« December 2009 | Main | February 2010 »

January 31, 2010

「お菓子と麦酒」

つまりいかなる感情も、いかなる悩みも、それを小説の主題に使ったり、随筆評論の添え物として使って、白紙に書きおろしてしまえば、すっかり忘れ去ることができるのだ。作家こそ唯一の自由人といえよう。

「お菓子と麦酒」サマセット・モーム著(角川文庫)  ISBN: 9784042973010

著名な作家、亡きドリッフィールドの伝記を書こうとしている友人から、無名時代のエピソードを提供するよう求められた主人公が、ひとり回想する若き日のドリッフィールドとその妻。

SNS読書会の課題本として読んだ。中盤までは、ちょっと寂聴さんが書く文壇裏話のよう。発表されたのが1930年だから、小説のなかの回想シーンは19世紀末あたりのイギリスか。当時の作家たちが名をなしていくプロセスや、彼らを取り巻く文人好きの貴族らの生態が、生き生きと、ときに俗っぽく描かれる。随所に少し斜に構えた作家論、小説論も散りばめられ、興味深い。もっとも私は、当時の作家とか小説とかの知識を持ち合わせないので、どうもピンとこないなー、と感じていた。

しかし残り3分の1ぐらいになって人間関係が動き出すと、ぐんぐん弾みがついて引き込まれた。特に文豪の妻、ロウジーの人物像がとても魅力的。罪深いけれど決して憎めず、ふるまいは軽薄だけど実は深い思いを秘めている。そんなロウジーの真実を主人公だけが知っていて、読者にだけ一端を打ち明けましょう、というかのような、内緒話感覚の筆致が面白い。
生まれ育ちとか、教養とか、道徳観念とか。人が他人の「上等かそうでないか」を見分ける基準というのは、どういう人物と親しく付き合っていくか、ひいては生き方の「軸」を規定しかねない。でも、そのモノサシは見方によって随分違ってくるものだ。

真実の口当たりはほろ苦い。終盤で主人公は、そういう苦さを文字にしないではいられない、作家という人種の性を吐露する。その率直さがあるからか、後味は軽やかで、どこか甘酸っぱい。厨川圭子訳。(2010・1)

サマセット・モーム 『お菓子と麦酒』 四畳半読書(猫)系

January 28, 2010

「逝かない身体」

リラックスしているときは顔を見ればすぐわかる。明らかに肌がさらっとしていて涼しげだ。

「逝かない身体」川口有美子著(医学書院) ISBN: 9784260010030

英国駐在の金融マンの妻として、また二人の子の母として、ロンドン郊外で充実した日々を送っていた著者に突然、不穏な知らせが届く。母が重篤な神経難病ALS(筋萎縮性側索硬化症)と診断されたのだ。そこから始まった、長い在宅介護の日常と、強靱な思索の記録。

非常に冷静で、知的な印象のある本だ。テーマとなっているのは、年間の発病が10万人あたり2人という希少な病。しかも病状が進むと、意思表示の力さえ奪われるという苛酷さだ。病人本人はもちろん娘である著者、そして周りの人々には想像を絶する様々な葛藤があったろう。

しかし著者は日々の介護の、きわめて実際的な工夫や知恵の記述のほうに、けっこうページを割いている。意思表示できない病人の体温をきちんと調節することとか、ちょっとした汗の理由を読み取ることとか。時には健全なユーモアさえ含んで、等身大の体験が淡々と描かれる。だからこそ、壮絶なまでの絶望とたくさんの涙、そこから掴み取ったある確信が、実感をもって読むものに迫る。

社会や家族の役割、生きる意味というものを、長い時間をかけて考え抜いた著者は、次第に視線を外に転じていく。ホームページを通じて全国に散らばる同じ境遇の患者や家族を励まし、自ら介護事業所を立ち上げ、やがては大学院に学んで論文を書く。介護を続けながらの、驚くべき行動力。その、やむにやまれぬ思いの一端に触れれば、誰しも泣いてなんかいられないのだ。大宅壮一ノンフィクション賞受賞。(2010・1)

January 16, 2010

単純な脳、複雑な「私」

脳は顔に敏感なんです。ところが、顔全体をじっくり隈なく見ているようで、実際には、顔の半分しか見ていない。左側だけです。左側さえ男だったら、右が女であっても全体を男だと思っちゃうんですね。

単純な脳、複雑な「私」 池谷裕二著(朝日出版社)  ISBN: 9784255004327

1970年生まれの脳研究者が、その最新の成果を語った、母校・静岡県立藤枝東高での4日間。

ちょっと久しぶりに面白かった! 「脳ブーム」といわれる本はこれまで何となく敬遠していて、「読まず嫌い」だったけど、これは手にとってよかったです。

まず高校生に対する講義録なので、語り口が平易。脳の認識や記憶の仕組みに関するエピソードが満載で、「へえ」と感心しながらどんどん読み進められる。例えば脳の構造上、見たものの判断に影響するのは左側の視野が中心で、顔の特徴を把握するのも向かって左。従って名画「モナリザ」が神秘的に感じられるのは、よく見ると逆の右サイドだけで笑っているからではないか……とかね。

これはほんの序の口。ほかにも身体感覚と認識との意外に深い関係とか、「心が痛い」という表現の秘密とか、面白い話がたくさんあるけれど、ネタバレは差し控えます。そうこうしているうちに話は展開し、ヒトの脳という器官がいかに少ないエネルギーで、いかに見事な情報処理をしているか、を解き明かしていく。このあたりは自分とは何か、心とは何か、という問いにつながっていてエキサイティングだ。

もちろん簡単に断定できたり、結論づけられたりするテーマではないのだろう。それを認めている、著者の潔い態度が誠実。終盤はかなり難しい内容になっていて、正直、私がちゃんと理解できたとは思わないけれど、欄外のパラパラマンガで図解するといった「伝える工夫」も怠りなく、自分なりにとても楽しい読書でした。(2010・1)

January 13, 2010

悪意

 容疑事実をすべて認めた彼であるが、ただ一つ、固く口を閉ざしていわないことがある。
 それは動機についてだ。

「悪意」東野圭吾著(講談社ノベルス)  ISBN: 9784061821149

人気作家が自宅で絞殺された。犯人が抱いた、殺人を犯すほどの悪意とは、果たして供述通りのものなのか。警視庁・加賀刑事が真実に迫る。

加賀恭一郎シリーズの第4作。ストーリーを語るうえで、中盤までの半分近くは当事者の手記という形をとっており、それが実は意図的に歪められている。この著者らしい、読者を幻惑する凝った構造がまず見事。しかし、そういうテクニックの妙にさほど気を取られないほど、終盤の展開が面白い。事件の構造が2転3転し、やがて明らかになる悪意の姿にぞくりとする。

加賀刑事って、このころから人間観察が鋭かったんだなあ。彼が教師を辞めたいきさつも語られていて、ファンにとっては興味深い。

奥付をみたら2000年1月の発行。うっかり先に2001年のNHKドラマ版を観てしまい、原作のほうはなんとなく積んだままになっていたけど、ドラマの記憶もだいぶ薄れたし、最近、加賀シリーズ最新作の「新参者」を読んだこともあって手にとった。そういえばドラマではなぜか、刑事役は加賀さんじゃなく別の人物像になってましたね。1996年の単行本をノベルス化、2001年に文庫化。(2010・1)

100冊文庫の20冊追加

SNS「やっぱり本を読む人々。」の投票企画、「100冊文庫」にこのほど、20冊が追加されました! メンバーの推薦、投票を経た結果は以下の通り。

「博士の愛した数式」小川洋子
「風が強く吹いている」三浦しをん
「夜は短し歩けよ乙女」森見登美彦
「それからはスープのことばかり考えて暮らした」吉田篤弘
「一瞬の風になれ」佐藤多佳子
「人間失格」太宰治
「国盗り物語」司馬遼太郎
「悲しみよこんにちは」フランソワーズ・サガン
「イン・ザ・プール」奥田英朗
「流星ワゴン」重松清
「贖罪」イアン・マキューアン
「マシアス・ギリの失脚」池澤夏樹
「一九八四年」ジョージ・オーウェル
「雪沼とその周辺」堀江敏幸
「裏庭」梨木香歩
「料理人」 ハリー・クレッシング
「泣き虫弱虫諸葛孔明〈第1部〉」酒見賢一
「赤い竪琴」津原泰水
「八朔の雪―みをつくし料理帖」高田郁
「千年の黙 異本源氏物語」 森谷明子

私の既読率は半数弱。「雪沼とその周辺」が面白そうだなあ。

January 07, 2010

「恥ずかしい読書」

いろんな本を逆さにしてみた。意外な発見は書道である。石川九楊『一日一書』(二玄社)は、毎日一文字ずつさまざまな書について語ったコラム集だ。書なんて、上と下があって初めて成り立つものなのに、逆さにしたり横にしたりすると、ほとんど抽象画あるいは記号のように見えてくる(漢字も記号のひとつではあるのだけど)。

「恥ずかしい読書」永江朗著(ポプラ社) ISBN: 9784591083888 

出版・書店関連の著作で知られるライター兼エディターが、読む楽しみをつづる。

奥付を見ると2004年の出版。この1年ぐらいぽつぽつと読んできて、ようやく読了した。こんなことでは、とても著者のような本読みにはなれない。なにしろ歯磨きしながら本を読むのだ。もっともこの歯磨き読書の目的は速読とかではなくて、哲学書などを読み通すための工夫だという。つまり一定時間、逃れられない状況で読む。

本棚の蘊蓄やら、知る人ぞ知る書店廻りガイドやら、興味深いテーマが並んでいるけれど、やっぱり「読み方」の話が面白い。例えば本を逆さにしてみると何が見えてくるか? 
実践したわけじゃないけど印象に残ったのは、索引読み、略してサクドクのススメ。難解な専門書の場合、末尾の索引から主だったキーワードを選んで、その語に触れたページを拾い読みするだけでも、概略をつかめると著者は説く。で、索引がない本の場合はどうしたらいいかというと、専門書なのにちゃんとした索引を備えていない本は、そもそも読む価値がないのだそうだ。なるほど。(2010・1)

January 05, 2010

「龍神の雨」

雨を見るたび、蓮は胸が苦しくなる。
あの日、雨さえ降らなければ、こんなことにはならなかったのだ。

「龍神の雨」道尾秀介著(新潮社) ISBN: 9784103003335

9月。台風が訪れて激しい雨が降りしきる数日間に、2組のきょうだいの悲劇が交錯する。

2010年の初読み。主人公たちが翻弄される、どうにもならない運命を、避けようがない雨に象徴させたところが憎い。そして終盤4分の1、種明かしに突入してからの、読むものの先入観を次々に覆していくスピード感はさすがだ。

ただ、設定の重苦しさはぬぐえない。なにしろ主人公たちは、ひと組は高校を出たばかりの兄と中学生の妹、もうひと組は中学生の兄と小学生の弟だ。幼い彼らの境遇、その心の屈折はなんとも痛々しい。基本的には子供たちの視点、つまり彼らが理解する範囲で物語が展開するせいか、伏線が解き明かされた後の納得感も今ひとつの気がする。もっとも、あえて主人公たちの視界に物語をとどめることで、彼ら自身が明日を切り開くということに、一筋の希望を感じさせる。(2010・1)

« December 2009 | Main | February 2010 »