「横道世之介」
「お父様、そんなに次々質問したって世之介さんが答えられるわけないじゃないの」
この辺でやっと祥子が救いの手を差し伸べてくれる。だが、「お前はじゃあ、見込みのない奴と付き合ってんのか?」と父親は冷たい。
「あるに決まってるじゃない。世之介さんはね、私がこれまでに会った誰よりも見込みがあります!」
あ、いや……。
世之介、声を出せず。
「横道世之介」吉田修一著(毎日新聞社) ISBN: 9784620107431
バブルという、偽りの上り坂にいたころの東京。長崎から上京してきた大学生、世之介が過ごす1年。
中盤まではまるで、よくできたコメディ映画を観ているような感じ。世間知らずでお人好しの世之介の、ごくごく平凡だけど微笑ましい日常がテンポよく綴られる。
なにしろ、大学でうっかりサンバサークルなるものに入り、派手な衣装でカーニバルに参加したものの、スタート前に熱中症で気絶し担架で運ばれてしまう。かと思えば、知り合ったお嬢さま女子大生から突然「海に行きません?」と誘われ、腰に浮き輪の海水浴スタイルでついていったら、車でヨットハーバーに乗り付けられて動転する。軽妙で、馬鹿馬鹿しくて、とてもあの「悪人」と同じ作家とは思えません。
中盤にいたる頃には、読む側はすっかり油断してしまう。世之介が実際に、かつて自分の大学の同級生にいたような気になっている。「よく覚えていないけれど、なんか良い奴だったな」と。
しかし、やっぱり吉田修一は侮れない。ところどころに、彼を取り巻いていた友人や恋人の現在が、短く挟まれる。「あのころの未来」から振り返ったとき、世之介という、ふざけた名を持つ愛すべき一人の男が、人々の心に小さな明かりを灯していたことに気づいて、ふいに胸をつかれるのだ。
あれからバブルは当然のごとくはじけ、心底がっかりしたこと、うまくいかないことも沢山あった。けれど東京って街も、まんざら捨てたもんじゃないな、という気分になってくる。
「タカビー」なパーティーガールの千春、お嬢さま過ぎて何かと調子が狂う祥子ら、登場人物がもれなく魅力的だ。秀作。(2010・3)
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