた20年を経ても、この問いは色あせない意味をもっているように思う。発表が1964年、東京オリンピックの年だということに、ただ驚くばかりだ。(2010・9)

September 18, 2010

「おへそはなぜ一生消えないか」

体細胞は、「その個体に限り」という制限があるが故に多少の変異が許容されつつ、不等複製されて多様化した存在なのである。

「おへそはなぜ一生消えないか」武村政春著(新潮新書)  ISBN: 9784106103520

食べる口としゃべる口はなぜ別ではないのか、年をとるとなぜ傷が治りにくくなるのか? 素朴な疑問を入り口にして、分子生物学者が人体の不思議を読み解く。

発生や老化といった現象は馴染み深いものだけれど、その仕組みを説明しろと言われたら、たいていの人はできない。本書ではそのあたりを、人体は「複製」によって形作られる、という観点から解説していく。
ジョークや例え話を豊富に散りばめていて、語り口は軽快だ。とはいえ新書サイズという制約のせいか、素人にはちょっと理解しきれないところもあって、個人的には、みるみる謎が解ける、という感じには到達しなかった。それだけ人体の謎は深遠、ということなのかも。(2010・9)

September 05, 2010

「しゃべれどもしゃべれども」

どの顔も、どの顔も、自分のこれからに自信や希望がもてないで困っていた。
 その困っている連中に、俺はなぜか落語を教えていた。俺自身が落語に困っているというのに、教えているのだった。

「しゃべれどもしゃべれども」佐藤多佳子著(新潮文庫) ISBN: 9784101237312

噺家二つ目の今昔亭三つ葉は、ひょんなことから素人に落語を教えるはめになる。腕が良くてハンサムなのに、口べたで苦労しているテニスコーチ、とんでもなく無愛想な元小劇団の女優…。個性的な面々との葛藤と成長の日々。

SNS「やっぱり本を読む人々。」選出「100冊文庫+20」のうちの一冊を、旅先に持参して読んだ。これが初の佐藤多佳子さん。

明るくて軽妙で、すいすい読める。けれど、巻末の北上次郎さんの的確な解説にもあるように、ちょっと違和感のあるイメージが巧妙に散りばめられていて、深みを感じさせるところが、巧い。人って、嬉しいときでもただ笑うだけじゃないし、他人からはこの上なく平凡にみえる日常も、当人にとっては平凡なだけじゃあない。

落語を学ぶ「生徒」たちがそれぞれに抱える悩みは、ごく短く言えばコミュニケーションの問題だ。しかし周りの人の気持ちがわからないわけではなく、わかり過ぎてしまってややこしくなっている、というあたりが、なんとも今日的で、身につまされる。

登場人物は、「坊ちゃん」とあだ名されるほど直情型の主人公・三つ葉はもちろん、ほんの脇役に至るまで皆、生き生きして魅力的。個人的には特に白馬師匠がお気に入り。ダンディーで毒舌で、古典を「現代に通用しない」と痛烈にくさしながらも、結局は落語という時代遅れの芸を愛してやまない。格好良いなあ。(2010・8)

「舞姫通信」

「思い詰めて、どこが悪いんだ」

「舞姫通信」重松清著(新潮文庫) ISBN: 9784101349114

研究に挫折し、しかたなく教師に転じた27歳の岸田。赴任した女子校では十年前、みずから宙に踊った「舞姫」という生徒のことが伝説となっていた。

ずっと積んでいた文庫を読んだ。簡単に解決の道が見えるわけではない、生真面目な空気は、この著者らしい。でも、名前の覚えが悪い教師と気まぐれな女子高生たちという、さほど深くはない人間同士のつながりに、一筋の光明が差す。

解説はなくて、かわりに著者による「文庫版のためのあとがき」がついている。それによると、フリーラーターとしての初仕事は岡田有希子に関する本だったという。そして、この作品の単行本が出たのは、いじめの問題がクローズアップされていた1995年。さらに10数年がたっても、若者が抱える悩みや、希望なき衝動は決して癒されていないけれど、私たちは諦めずに、しつこく考え続けるしかないのかもしれない。(2010・9)

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