「お菓子と麦酒」
つまりいかなる感情も、いかなる悩みも、それを小説の主題に使ったり、随筆評論の添え物として使って、白紙に書きおろしてしまえば、すっかり忘れ去ることができるのだ。作家こそ唯一の自由人といえよう。
「お菓子と麦酒」サマセット・モーム著(角川文庫) ISBN: 9784042973010
著名な作家、亡きドリッフィールドの伝記を書こうとしている友人から、無名時代のエピソードを提供するよう求められた主人公が、ひとり回想する若き日のドリッフィールドとその妻。
SNS読書会の課題本として読んだ。中盤までは、ちょっと寂聴さんが書く文壇裏話のよう。発表されたのが1930年だから、小説のなかの回想シーンは19世紀末あたりのイギリスか。当時の作家たちが名をなしていくプロセスや、彼らを取り巻く文人好きの貴族らの生態が、生き生きと、ときに俗っぽく描かれる。随所に少し斜に構えた作家論、小説論も散りばめられ、興味深い。もっとも私は、当時の作家とか小説とかの知識を持ち合わせないので、どうもピンとこないなー、と感じていた。
しかし残り3分の1ぐらいになって人間関係が動き出すと、ぐんぐん弾みがついて引き込まれた。特に文豪の妻、ロウジーの人物像がとても魅力的。罪深いけれど決して憎めず、ふるまいは軽薄だけど実は深い思いを秘めている。そんなロウジーの真実を主人公だけが知っていて、読者にだけ一端を打ち明けましょう、というかのような、内緒話感覚の筆致が面白い。
生まれ育ちとか、教養とか、道徳観念とか。人が他人の「上等かそうでないか」を見分ける基準というのは、どういう人物と親しく付き合っていくか、ひいては生き方の「軸」を規定しかねない。でも、そのモノサシは見方によって随分違ってくるものだ。
真実の口当たりはほろ苦い。終盤で主人公は、そういう苦さを文字にしないではいられない、作家という人種の性を吐露する。その率直さがあるからか、後味は軽やかで、どこか甘酸っぱい。厨川圭子訳。(2010・1)
サマセット・モーム 『お菓子と麦酒』 四畳半読書(猫)系
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