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July 23, 2010

「小さいおうち」

 東京でオリンピックが開かれたのは、昭和十五年ではなくて、三十九年だと、いまでは誰もが知っている。
 けれど、昭和十年には、五年後には東京大会が開かれると、それこそ誰もが思っていた。

「小さいおうち」中島京子著(文藝春秋) ISBN: 9784163292304

昭和初期の東京郊外。赤い三角屋根の文化住宅で、女中として過ごしたタキの回想。

久々に、もっていかれた。はらはらドキドキするとか、作家が提示する世界に圧倒されるとかとは違う。気持ちを丸ごと、ぐんともっていかれて、夢中になって読んだ。

物語の大半を占める、タキの手記が秀逸。270ページを費やして生き生きと、平井家で暮らした日々を描く。たった2畳の板の間だけど、田舎からひとり出てきた10代の少女にとって、与えられた部屋は大切な自分の居場所だ。ささやかな誇りをもって家事を取り仕切り、体の弱いぼっちゃんの世話を焼き、たまには京橋のアラスカや日本橋三越での楽しい食事にお相伴する。
過不足のないディテールと、散りばめられた愛らしいユーモアに引き込まれ、読む者はやがて物語のなかの空気をともに呼吸し始める。まるでジャック・フィニイの「ふりだしに戻る」のように。

二十代の若奥さま、時子のなんと輝いていることか。美しいものが好き。といっても、大変な贅沢をするのではない。ちょっとした、きらきらしたものを愛おしむ。子どもっぽく駄々をこねたりもするけれど、その気性にはきっぱりした面がある。甘やかな、若さの記憶。

物語にまんまとどっぷり浸かってしまったから、ラスト50ページほどの「最終章」の展開には本当に驚き、そして切ない気持ちを味わった。見事な構成力。人には長い長い時間をかけなければ、気付けないことがある。時代や社会がどこへ向かっているのかも、自分がとった行動のわけも、そのとき何を求めているのかさえも。

古い雑誌のような装丁も美しい。直木賞受賞。(2010・7)

July 18, 2010

「雪沼とその周辺」

このまま仕事を続けていたら、俺の人生もなにかを冷やすためによけいな熱を出すだけで終わりかねないぞと胃が痛むほど悩んでいた三十代の自分の姿を、しかし彼はもうはっきり思い出すことができなかった。

「雪沼とその周辺」堀江敏幸著(新潮文庫) ISBN: 9784101294728

山あいの町、雪沼に住む人々の、ささやかだけど劇的な人生の一こま。

SNS「やっぱり本を読む人々」選出の100冊文庫+20冊の1冊である、連作短編集を読む。芥川賞作家をつかまえてこういうのも実に変だけれど、やっぱり巧いなあ。流れるようでいて、決して饒舌すぎない絶妙のバランス。まさに読むことの快適さ。

舞台になっているのは市井の人が日々の糧を得ている、当たり前の場所だ。小さいボウリング場とか、書道教室とか商店街のレコード店とか。少ない言葉だけど的確にディテールが描かれ、登場人物それぞれがこの場にいる事情がしっかりわかる。日常という名の、確かな手応えがある。

不思議なことは何も起こらない。あるのは、人生の節目にふと振り返って、自分が失ってきたものを想起する、そんなしみじみとした感覚だ。後悔とか諦念とは、また違うのだが、そういう一瞬があるから、人は今、手の中にあるもののことを大切に思えるのかもしれない。川端康成文学賞(「スタンス・ドット」)、谷崎潤一郎賞受賞。(2010・7)。

「アフリカを食い荒らす中国」

アフリカに進出した中国企業はすでに推定九〇〇社。アフリカの中国との貿易額は、トップのフランスとの貿易額に次ぐまでになっている。

「アフリカを食い荒らす中国」セルジュ・ミッシェル、ミッシェル・ブーレ著(河出書房新社) ISBN: 9784309245003

アフリカ大陸の14カ国を訪れ、中国系企業の活動ぶりを追ったルポ。扇情的な書名がついている(原題は「シナフリック」だそうだ)が、特に何か驚くような事実が記されている感じはしない。情報(2008年段階)は全般に断片的で、漠然としている。
ただ、世界経済が常に変化し続けているという、いわば当たり前のことを改めて考えさせる一冊ではある。もちろん、著者はフランス、スイスのジャーナリストであり、本書の記述にはその立場からのフィルターがかかっているだろう。それを踏まえたうえで、今ここにあるグローバリゼーションというものは、どことなく見覚えがある構図のようでも決してシンプルではないし、単純な思考や単純な危機意識ではとらえきれないであろうと思えてくる。中平信也訳。(2010・7)

July 04, 2010

「言の葉の樹」

森や山で、村や都でみんな物語を語った、声を出して語った、声を出して読んだ。しかしその当時もそれはすべて秘密だった。創世の神秘、世界の根っこの、暗闇の神秘。

「言の葉の樹」アーシュラ・K・ル・グィン著(ハヤカワ文庫SF) ISBN: 9784150114039

独裁政権のもと、科学技術と進歩を追求する惑星アカ。しかし宇宙連合の「観察員」サティは地球から派遣されてきて、この星の捨て去られた伝統文化を再発見する。

読書会の課題本をお借りし、「SF界の女王」のハイニッシュ・ユニヴァースシリーズに挑戦。私はSFの素養に著しく欠けるので、助言に従って巻末の小谷真理さんの解説を先に読んでしまった。なんだかすごく悪いことをしているような気分だったけど、そこまでしても、ちゃんと理解したという実感をもてないのが情けない。

進歩を優先するアカの政権は、本とか文字といった古い文化を徹底的に弾圧している。しかしサティが田舎の村まで足を運んで、人々の「語り」に耳を傾けてみると、封印された古来の価値観が、生き生きとした輝きをもって浮かび上がってくる。なんだかこれって、戦後の高度成長期に日本を訪れた欧米の文化人類学者か作家が、田舎のお寺に滞在し、日本人の暮らしぶりについて淡々とエッセイを書いているみたい……。読んでいる間、そんなイメージが頭を離れなかった。

中盤のサティの考察は、個人と国家とか、進歩と幸福とか、単一価値観の暴力性とか、いま世界で起きている現実のうつし絵に見えて仕方がなく、あまりと言えばあまりに地球的。何故あえてSFなの?と思っちゃいました。

もっとも大詰めに至って、やっぱりこれはSFでなければ書ききれないテーマなのかなあ、と感じられてきた。山奥の秘められた図書館のスケール感、あるいは「風に乗る」ということのイメージが鮮やかだ。小尾美佐訳。(2010・6)

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