「音を聴く 深く観る 歌舞伎音楽事始」
格の高い俳優さんや重要な役ほど、唄や鳴物が入ったり、それまでの曲とは変えたりして、強調します。ただ、具体的にどの曲をどこに使うかというのは、実地の経験次第です。
「音を聴く 深く観る 歌舞伎音楽事始」土田牧子著(NHK出版)
日本音楽史を専門とする研究者が、歌舞伎の音楽をイチから解説。文楽、歌舞伎を観たり、古曲の一中節を聴いたりしていながら、実はわかっていないことが多くて、ためになる一冊だ。
舞踊音楽としての長唄、はたまた語り物としての竹本や、豊後系浄瑠璃の常磐津、清元という位置づけ。浄瑠璃が興隆した元禄にはじまり、長唄が成立した享保、清元が人気を博した化政期…といった歴史。順を追った丁寧な記述は、時に真面目すぎると思えるほどだ。そもそも三味線の調弦は唄や語りの声に合わせるので、ピアノのように一定ではなく、よく聞く「本調子」「二上り」「三下り」は三本の弦どうしの音程の幅のこと、とか、今更ながら納得しちゃう。
後半、お馴染み「勧進帳」「寺子屋」など、特に上演の多い七演目の粗筋を、音楽から読み解くくだりになると、筆致がぐっと生き生きしてくる。松羽目もので、明るい長唄のなかに荘重な能楽を取り入れる工夫とか、竹本で人物の登場シーンにドラマをこめているとか、聴きどころ満載で面白い。
あとがきを読むと、著者は小学6年生だった1988年、歌舞伎座100周年公演ではまって以来、歌舞伎に通い続けたという筋金入り。並行してオペラ、ミュージカルにも親しみ、ついに藝大楽理科に進んだという。どうりで舞台愛が半端ないわけです。
特に興味深いのは歌舞伎ならではの黒御簾音楽(下座、陰囃子)の解説だ。役者の台詞や仕草を描写したり、舞台転換のつなぎや雨風などの効果音を担ったり、あくまで舞台を進行させるBGMで、単独では曲として成立しない。黒御簾独自、あるいは長唄や浄瑠璃、小唄、端唄、祭囃子などから借りてきたフレーズのストックが、ゆうに1000以上あって、これを自在に組み合わせて演奏する。その組み合わせは、たいてい演目やシーンで決まっているけれど、中心になる役者が音羽屋とか松嶋屋とか、大物か花形かとかで違いもある。だから上演ごとに、「付師」と呼ばれる三味線方が音楽監督となって提示する。
巻末近くに現役の太夫、三味線方のインタビューを収録。「付師ばかりは一朝一夕にはできないもので、二十年、三十年かけて覚えていかないといけません」という言葉が重い。
いざ観劇となると役者に気をとられて、黒御簾まで気が回らない気がする。でも少しでも知識を得て、長く重層的に楽しみたいと思わせてくれる本だ。(2025.9)