「わたしたちが孤児だったころ」
門をくぐったとたんにーー明らかにそうだと告げるものは何もなかったのにーー遅すぎたということが、すべてはとっくの昔に終わってしまっていたのだということがわかった。
「わたしたちが孤児だったころ」カズオ・イシグロ著(ハヤカワepi文庫) ISBN: 9784151200342
20世紀初頭、上海・租界で暮らしていたころ、クリストファー少年の両親は相次いで行方不明となってしまう。孤児として両親の故郷、イギリスで成人したクリストファーは1937年、両親の探索に乗り出す決心をし、日本軍との戦闘で混乱を極める上海へと戻っていく。
アクロバティックな筋書きなのに、精緻で、決して独りよがりに陥らない。いつもながら、この著者が紡ぎだす虚構の力には驚くしかない。
クリストファーの回想として語られる長いストーリーのなかで、繰り返される印象的なシーンがある。自分の記憶と、知人の記憶とが食い違っていることに気づいて苛立つのだ。誰にでも覚えがあるような、自身が経験したはずのことの、意外な不確かさ。多くの人が指摘していることだけれど、読む者がクリストファーの目を通じて見る世界は、なんだかとても、ぐらぐらしている。
カズオ・イシグロを読むのは「わたしを離さないで」「日の名残り」に続いて3作目。圧倒的に面白かった2作と比べると、正直ちょっと、入り込みづらかった。それは、クリストファーが今やロンドン社交界でもてはやされる名探偵だという設定や、失踪から10数年もたって両親を救出に行くという展開が、やけにファンタスティックなせいかと思っていた。いや、そうではなくて、世界がぐらぐらしているせいじゃないかと思い始めたら、どんどん引き込まれた。
クリストファーは、なんとかして自分の世界を確かなものに戻そうと、精一杯努力している。でも、どうしようもなく遅すぎるのだ。ついに辿り着いたとき、彼が愛用の大仰な天眼鏡を取り出して、見えない何かを見極めようとする姿の、なんと壮絶で、切ないことか。そこからは一気読み。ラストに、深く静かな感動がこみ上げる。
偏屈で付き合いづらそうなクリストファーと、彼を取り巻く二人の女、サラとジェニファーのきっぱりした姿勢との対比も鮮やか。文庫カバーの、バンドらしきモノクロ写真が格好いい。入江真佐子訳。(2009・9)
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