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February 25, 2010

「天地明察」

「日と月を、算術で明らかにするか」
 ますます不思議そうな酒井だった。かと思うと、やけに淡々とした、あるいは澄んだような目で春海を見た。
「天に、触れるか」

「天地明察」冲方丁著(角川書店) ISBN: 9784048740135

四代将軍、家綱の時代。幕府に仕える碁打ちの後継者に生まれながら、改暦という一大事業に乗り出した渋川春海の半生。

爽やかな物語だ。終盤こそ、目的達成のため政治的な駆け引きが繰り広げられるものの、全編を通して登場人物たちは皆びっくりするくらい一途。ひたすら算術を極め、天体を観測し、挫折を繰り返しながらも一歩一歩、信じられる暦というものに近づいていく。
正直、前半はちょっと爽やかすぎるかな、という物足りなさが頭をよぎる。しかし中盤過ぎ、春海と孤高の天才・関孝和との一途同士の対面シーンでははからずも 涙。単行本470ページ余の長さだが、軽みがあるからちっとも長く感じさせない。

1600年代の日本人の知恵には驚かされる。和算で日蝕の日付やら地球の公転の軌道やらをはじき出す。不勉強なせいもあるけれど、いちいち「おおっ!」と驚く。
さらに気分がいいのは、天才学者であれ政治家であれ、それぞれの人物がなすべきことをなすという、まさに天の配剤を目の当たりにする感じだ。例えば老中、酒井。今で言えばたぶん内閣総理大臣のような地位に上り詰めながら、常に淡々とした態度で平和国家の礎を築いていく。奢らず、かといって卑下もせず。人として、こうありたいものです。そのへんが作家のメッセージなのでしょうか。2010年本屋大賞第1位、第31回吉川英治新人賞受賞。(2010・2)

「天地明察」冲方丁  本を読む女。
最近読んだ本 『天地明察』 冲方丁著 りょうかんのブログ

February 24, 2010

「戦後世界経済史」

質に関する劣悪な情報を背景とする市場取引が早晩崩壊することは、経済理論の教えるところであった。正義や正直といった徳が、実は市場そのものの存立の大前提であったことをわれわれは再認識させられたのである。しかしこれは、一部の関係者の「貪欲さ」を非難すれば済むという問題ではない。

「戦後世界経済史」猪木武徳著(中公新書) ISBN: 9784121020000

第2次大戦からの復興、アジア諸国の台頭、社会主義経済の帰結、そしてバブル崩壊など資本主義経済の迷走を、「市場」の視点から概観する。

欧州、米国、アジア、アフリカと、著者は世界中を飛び回りながらテンポ良く約60年の歴史を駆け抜けていく。素養が足りないので、350ページを超える内容をちゃんと消化できた、とはもちろん思わない。しかし読み進むうち、おおまかにせよ世界経済の流れが頭の中で整理されていく感じが心地よい。

ビジネスに携わる人々が、時々刻々の変化と不確実性を捉える上で、価格こそが大きな役割を果たす。そういう「市場」に対する著者の基本的な評価は揺るぎない。その上で市場の失敗にも言及。経済が揺らいだときに、単に特定のプレイヤーの振る舞いを糾弾するのではなく、揺らぎを防ぐ「システム」の進化に衆知を集めるべきだ、と指摘する。なんだかポジティブ。名画「ローマの休日」とマーシャル・プランの関係など、ミニ知識で楽しませる工夫も散りばめられている。(2010・2)

February 13, 2010

「カイシャデイズ」

「隈元に同じことを言われた。だけど、この歳になって新しいことなんてもう思いつかないよ。どうしたらいい? トキちゃん」
「もう一度」水木の顔を見ず、もうすぐホームに入ってこようとする、総武線の黄色い車体へ、大屋は視線を向けた。「莫迦になればいいと思います」

「カイシャデイズ」山本幸久著(文藝春秋) ISBN: 9784163268507

東京・東中野にある社員47人の内装会社、ココスペース。そこで繰り広げられる、ささやかな働く人々の日常。

ほろ苦くて、軽やかな群像劇だ。才能はあるけど身勝手なデザイナー、元DJでやる気がない若手営業マン、庶務一筋の怖そうなベテラン女性…。往年のお仕事ドラマ「ショムニ」や「ハケンの品格」みたいな、スカッとする展開はない。けれど登場人物それぞれが、それぞれのやり方で同僚や取引先と向き合い、自らの仕事に向き合おうとする姿に、著者は温かい目を向けている。

なかでもキャバクラ好きの営業チーフが魅力的だ。部下が会社に来なくなっちゃっても説教ひとつするでなし。しかし、いざ何かを実現しようと思えば顧客のビルの壁だってぶち抜いちゃう。肩肘張らず、卑屈にもならずに、飄々と「仕事を生きる」。それは「真面目に働く」といったこととは、ちょっとニュアンスが違う。どこか稚気がある。
稚気といえば、社長以下ココスペース社員たちのいちいち楽しい言動には、いくつになっても大人になりきれない感じが漂っている。たびたび登場する輪ゴム鉄砲を飛ばしていたずらする姿が、その印象を象徴しているようだ。著者自らの経験に裏打ちされているからか、経費の処理とか売り掛けの回収といった、お仕事の細部もリアル。(2010・2)

カイシャデイズ 山本幸久 粋な提案

February 07, 2010

「眼の奥の森」

風はないのに陽に照らされた雑草と二本のタンカンの木が揺れているのは、久子の目に滲むもののせいだった。

「眼の奥の森」目取真俊著(影書房) ISBN: 9784877143930

太平洋戦争末期、沖縄の小さな島で事件は起こった。60年あまりの時をこえ、人々の心をしめつける記憶。

力のある物語だ。米兵に向かっていった少年や村の人々、日系人の通訳ら、次々に語り手を変えながら記憶をたどる連作。ときに耳慣れない島の言葉をまじえて語られるそれぞれのエピソードは、悲惨なシーンを読む者にまざまざと想起させ、暗い熱気をはらんで息苦しいほど。だけど、決して目をそらさせはしない。

加害者、そして傍観者に向けられる著者の怒りは激しく、深い。それと同時に、いったい誰が加害者であり、傍観者なのか、と問い続ける、強靱で重層的な想像力を備えていて、いやおうなく読者にも思考を迫る。読み心地はあまりなめらかではないと思うのだけれど、小説というものの力を感じさせる。(2010・2)

February 06, 2010

「白馬山荘殺人事件」

ところで頼みがある。しらべごとをしてほしいのだ。妙なことと思うだろうがふざけているわけじゃない。おれは真剣だ。しらべごとというのは、「マリア様が、家に帰るのはいつか?」ということだ。

「白馬山荘殺人事件」東野圭吾著(光文社文庫) ISBN: 9784334711221

謎の頼みごとを書き残し、旅先で自殺した兄。疑問をぬぐえず、そのペンションを訪れた妹ナオコと親友マコトは、新たな事件に遭遇する。

ずっと放置していた古い文庫を、ふと思いたって読んだ。なんと86年にカッパ・ノベルスとして発行された著者の長編第3作。90年初版の文庫版解説(権田萬治氏)では、「本格派の旗手」と紹介されていて時代を感じます。
実際、本作のお膳立ては山間のペンションに集う常連客、密室、マザーグースの詩を駆使した暗号、女子大生探偵と、ミステリファンへのサービスがたっぷり。楽しく、あっという間に読めた。
お約束のミステリ要素をわざとらしく感じさせない筆力や、2段構えになった謎解きの緻密さには、すでに現在のヒットメーカーの片鱗があるんじゃないでしょうか。結末のほろ苦さ、登場人物の意外な「正体」も、さりげなくて巧いなあ。(2010・2)

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