June 28, 2014

風の影

ぼくは本にかこまれて育ち、ほこりまみれでバラバラになったページのあいだに、見えない友だちをつくっていた。そのにおいは、いまでもこの手にしみついている。

「風の影(上・下)」カルロス・ルイス・サフォン著(集英社文庫)

1945年、少年ダニエルは古書店を営む父に、「忘れられた本の墓場」へ連れていかれる。埋もれゆく本が必ず流れ着く、秘密の古書の館だ。そこで出会った小説「風の影」に魅せられ、10年後、一枚の焼け焦げた写真を手掛かりに、作家フリアン・カラックスの過去を探る冒険に踏み出していく。

2001年にスペインで出版されたベストセラーを読んだ。子供のころ小説や漫画にどきどきすると、後日談やスピンアウトストーリーを勝手に想像して楽しんだ人は多いはず。上下巻約800ページの長編は、そんな本好きにはお馴染みの感覚を思わせる。
ダニエルをつけ狙う「顔のない男」ライン・クーベルトや、廃墟と化した館「靄の天使」という道具立ては、江戸川乱歩か「オペラ座の怪人」のようなゴシックホラーファンが、頭の中で膨らますイメージそのもの。何故か片っ端から燃やされて、この世から抹殺されかけている小説の最後の一冊とか、ヴィクトル・ユゴーの万年筆だとか、鍵になるアイテムが、わかりやすくロマンチックだ。
ハリー・ポッターシリーズをはじめとする、王道の少年成長談の香りもたっぷり。悪の権化フメロとの対決、宿命的な恋、お調子者だけど強靭な反骨精神をもつフェルミンとの友情、父親との微妙な距離感など、サービス精神満載です。

ありがちな冒険ミステリーと一線を画すのは、もうひとりの主役バルセロナという都市の存在だろう。ガウディと美食の街という現代のイメージとは違って、1936年から1939年の内戦が人々の心につけた深い傷、その後30年以上にもわたるフランコ独裁の閉塞感が、全編に色濃く影を落としている。こういう時代があったんだなあ。
影が濃いからこそ、活気ある芸術カフェ「クワトロガッツ」とか、丘を登っていく青い路面電車、靄のかかる波止場といった場面が生き生きと息づく。ハラハラの背景で、新興財閥の驕りと転落、信仰の限界といった大人っぽい要素が深みを与えている。木村裕美訳。(2014・6)

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June 13, 2014

遺体

 小泉は身元確認のメモに記された知った名前に気がつく度に、誰にも聞こえないほど小さな声でつぶやいた。
「君もか……」

「遺体 震災、津波の果てに」石井光太著(新潮社)

東日本大震災直後の釜石市の遺体安置所を描いて評判だったノンフィクションを、ようやく読むことができた。正直怖かったけれど、読んで良かった。
民生委員、市職員、住職、医師、歯科医、消防団員、自衛隊員や海上保安士…。さまざまな立場の人物へのインタビューを通して、むしろ淡々と、極限状態の日々を綴っていく。
涙は出ない。自らも被災し、親しい者の死に直面しながら、一人ひとりが眼前の事態に対処しようとしている。決して英雄でない市井の人々が、義務を果たす。圧倒的で容赦ない現実が胸に迫る。電子書籍で。(2014・6)

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June 12, 2014

吠えろ!坂巻記者

「お前は異動してきてから、原稿を一本も出してない。そういうやつに、飯を食いに行く資格はない」
 いくらなんでも、あんまりだ。でも、堀も空気が読めなすぎる。キャップがミーティングを始めると言っているのに、一人でご飯に行くだなんて。

「吠えろ!坂巻記者」仙川環著(ハルキ文庫)

医療ミステリーで知られる著者のお仕事エンタテインメント。職場ものといっても、主人公の中央新聞ヒラ記者、上原千穂は威勢よく啖呵を切るハンザワやハナサキとはちょっと違う。寝食忘れてバリバリ活躍するよりも、ワークライフ・バランスを望んでいる。念願かなって激務の社会部から異動してきた、人間らしく働けるはずの生活情報部なのに、パワハラまがいのキャップ、坂巻武士の下に就くはめになる。

なにしろ部下への指示は行き当たりばったり、上司にも取材先にも、暴言を吐きまくって敬遠されている。さらに後輩記者の堀は、社会人らしい気遣いは全くなく、やりたい仕事を優先しちゃう。しなやかで格好良く見える女性上司も、実は心に屈託を抱えている。

そもそも坂巻が率いるグループを新設したこと自体、なにやら社内政治のにおいがする。なんだかなあ、とため息をつきながらも、千穂はあえて上司に逆らうタイプではない。気が進まないまま、坂巻から振られたテーマをこなすうちに、一つひとつ成果に結びつく道筋を見いだしていく。働く人が大事にしたいこととは何か。
決して大上段にふりかぶらないし、軽く読めるけど、地に足がついたコメディだ。文庫書下ろし。(2014・6)

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May 14, 2014

「機械との競争」

CEOの報酬と平均的社員の報酬を比べると、一九九〇年は七〇倍だったのが、二〇〇五年には三〇〇倍に跳ね上がっている。エリックはヒーキュン・キムと行った調査で、この飛躍的な伸びはITの浸透と時を同じくしている、と指摘した。

「機械との競争」エリック・ブリニョルフソン、アンドリュー・マカフィー著(日経BP社)

技術進歩が雇用を奪う衝撃の現状と、それを認識したうえで将来を切り開く道筋について、MITスローン・スクールの経済学教授と、デジタル・ビジネス・センター主任リサーチサイエンティストが分析した。電子書籍で。

著者は数多くの先行研究をたどり、スキルの高い労働者と低い者の賃金格差が広がっていることや、スーパースターが富を独占する傾向、その背景にテクノロジーがあることなどを明らかにしていく。イエレンFRB議長の「雇用の質」議論にも通じる。
では人間は機械に隷属するのかというと、そうでもない。一九九七年にチェスの名手がIBMのコンピューター「ディープブルー」に敗れたことは、世界に衝撃をもたらしたが、現在世界最強のプレーヤーはコンピューターではなく、コンピューターを使った人間のチーム。競争に勝つ鍵はマシンを味方につけることだ、との主張だ。

そのために何が必要か。例えば教育。アメリカの教育は停滞し、中間的な労働者は最新技術についていけていない。だからこそ改善の余地があると、あくまで前向きなのがアメリカらしいところ。確かに無償公開の講義ビデオを活用して、お仕着せのカリキュラムは生徒が自宅でこなし、学校では教師と相談しながら「宿題」をする、という逆転の発想は面白い。
さらに知恵の共有。パンは食べ終わったらそれで終わり、でも本なら読み終わって友達に貸すことができる。むしろ読み終わった者同士で話し合えるから、価値が高まる。情報がIT化されれば共有も簡単。仕事を奪うのがデジタルなら、その克服を助けるのもまたデジタルなのだ。村井章子訳。解説は小峰隆夫法政大教授。(2014・5)

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May 10, 2014

オスカー・ワオの短く凄まじい人生

次の日朝食を食べながら母に訊ねた。僕ってブサイク?
母はため息をついた。そうね、確かに私には似てないわね。
ドミニカ人の親たちよ! まさに愛すべき人々!

「オスカー・ワオの短く凄まじい人生」ジュノ・ディアス著(新潮クレスト・ブックス)

2011年のTwitter文学賞海外編1位をようやく読む。饒舌でスピーディー、読む者をぐいぐい引っ張るマシンガン文体が心地いい。ピュリツァー賞、全米批評家協会賞受賞作。
物語の軸は、ニューヨークのドミニカ移民コミュニティーに住む語り手、ユニオールの青春ストーリーだ。迷惑だけど大切な友達オスカーを救えなかったという深い悔恨、そしてオスカーの姉で、誇り高い美女ロラへの思慕。なぜオスカーはオタクで絶望的にモテないくせに、へこたれず恋愛を求め続けたのか、なぜロラは凛として格好いいのか? バックグラウンドには一家の怒涛の三代記、すなわちドミニカとドミニカ移民の現代史があるのだ。

ドミニカについては正直、全く知識がなかった。お恥ずかしい。イスパニューラ島の東部にあって、国境を接する西部のハイチとはすごく仲が悪いらしい。15世紀末、米州初のヨーロッパ植民地になり、アメリカの軍政期をへて、1930年から30年にわたってはトルヒーヨ将軍の独裁が続いた。徹底した個人崇拝と私物化、暴力と弾圧、秘密警察と密告。オスカーの祖父アベラードと家族は暗黒政治の犠牲となり、ひとり残された娘ベリも、危険な恋に落ちて秘密警察に追われ、米国に逃れるはめになる。壮絶な国家的悲劇と、悲劇を生き抜くタフな女に圧倒されっぱなし。

ラテン男とはとうてい思えない太ったオタク青年、オスカーの造形も鮮やかだ。おバカで情けなくて、切なく愛おしい。全編にSFやファンタジー、アメコミ、RPGといったサブカルのキーワードが散りばめられていて、クラクラしちゃう。もちろん「ガッチャマン」「AKIRA」も普通に登場。アキバのグローバル化って、ここまできてるんですねえ。原注、訳注、スペイン語のルビも満載で、ごった煮感が楽しめます。柴田元幸門下の都甲幸治、久保尚美訳。(2014・4)

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April 19, 2014

「ブラックアウト」「オール・クリア1」「オール・クリア2」

英雄を観察したいのなら、マイクル・デイヴィーズは、ダンケルクなんかじゃなくてここに来るべきだ。

「ブラックアウト」「オール・クリア1」「オール・クリア2」コニー・ウィリス著(新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

過去へのタイムトラベルが実現した2060年。オックスフォード大の史学生3人が第二次大戦の現地調査に赴く。メロピーはメイドになって疎開児童を世話する領主館へ、ポリーは売り子として百貨店へ、マイクルは米国人記者に扮して史上名高い「ダンケルク撤退」の現場へ。ところがどういうことか、未来に帰還するための「降下点」が作動しなくなり、3人は空襲下のロンドンに足止めされてしまう。果たして「デッドライン」を回避できるのか、未来から助けは来るのか? 3冊合計で400字換算3500枚という、宮部みゆきもびっくりの大長編を電子書籍で。

多くの読書ブロガーが語ってるけど、とにかく長い。シリーズの前作を読まずに、うっかり手を出したので、滑り出しのうちはタイムトラベルのお約束がわからずにきょとん。しかも物語は2060年と1941、1944、1945年、さらに1995年を頻繁に行ったり来たりする。それぞれの時代で登場人物が偽名を使っているので、誰が誰やら。そんなわけでずいぶん混乱しちゃったのに、なぜか読むのをやめられない。ヒューゴー賞、ネビュラ賞、ローカス賞受賞も納得の力技だ。

ポイントはタイムトラベルで、同じ人物が同一時点には存在できないため、ぐずぐずしてるとデッドラインを迎えて抹殺されちゃうということ。だから3人は必死で未来への帰還を試みるんだけど、いつもあと一歩のところで邪魔が入ったり、すれ違ったりして、イライラはらはらさせられる。激しい空襲の後で見上げるセント・ポール大聖堂の雄姿など、映像的なシーンの鮮やかさ、そして「時間」の非情さ。章ごとのラスト1行で、いちいち気をもたせるのも憎い。

もちろん人物描写も確かです。戦時下の苦境にあって、決してくじけず、ユーモアを忘れない市井の人々が、なんとも魅力的。読者は長い長いディテールをたどって、ともに過酷な日常を過ごすうちに、登場人物が生き生きとして、隣に住む知人のように思えてくる。ジャック・フィニイの「ふりだしに戻る」みたい。そうなるともう、著者の掌の上だ。
特にポリーが防空壕で出会うシェイクスピア俳優、サー・ゴドフリー・キングズマンが格好いい。教養ある名優で、お茶目で、色気があって。頻繁に戯曲のセリフを引用する会話が、いかにもイギリスっぽいし。そして何といっても、手癖も口も悪い疎開児童、ビニーとアルフのきょうだいが、抜群の存在感を発揮。数々の悪さで散々メロピーたちを悩ませ、そして最後には泣かせます。

デッドライン問題のほかにもう一つ、タイムトラベラーの言動が過去を改変してしまうのでは、という危機感が、重要なサスペンスになっている。私たちが知る史実の通り、英米の戦勝が絶対的な善だ、という前提なので、ちょっと複雑な気がする。とはいえ、広げまくった風呂敷が見事に回収された後、長大な時間のうねりの中でも、無名の市民の思い一つひとつが決して無駄ではない、というメッセージは、爽やかな余韻を残す。角度は違うけれど、タイムトラベルものの傑作「蒲生邸事件」を思い出しちゃった。
感動して、ついでに驚愕の偽装工作など、現代史のミニ知識も身に付く。頑張って読み通して良かった… 大労作の訳は大森望。(2014・4)

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比類なきジーヴス

ジーヴスは何でもわかっている。どういうわけかは知らないが、彼は何でも知っている。彼の助言を笑い飛ばして前進し、すべてを失った頃もあった。しかし今の僕は違う。
「シャツのことだが、僕の注文した藤紫色のはもう届いたかな」
「はい。ご主人様。わたくしが送り返しましてございます」
「送り返した?」
「はい。ご主人様にはお似合いでございません」

「比類なきジーヴス」P.G.ウッドハウス著(図書刊行会)

人気のユーモア小説シリーズを読んでみた。1919年出版の連作短編集。ロンドンに住む伯爵家のお坊ちゃまバーティーが、他愛ないトラブルに巻き込まれるが、知恵者の執事ジーヴスが見事に解決する。評判通り、愉快愉快。

訳者の森村たまきさんが解説しているように、ダメ男バーティーのキャラクターが魅力的だ。お気楽で、若いくせにぶらぶらしていて、用事といえば散歩とクラブでのランチくらい。競馬に目がなく、服装の趣味はいまいち。何かというとジーヴスを頼っているけど、なかなかどうして決しておバカではないんだなあ。名門校出身で、会話では何気なく詩なんかを引用するし、妙な頼みごとをしてくる幼馴染じみビンゴ・リトルや従兄たちを、迷惑がりつつもちゃんと助けてあげる。古き良き貴族って感じ。
そんなご主人様の苦境を救う、ジーヴスの策略が痛快なのだが、そのプロセスで彼も恋人をゲットしていたり、したたかな面があって、いい味だ。バーティーが派手な服を買ってくると、決まってへそを曲げちゃうあたりがチャーミング。バーティーを陰ながら助けるというより、遠慮のない大人の友情が感じられる。
バーティーは全く頭が上がらない強圧的なアガサ叔母さん、惚れっぽ過ぎる懲りない男ビンゴと、その生活費を握っている叔父ら、脇役が個性的。しかもぎりぎりお下劣にならない、品の良さがある。愚かなドタバタと、にじみ出る教養。階級社会だからこそ成立するのかもしれないけど、イギリスでとってもポピュラーで、後続の作家に影響を与えたというのも納得できる。ユーモアのお手本のような小説です。(2014・4)

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March 06, 2014

去年の冬、君と別れ

この世界にいる人間は、多かれ少なかれ、復元されてるんじゃないだろうか?

「去年の冬、君と別れ」中村文則著(幻冬舎)

とっても格好良かった2009年の「掏摸」。英訳され、ウオール・ストリート・ジャーナルの2012年ベストミステリー10作に入って話題にもなりました。本作は再び、淡々とした読みやすい筆致だけれど、なかなか一筋縄でいかないミステリーだ。

物語はあるライターが取材のため、死刑判決を受けた男と接見するところから始まる。となると、シリアルキラーの内面を探る犯罪心理ものか、はたまた美女と人形という道具立てから乱歩風の猟奇ものなのか?などと思って読み進んでいると、見事に裏切られる。
曲者は、一人称の語りだろう。加害者はもとより、被害者、その関係者… この事件でいったい誰が、何の役割を果たしているのか。どんどん混沌としていく展開のなかからやがて、いびつな欲望と報復の構図が明らかになっていく。伏線が実に緻密だ。

興味深いのは伝説の人形師に、失った人そっくりの人形をオーダーするといった、「本物を復元して、その複製に執着する」という人間心理を軸にしていること。一見異常なエピソードなんだけど、実はストーカーとか熱狂的なアイドルファンとか、とても身近で現代的なところにあるものだと気づかされて、ぞっとする。
どんでん返しがちょっと懲りすぎていて、正直「掏摸」ほどには、スタイリッシュな緊迫感は味わえないかもしれない。とはいえ、細い彫刻刀で削り込んでいくような独特の世界は健在だ。これからも要注目の作家です。

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March 05, 2014

上京する文學

どうせ、もともと他府県からの寄せ集まりでできた「東京」。誰に何を言われようがかまわない。いや、誰にも何とも言われる筋合いさえない。そう考えたとき、「東京」が急に自由だと感じられるだろう。林芙美子はそうして生きた。

「上京する文學」岡崎武志著(新日本出版社)

漱石から春樹まで、書評家兼古本ライターが「上京」という角度から綴るユニークな作家論を集めた。
明治期に東京に移り住むのは、今でいう海外留学ほどのインパクトだったのだろうか。たとえば石川啄木は短い生涯の間、何とかして文学で身を立てようと、繰り返し上京した。その歌には交通機関や著名なランドマークなど、「よそ者が発見した都市」の姿が数多く詠み込まれているという。著者はそんな詩人の心性に、なぜか九州出身者が目立った70年代のフォークシーンと重ね合わせて、家や故郷を捨てた若者の高揚と屈折を見いだしていく。
ほかにも松本清張には、東京人でないからこそ描けた首都の負の側面があるとか、村上春樹が上京して初めて一人暮らしをして、独特の気障な「一人っ子」節に磨きがかかったのではないかとか、興味が尽きない分析が満載だ。自筆のイラストがユーモラス。

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February 01, 2014

愛しいひとにさよならを言う

遠くから見たら、それまで見えていたものが違って見えることがあるからだよ。それから、ほんとうのことは時間が経たないとわからないこともあるっていうことを、パリからきみは教わるかもしれないと思って。チャンスがあるなら、若いうちに、何度でも遠くに行ったほうがいい。ぼくはそう思ってるし、そうしてきた。

「愛しいひとにさよならを言う」石井睦美著(角川春樹事務所)

未婚のまま「わたし」を産み、絵画の修復をしながら育てた母。たまたま近所に住んでいて、家族同然に母娘の面倒をみたユキさん。そして母のかけがえのない友人で、苦しいときに手を差し伸べる建築家の穣さん。「いつか」という前向きな名前をもつ18歳の少女が、愛しいひととの出会いと別れを、みずみずしく語る。

「わたし」の世界は、決して広くない。生まれる前から父親は不在で、母が祖母と折り合いが悪く、実家とは疎遠のまま育った。いちばんの友達の彩音ちゃんは、著名音楽家の両親のもとで大人っぽく育ち、中学にあがるとピアニストを目指して遠くへ旅立った。
しかし「わたし」の幼い日々には温かさが満ちている。母の芸術的情熱と、ユキさんの飾り気ない愛情。だからたとえ孤独でも、つつましくても、決してひがんだりしない。少女の成長過程を丹念に描くことで、いったい何が感受性の強いひとりの女性をかたち作り、そして何が人間関係の辛さ、悲しみを乗り越えていく力となるのかが、じっくりと伝わってくる。

少し美しすぎる気もするけれど、ひょっとするとセンスのある生き方を目指す少女たちにとって、理想の姿といえるかもしれない。この透明感、著者が1957年生まれというのが驚きだ。(2014・1)

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