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September 30, 2008

「フェルマーの最終定理」

有理数だけによってこの宇宙をとらえていたピュタゴラスにとって、無理数の存在は彼の思想をゆるがすものだったのである。ヒッパソスの得た洞察についてじっくり時間をかけて議論していたならば、ピュタゴラスもこの新しい数の出現を受け入れたにちがいない。だが彼は自らの誤りを認めようとせず、かといってヒッパソスを論理的に打ち負かすこともできなかった。結局、ピュタゴラスはヒッパソスに溺死による死刑を言い渡し、後世に汚名を残すことになったのである。

「フェルマーの最終定理」サイモン・シン著(新潮文庫)  ISBN: 9784102159712

SNS「やっぱり本を読む人々。」で推薦されたのを機に、読みたかった文庫を手にとる。なにをかくそう私にとって、数学は高校ぐらいから暗記科目になっていたので、このノンフィクションで解き明かされる謎の意味を、ほとんど理解できない。それなのに面白くてわくわくして、最終盤で数学者たちの間を電子メールが飛び交うあたりでは手に汗握った。

発端は紀元前6世紀に生きたピュタゴラス。その定理にインスピレーションを得て、フェルマーがあまりに有名な「余白の走り書き」を残したのが1637年。その最終定理をまた、現代の数学者アンドリュー・ワイルズが証明するまで、じつに350年もの時が流れている。なんて壮大な、知のドラマだろう。

時代も文明もはるかに超えて、美しさを失わない「数」というものの不思議。一見、実用には役立ちそうにないのだけれど、門外漢にこの宇宙のとらえ方というものを、垣間見せてくれる。
本書に登場する天才たちは意外に人間くさくて、「数」の魅力に翻弄され、人生を狂わせたりしながら、その輝きを追い求め続ける。数式の意味は分からなくても、彼らの一途さに、なんだか爽快な気分になる。そういえば「異端の数ゼロ」も面白かったな。

1994年英BBCのドキュメンタリーをもとにした1997年の著作。2000年に刊行、2006年文庫化。青木薫訳。同著者の「暗号解読」もかなりおススメ。(2008・9)

サイモン・シン/フェルマーの最終定理 木曽のあばら屋

September 23, 2008

「カラスの親指」

「テツさんさあ……あんた、これからどうすんだよ」
 彼が転がり込んできた夜、武沢は缶ビールを飲みながら当たり前の質問をしてみた。Dr.スランプのコップからちびちびとビールをすすっていたテツさんは、全然当たり前ではない答えを返してきた。
「飛びたいです、自分」
 テツさんはそう言ったのだ。

「カラスの親指」道尾秀介著(講談社)   ISBN: 9784062148054

けちな中年詐欺師コンビ、タケさんとテツさんと、その同居人たち。それぞれの過去と決別するため、一世一代のコンゲームを仕掛ける。

気になっていた著者に初挑戦。ブロガーの間でも評判の一冊。爽やかで、気持ちよーくだまされました。単純なんだけど、ほかに言うべきことがないくらい。
とにかく憎めない魅力的な登場人物たちと、散りばめられた小さなギャグ、軽妙な会話を楽しんでいるうちに、伏線をすっかり見逃したが、まあ、だまされて悔い無し。たぶん、謎解きとしてはでき過ぎなんだろうけど、決して脳天気ではないから、切なさと一筋の希望が胸にしみて、納得してしまう。そのへんのバランスが、うまい。

足の小指を何かにぶつけて痛がる、そんな間抜けぶり、隠そうとしても隠しきれない「人の良さ」が、ささやかな人生を支えていく。いい映画になりそうな一冊です。キャストには、タケさんは光石研、テツさんは案外、木梨憲武とか? 「読者大賞」2008年新刊本ベスト4位。日本推理作家協会賞受賞。(2008・9)

カラスの親指〔道尾秀介〕 まったり読書日記
カラスの親指  道尾秀介  今更なんですがの本の話

September 16, 2008

「治験」

普通の人間が、しょぼい生活を守るために、戦うのだ。所詮、どうってことのない人生だ。でも、そこがよい。そこが気に入っている。

「治験」仙川環著(双葉社)  ISBN: 9784575236279

30歳で失業中の宮野正志。見知らぬ米国人から持ちかけられて、健康食品の通販窓口という楽そうな仕事を引き受け、とんでもない事件に巻き込まれる。

題材は医療分野で、舞台も広がりをみせるけれど、いつになく非常に軽い印象のミステリ。んー、主人公の独白にかなりの紙幅を割いているせいか。「ま、いっか」が口癖で、著者としては新しいタイプの人物かも。本筋と関係ないが、転んで怪我をするシーンが繰り返されるのは何故なんだろう…(2008・9)

September 15, 2008

「田村はまだか」

「誰か、とても暖かいひとの手で、こうして頭を撫でられながら眠りにつきたい夜が、あたしにだってあったりするのよ」
 大人になってもね、とかすかに笑った。

「田村はまだか」朝倉かすみ著(光文社)   ISBN: 9784334925987

3月のススキノ、深夜のカウンター。小学校のクラス会のあと、小さなスナックに流れた男女5人が、遠方から遅れて合流する「田村」を待ちつつ、うだうだと「40歳の今」を語る。

評判の連作短編集を読む。とにかく書名がうまい。飲み屋で時計が12時を回り、誰かが何か印象的な短いフレーズを吐いて、それを皆が気に入って延々とリフレインする、というのは、誰にでも覚えがあるシチュエーションではないか。それがこの小説では、「田村はまだか」。

40歳ともなれば、一人ひとり家庭や仕事に大なり小なり屈託を抱えている。今夜のメンバーは気を遣わない旧友なんだから、愚痴りたい。でも40歳にしては甘いかな、という自覚もあって(確かに甘い)、愚痴り過ぎるのも格好悪いと思っている。だから途中まで語って、「田村」を引き合いに出すのだ。
田村はかつてクラスにいて、子供の目からみてもヘビーな家庭環境だったのに、いつも毅然としていた「孤高の小六」だ。まあ、俺もあたしもいろいろあるけど、それにつけても「田村はまだか」。

まあ、酒場の名言というのは大抵、一夜明けたら聞くに堪えない。それをメモってるマスターが、本当にいたらちょっと困りものだけど。さらっと読めて、そういう夜ってあるよな、と思わせる達者な一冊。吉川英治文学新人賞受賞。(2008・9)

「田村はまだか」/待つ 日常&読んだ本log
田村はまだか 朝倉かすみ  ~かみさまの贈りもの~読書日記

September 12, 2008

「白夜行」

「俺の人生は、白夜の中を歩いてるようなものやからな」
「白夜?」
「いや、何でもない」

「白夜行」東野圭吾著(集英社文庫)  ISBN: 9784087474398

大阪の下町で起きた、ある殺人事件。そこから19年にわたる、少女と少年の壮絶な軌跡。

人気作家の文句なしの傑作を、久しぶりに文庫で再読。筋を知っていても、面白さは全く色あせない。謎が謎を呼んでぐいぐい引っ張るミステリーであり、「悪」の悲しさで読む者を圧倒する人間ドラマでもある。

インベーダーゲームやハッカーなど、当時の時代背景を織り交ぜた緻密な構成に、改めて「うまい」と唸った。リアルな時代の描写はすなわち、主人公二人が生き抜いてきた時間の重さだ。
そして何といっても巧みなのは、徹底して乾いた筆致だろう。決して主人公の内面に立ち入らず、関わりをもった人々の視点から重層的に主人公に迫る。だから読むほどに、この類い希な悪女のことをもっと知りたい、という気持ちがかき立てられていく。そして知れば知るほど恐ろしく、また切ないのだ。ありきたりな「種明かし」に流れない、幕切れの一行が最高に鮮やか。(2008・9)

◎◎「白夜行」 東野圭吾 集英社 1,900円 1999/8  「本のことども」by聖月
「白夜行」東野圭吾 本を読む女。改訂版

September 11, 2008

「幕末バトル・ロワイヤル」

権力闘争はいつの時代にもあるが、幕末には特別それが煮詰まった状態になる。政治責任が重くのしかかってきて、ぎりぎりの当事者責任が問われるからである。ただ出世がしたいだけで老中になった輩は、猛烈な勢いで篩にかけられることになった。

「幕末バトル・ロワイヤル」野口武彦著(新潮選書)   ISBN: 9784106102066

著名な文芸評論家が、豊富な文献から意外なエピソード、スキャンダルをピックアップして幕末を語る歴史読み物。

前半は水野忠邦の台頭から失脚までの権力闘争、後半はペリー来航で混乱を極める幕府外交を描く。幕末といえばドラマチックな舞台だけれど、著者の視点はあくまで人間くさく、下世話だ。前半で繰り返される大名の配置転換の解説などは、現代の企業社会に通じるわかりやすさ。稚拙な財政再建策とか防衛の無策ぶりとか、なんだか似たりよったりというか、「週刊新潮」連載で人気を博しているのもうなづける。

ペリーの動静について来航の1年前に情報を掴んでおきながら、風説だとごまかして何も手を打たなかった官僚たち。否応なく傾いていく組織のありようが、ちょっと悲しい。(2008・9)

野口武彦「幕末バトル・ロワイヤル」  不知森の日記

September 09, 2008

「お能の見方」

お能は「危機の芸術」だといわれますが、それはすべてのものが結晶する、すべてのものが停止する、その一点を目指して、あらゆるものが造られているからです。

「お能の見方」白洲正子・吉越立雄著(新潮社)  ISBN: 9784106021763

白洲正子の1957年の名著「お能の見かた」を増補改訂、吉越立雄の写真を豊富に加えた1993年「とんぼの本・お能の見方」。その改訂版が出たというので手にとってみた。能曲「忠度」を題材にした未発表短編も収録。

最近、落語をきいたり文楽をみたり、なにかと古典づいている。お能はこうした芸事の基本なのだろうけれど、これだけは敷居が高い。どうも演者の表情が見えないのが苦手。でも、ちょっと勉強はしてみたい。
そんな気持ちを受け止めてくれる一冊だと思った。本当に「わかる」かどうかは別にして、解説は能曲を5種類に分けており、平易な文章でとっきつやすい。能面や舞台の写真も美しいです。(2008・9)

September 05, 2008

「利腕」

「レースに勝てよ」私がいった。
 パッと、いかにも嬉しそうな表情になった。「よし」きっぱりといった。

「利腕」ディック・フランシス著(ハヤカワ・ミステリ文庫)  ISBN: 9784150707187

突然調子を崩す本命馬や、馬主組織をめぐる疑惑。依頼を受けて謎を探り始めた隻腕の調査員、シッド・ハレーに魔の手が迫る。

SNS「やっぱり本を読む人々。」で推薦しようと思いたち、競馬シリーズのなかからずいぶん久しぶりに再読。知性と勇気をうちに秘めた、抑制のきいたヒーロー像がいかにもフランシスだ。一歩間違えるとマッチョになってしまうテーマだけれど、決してそうではないと思う。なかなか乗り越えがたい階級社会を背景にしているせいなのか、主人公の言動には、心身の強さをひけらかしたり、周囲に誉めてもらおうとはしない潔さがある。でも、自分の誇りがどこにあるかは、自分がいちばんよく知っているのだ。

中盤、シッドが思いがけず気球に同乗し、無謀なレースに手を貸す場面がスリリングで楽しい。疑惑を追う本筋とはあまり関係なさそうに思えるが、いっとき空を駆けるレースに付き合ううちに、主人公の闘争心が解き放たれる、その感じがなんとも爽快。菊池光訳。(2008・9)

 『利腕』ディック・フランシス  全読書リプレイ

September 03, 2008

「四畳半神話体系」

 お前はいまそこにある己を引きずって、生涯をまっとうせねばならぬ。その事実に目をつぶってはならぬ。 
 私は断固として目をつぶらぬ所存である。

 でも、いささか、見るに堪えない。

「四畳半神話体系」森見登美彦著(太田出版)  ISBN: 9784872339062

快作「夜は短し歩けよ乙女」に先立つ、京都の学生さんのパラレルワールド・ファンタジー。

なんというか、地味でまじめで平凡な大学生の、「役に立たないこと」に満ちた日常のお話だ。要するに「私」は、冴えない自分に苛立っている、ただそれだけなんだけど、これが森見節のファンタジーで語られると、教養があり、それでいてナンセンスな落語風の独特の節回しで、にやにやして読めてしまう。

「夜は短し歩けよ乙女」と比べると、全体に「はちゃめちゃ」は控えめ。とはいえ、癖のある人物や怪しいサークルが期待通りに続々登場し、最後には悪夢のような妄想世界に飛翔して、きっちり着地する。300ページ近くあるのが力作のような、そうでもないような… だけど、やっぱりうまいなー。(2008・9)

森見登美彦『四畳半神話体系』   死角の■

「戦争広告代理店」

それはブッシュ大統領の発言中のできごとだった。
「べーカー長官に国務省のスタッフが背後からそっと近づいて小さな紙を渡しました。べーカー長官が椅子の背もたれに寄りかかるようにしてその紙を受け取った瞬間、それが何の紙か見えたんです」
 それはハーフの名刺だった

「戦争広告代理店」高木徹著(講談社文庫) ISBN: 9784062750967

92年から93年当時、ボスニア紛争でもっぱらセルビア側を非難する国際世論はいかにして形成されたか。舞台裏には、ボスニア首脳に陰のように寄り添い、ブッシュ大統領との会談にまで同席していた米国の敏腕PRマン、ジム・ハーフの活躍があった。NHKディレクターが描く、情報戦という名のもう一つの紛争。

ブロガーお勧めの旧刊を読む。2000年にドキュメンタリーとして放映した番組をもとに2002年に出版、05年に文庫化したものだが、古びた感じはしない。冷静な筆致に、まず引き込まれる。

情報戦といっても、PRマンたちは怪しげな人脈を駆使したり、謀略を巡らしたりするわけではない。クライアントに対して説得力のある話し方を伝授し、絶妙のキーワードをひねり出して狙い通りの世論を喚起する。そうしたテクニックと丁々発止の交渉術には目を見張るけれども、ビジネスとして、いわばまっとうな努力を重ねているのだと思う。だからこそ、彼らのクライアントが企業ではなく、大勢の命を危険にさらして紛争を戦う国家だということに、驚きを覚える。

世論はうつろいやすく、グローバルな情報網は膨張し続けている。著者はいい悪いではなく、「大人のPR戦略」が欠如した組織は不利益を被るのが現実だ、と指摘する。今、触れている地域紛争のニュースには、いったいどんな戦略が隠されているのだろう、と考えずにはいられない。講談社ノンフィクション賞・新潮ドキュメント賞受賞。(2008・9)

 ドキュメント 戦争広告代理店―情報操作とボスニア紛争  赤エイの徒然読書画帳
高木徹「戦争広告代理店」  でがらし的読書日記

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