名画のクラシック
一五〇年ほど前、同じ絵にひれ伏した作曲家がいる。リヒャルト・ワーグナー。故国のドイツで革命を首謀したために指名手配され、亡命していたスイスのチューリヒからヴェネツィアを訪れ、ティツィアーノの聖母に出会った。彼は後に「あれは聖母じゃない。愛によって浄化されたイゾルデだ」と語っている。
「名画のクラシック 拡大でみる60の音楽物語事典」加藤浩子著(創元社)
クラシックのコンサートを聴いていて、映像が目に浮かぶことはよくある。本書では逆に、60点の西洋絵画から聴こえてくる調べに耳をすまし、「音楽物書き」としてクラシックに関するレクチャー、執筆で活躍する著者が、音楽との関わりを楽しく綴る。1点につき4ページとコンパクトで、その半分を占めるカラーの図版が実に美しい。
名曲にインスピレーションを与える名画がある。ワーグナーはパトロンの妻との禁断の恋が露見、ヴェネツィアへの逃避行で、16世紀ティツィアーノの神々しい祭壇画「聖母被昇天」に魅了された。それが騎士伝説を描いたオペラ「トリスタンとイゾルデ」(1865年)につながったという。19世紀ギュスターヴ・モローの「出現」は、鮮烈にサロメを描いて魔性の女のイメージを決定づけ、オスカー・ワイルドの戯曲、さらには20世紀初頭のリヒャルト・シュトラウスのオペラへと創造が連鎖していく。
陰鬱なベックリン「死の島」(1880年)は印刷技術の発展もあって大ヒットし、多くの歴史上の人物をひきつけた。レーニン、フロイト、ヒットラー。そしてラフマニノフは1909年にオーケストラ作品「死の島」を書く。知らなかったなあ。
絵画が示す音楽のシチュエーションが、ときの社会、時代の空気を如実に映すのも面白い。権力者が居並ぶ宮廷コンサートやオペラ座、18世紀ブルジョアのサロン、庶民が羽目を外すカフェや野外キャバレー… 16世紀半ば、ピーテル・ブリューゲル1世が描いた「農民の踊り」の活気は、いつの時代も変わらないのかもしれないけれど。
著者の知識は実に多岐にわたっていて、描かれた人物の経歴や寓意などは教わらなければわからないもの。まだまだネタは尽きないようだ。巻末に、一部を無料で聴ける音源の案内付き。(2026.9)