February 10, 2026

春にして君を離れ

何日も何日も自分のことばかり考えてすごしたら、自分についてどんな新しい発見をすると思う?

「春にして君を離れ」アガサ・クリスティー著(早川書房クリスティー文庫)

地元ブックカフェの読書会で「春」がテーマになり、超久しぶりに再読。言わずと知れたミステリーの女王が1944年、メアリ・ウェストマコット名義で発表した「ロマンス小説」6作のうちのひとつだ。探偵も犯人も出てこないけれど、これは間違いなくミステリー。主人公が「自分自身の欺瞞」という最も恐ろしい真実を自ら暴いていく。そのプロセスが極上だ。

主人公の中年女性ジョーンは、弁護士の夫と1男2女に恵まれ、よき妻、よき母を自負し、人生に満足しきっている。ひとりでバグダッドに急病の末娘バーバラを見舞った帰り、悪天候でトルコ国境の宿泊所(レストハウス)に足止めされる。今と違ってネットもなく、思いがけず暇を持て余して、自分の来し方を回想し…

1930〜40年代のイギリス中産階級の規範が、ジョーンの強固なアイデンティティとなっている。今の日本に比べるとだいぶ古臭い感覚だけれど、扱うテーマは普遍的だ。自分は自分の人生を、実はわかっていなかったという衝撃。年齢を重ねて読むと、特に身に染みる。クリスティーがミステリー作家として「これだけは書きたかった」と語った心理ドラマの傑作で、長く構想を練り、3日で書きあげたという。さすが女王。
「完璧な人生」の自意識にひびが入るくだりは、読んでいてきっかけになるシーンが目に浮かぶよう。美しいタイトルも心に残る。原題は Absent in the Spring。これはシェイクスピアのソネット「From you」の1節、From you have I been absent in the springが元になっている。すなわち、あなた=愛すべき夫ロドニーのいない春なんて虚しいだけ。読み終わって、このフレーズがまたほろ苦い。

中村妙子訳。おりしも2026年はアガサ・クリスティー没後50年で記念イベントが多く、本作はまもなく新訳がでるとのことでした。(2026.2)

January 31, 2026

帰れない探偵

誰かが話すそのとき、その人が見ている光景。いつか確かに見た光景。どこかに確かにあった光景。それは、どこに行ってしまうのだろう。わたしはそれが見たいのに、ずっと見ることができない。

「帰れない探偵」柴崎友香著(講談社)

「今から十年くらいあとの話。」。1行目から、不思議な時空が広がる秀作だ。語り手は世界探偵委員会連盟に所属し、異国の地で活動する探偵の「わたし」。なぜか事務所兼住居への路地が見当たらなくなり、仮の宿を点々としている。まずこの浮遊感にぐっと引き込まれる。

そもそも「わたし」は10年前、探偵学校へ留学している間に、大災害と政変で帰国がままならなくなり、以来、連盟に指示されるまま、ひとり異国から異国へと移動している。古今東西、よそ者として生きることの不安が全編に漂う。周囲が「いるのに、いないことにしてしまってる」人々。通奏低音のように、なにやら巨大IT企業の陰謀めいた気配もある。普遍的な、ぼんやりとした空恐ろしさ。

けれど「わたし」が先々で引き受ける依頼はとても日常的で、出会う人生それぞれの手触りがあって、温かい。古書店に渡してしまった本を取り返してほしい、別れた恋人と同じ景色を見たいので、当時住んでいた部屋を探してほしい…
なにより各地の風景、人々の暮らしぶりがとてもリアルなのが魅力的だ。町の名は明示せず、登場人物もみな「(仮名)」で無国籍。けれど冒頭のケーブルカー七路線が張り巡らされた、急坂だらけの港町に、何故か昨夏訪れた南米のラパスの街並みが、ありありと浮かんだ。もちろんラパスは内陸なので全く違うのだけれど。四作目のやたらビールを呑む国の、世界の果てのような孤島では、読みながらずっと、数年前に旅したアイルランドの景色が浮かんでいた。ああ、この町には行ったことがある。

音楽の描写がまた美しい。路地を歩いてふいに響くスウィート・チャリオット。持って踊るとひゅうと音が鳴る青い水差し。どの町にも音楽があり、音楽があればそこが居場所になる。終盤の舞台は町ではなく、このトランプの時代を映すような混沌とした巨大空港。カオスの果てに、音楽が「わたし」にもたらすインパクトの、なんと爽快なことか。
読売文学賞小説賞受賞。(2026.1)

January 04, 2026

「紀国の徳人」と「布衣の農相」

前田は答えた。「国家は自分だよ」
高橋が驚いた。「自分って……」

「『紀国の徳人』と『布衣の農相』」出久根達郎著(藤吾堂出版)

坂本龍馬、勝海舟、渋沢栄一… 私たちは大河ドラマなどで、明治日本を作り上げたヒーローに触れてきた。しかし決して華やかでなくても、社会の礎となった多くの人物がいる。時代小説やエッセーの名手が濱口梧陵、そして前田正名に焦点をあてた評伝だ。

梧陵は安政大地震で津波の襲来を察知し、田に火を放って人々を避難させた逸話「稲むらの火」で知られ、小泉八雲の著作に登場する。本家は紀州で、銚子ヤマサ醤油の7代目。富豪で志が高く、海舟や医師・関寛ら若者を支援したり、種痘所(東大医学部の源流)開設時に寄付したりした。
郵便事業を立案した前島密がイギリスに派遣された際、梧陵が初代の「駅逓頭」に起用されるが、わずか3週間で帰国した前島にとってかわられてしまう。著者は梧陵が飛脚のイメージを捨てきれず、前島のように西洋の文明を学んで発想を転換する必要を痛感したのでは、と推測する。なんと60歳を過ぎて世界一周の旅に出、ニューヨークで客死。

生真面目、高潔な梧陵の印象と対照的に、前田正名は破天荒でちょっとコミカル。薩摩藩士で、龍馬の命で薩長の秘密交渉に関わったりし、20歳そこそこでフランスに留学。そこで殖産興業を「百年の仕事」と思い定め、大久保利通に1878年パリ万博への参加と農産物の育種場開設を進言して許可される。その会談場所がなんと、西郷隆盛の挙兵で京都に置かれた大本営だったというから凄まじい。大久保利通には冷徹な官僚の権化のイメージをもっていたけれど、さすが慧眼だったんだなあ。
前田は農商務省で「真に国家のために計るとすれば、まず人民の暮らしを豊かにする策を立てるべきだ」と唱え、猛烈に働く。ところが猛烈すぎて反発を食い、山梨県知事に就くなど紆余曲折の末、42歳で野に下る羽目に。それでへこたれる正名ではなく、お得意の脚絆に草鞋、行李を背負って全国を行脚し、茶・生糸や陶器など工芸品の生産者を組織して輸出を促進。とにかくパワフルで、72年の生涯で欧米を8回視察した。

エピソード満載なんだけど、なかでも偉人たちの洋書への向き合い方が印象的だ。海舟は持ち主が寝ている夜間、半年通って兵法書を書き写した。諭吉も寝ずに築城書を写し、緒方洪庵に贈って入門を果たした。正名は海外渡航の資金を捻出すべく、仲間と日本初の活字英辞書「薩摩辞書」を出版…
これが筆者の、膨大な読書量と響きあう。先行する研究の類いはもとより、「薩摩辞書」やパリ万博時に前田が作・演出した戯曲に至るまでくまなく読破。実は正名の直筆書簡を数通持っているけれど、字が個性的で読めないとか。だから関連する話題はくめど尽きず、徳冨蘆花やら陸奥宗光やらが続々登場、その人物像がまたいちいち面白過ぎる。特に前田の盟友となった高橋是清! 大河ドラマが何本作れるやら。
全国市長会の機関誌「市政」での連載をまとめた。(2026.1)

December 28, 2025

死んだ山田と教室

「まじだ、綺麗」「赤い」
 遠くの空に浮かぶ仄かな赤色を、三人黙って見つめる。
〈そっか〉
 山田の声がする。
〈俺もう、夕焼けって見れねぇのか〉

「死んだ山田と教室」金子玲介著(講談社)

総じて学園ものは苦手なんだけど、「本の雑誌」が選ぶ2024年度上半期ベスト1と聞いて読んでみた。んー、本屋大賞は9位だったんだよね。
男子高2年の9月、2学期初日。夏休みの終わりに突然、交通事故で亡くなった人気者の山田が、声だけの存在になって教室のスピーカーに宿り、クラスメートたちと会話し始める。
男子たちのわちゃわちゃの可愛いこと。しょうもなくて、地頭よさそうで、友だち思いのいい奴たち。戻ってきた山田は言う。〈俺、二年E組が大好きなんで〉。1993年生まれの著者が卒業した慶応志木高って、こんな感じなのだろうか。さして大事件も起きない、おバカなやりとりは微笑ましく、放課後、教室の窓から夕焼けを見るシーンが切ない。著者の細やかな観察眼。
時間の経過とともに、この面白い設定が煩わしく、重くなっちゃうのは致しかたないところか。それぞれがそれぞれの軌跡で、大人になっていく。どういう読後感を残したかったかな。
メフィスト賞受賞のデビュー作。(2025.12)

November 23, 2025

水燃えて火

失礼ながら、貴殿方は資源というものを何だと認識しておられるのか。石炭、石油、鉱物などに限定しておられるのではないか。我が国は森林国である。木という天然資源がある。それに伴い川があり水という資源もある。島国であるから当然、海洋資源もあり、狭い国土ながらも多くの人民が生き、いわば人という資源も豊富だ。私の考えでは、日本は大いなる資源国だ。

「水燃えて火」神津カンナ著(中央公論新社)

大正時代、木曽川に七カ所の水力発電所を拓いた電力王、福沢桃介とそのパートナー、川上貞奴の波瀾万丈を描く。
桃介のキャラがまず破天荒だ。福沢諭吉の娘婿というブランドを得てアメリカに留学、日露戦争前後の株投機で財産を築く。複数の起業、M&Aに関わるものの、事業が山を越すと飽きちゃったり、行き詰まったらぷいと旅に出たり。そんな山師が40代後半になって、木曽川に没頭していく。
電力の大量消費時代を予見して発電所建設に乗り出し、初期の需要を作り出すため鉄道や製鉄を手がけ、扇風機の売り込みまで発案。関東大震災後の金融逼迫に直面した際は、外債による調達を決断する。ニューヨークに乗り込んで、投資家相手に熱弁をふるうシーンは痛快だ。みごと社債を完売した帰国時のパーティーでは、いつか戻ってきて、今度は我々が米国にカネを貸すとスピーチし、拍手を浴びる。
明治人の気骨というべきか。そもそも岳父の諭吉が地下資源の乏しい日本ではホワイトコール、すなわち潤沢な水の利用が重要だと説き、のちに科学的分析を政治に取り入れた後藤新平が主導して、数年がかりで水力発電の適地を調べ上げたという。社会のかたちをデザインする先見性とスケール感。

そして桃介が本格的に名古屋に居を構える際、内外の賓客を迎える女主人にと口説いたのが、10代で知り合った貞奴だ。これがまた気っ風が良い。葭町(人形町)の名妓で才気煥発、政界の大立者から人気の歌舞伎役者まで人脈も豊富。伊藤博文に水揚げされ、23歳で書生芝居の風雲児・川上音二郎と結婚すると、欧米巡業で日本初の女優として舞台に立って大評判。音二郎と死別後、引退して桃介と木曽に赴く。
内縁の妻というより対等な事業パートナーの位置づけで、ときに桃介に直言。変化に抗う者と対立しても、相手の自尊心を尊重せよと説いたり、事業に協力する条件として、働く女性を支援する紡績会社を設立したり。「女を莫迦におしでない」という啖呵や赤いバイクを乗り回すさまが格好良い。
このコンビによる新事業のイメージ戦略にも目を見張る。迎賓館たる住居や発電所を「見せる」建築物と位置づけ、桃介の義弟・杉浦非水のデザインなどで、随所に意匠を凝らす。実際に発電所は現在、重文や産業遺跡に指定されている。

しかし華やかな桃介、貞で終わらないのが、この物語の深いところ。三人目の主人公が島崎藤村の実兄であり、地元利益を代表して桃介と対峙した島崎広助だ。中盤は雰囲気ががらりと変わって、木曽谷の厳しい自然、林業の実際や人々の苦難をじっくり描く。島崎の愚直な造形とあいまって、筆致は誠実だ。
木曽山林が皇室所有の御料林に編入されるとき、生活の糧を得ていた地元は数年がかりで返還や補償を求めるがかなわず、島崎が交渉役になって恩賜金の下付で決着させる。挫折を抱えつつ、桃介との水利権交渉で再び矢面に立つことになる。思惑が交錯して地元は一枚岩になれず、島崎も報酬を巡って不信感を招いていく。なんとも重苦しいんだけど、今も変わらず、あらゆる開発というものが避けて通れない経緯だろう。息の根を止めるような戦いをしてはならない、闘争に勝者はないという島崎の達観が染みる。

先人の歴史を超えて、人々の暮らしは続いていく。いつか、ゆかりの碑文があるダムや貞が遺した「萬松園」を観てみたい。
「電気新聞」の連載を加筆修正。装画は川崎麻児。(2025.11)

November 16, 2025

BUTTER

どんな女だって自分を許していいし、大切にされることを要求して構わないはずなのに、たったそれだけのことが、本当に難しい世の中だ。取材を通して知り合う、成功者と呼ばれる女性ほど、それが顕著に表れている。

「BUTTER」柚木麻子著(新潮社)

2000年代の連続不審死事件を下敷きにして2017年発表以来、内外で高い評価を得、2025年にダガー賞にもノミネートされた話題作を読む。週刊誌記者・町田里佳は独占インタビューを狙って、殺人犯として起訴された毒婦・梶井真奈子の面会に通い、その言動に煽られていく。事件の真相を探るミステリーの体裁をとりながら、親友・怜子とのシスターフッド、あるいは現代女性のさまざまなくびきからの解放を描いていて爽快だ。

何人もの中高年男性に一億近くを貢がせたのに、真奈子の容姿は決して女優やアイドル然とはしていない。ダイエットや健康的で正しい生活を気にせず、食べたいものを食べ、社会的評価どこ吹く風と、古くさい「男に受ける女」を全肯定。カジマナと呼ばれて一部の女性からカリスマ扱いされちゃう。欲望に忠実で、独善的なカジマナの象徴が、美味なエシレバターだ。
留置所にいて好物を口にできない真奈子に指示されるまま、里佳はバター餅から高級フレンチまで、次々食べては報告する。「バターの脂っこさと砂糖のしゃりしゃりとした食感、醤油の強い味が一つになる。餅をかみ切った歯の付け根が快感で大きく震えた」ーー。繰り返されるこってりした描写がまず特徴的。やがて男役スターのように長身スレンダーだった里佳が太り始め、恋人の誠をはじめ周囲の見る眼が変わるあたりから、今日的テーマが立ち上がる。女性たち、現代人たちは一体何を求めて頑張っているのか。

新潟の実家まで足を運んで調べてみれば、カジマナは歪んでいるけれど、決して怪物ではなかった。物語中盤、里佳が極寒の雪国より寒々しい東京の一人暮らしの部屋に戻り、じゃが芋を茹でバターで頬張って、ふいに内面の傷と向き合うシーンが秀逸。いっそ組織や家族でのあるべき居場所を潔く手放し、ただできるタイミングに会える人と、心地良く食卓を囲む生き方もあっていい。どれほど孤独で不安定で、冴えない人生だとしても。
意表をつく怜子の独白、真奈子が通った高級料理教室でのできごと、二審公判、里佳への思わぬバッシングと、後半の展開は怒濤だ。そして里佳と誠、しっかり者の母・美咲、怜子夫妻はもちろん、かっこいいメンター篠井、後輩の北村まで、それぞれの軌道がすこしずつ変わっていく。世間の不毛な評価から自由になるには、自分で自分を認めるしかない。そして伸ばされた手を、掴めるときに掴む。そう思えればこの世界は味わうに値する。このメッセージが普遍性をもって、欧米で共感を呼んだんだことが興味深い。

ウエストのクリスマスケーキやら七面鳥のレシピやらトルコのラマダンを再現したイベントやら、しつこいほどのディテールも独創的。このへん海外読者はどんな風に読んだのかな。(2025.11)

October 26, 2025

川崎家の系譜

この芸術精神が小虎の生き様をとおして、長男の鈴彦、次男の春彦、そして孫の麻児はもとより、娘婿の魁夷にまで継承されたことこそ類い希なる類いまれなる日本画の名門たる証といえる。

「川崎家の系譜」石田久美子編著(東京美術)

市川市東山魁夷記念館の学芸員である著者が、リベラコレクションを中心とした2021年特別展の図録を兼ねて出版。東山魁夷や川崎麻児さんの作品に触れてはいたけれど、改めて一家の画壇での存在感、そして、それぞれの画風の幅広さがわかって興味深い。

始まりは天保年間生まれの川崎千虎だ。有職故実に通じた大和絵系歴史絵の大家であり、明治に入って岡倉天心とともに東京美術学校(東京芸大)や日本美術院で研究と後進の指導にあたる。その孫、小虎は大正から昭和にかけて帝国美術学校(武蔵野美大)で教えながら創作。メルヘンチックな「春の訪れ」、コミカルな「ひよこ」や「猿」から「雪静か」の静謐まで、清々しさが漂う。
その長男、鈴彦のライフワークである奥の細道の写生は、緑が香ってくるような誠実さ。一方の次男の春彦はうってかわって、「春曙」「夜明けの潮」などダイナミックで、鮮やかな色彩に目を奪われる。1959年に杉並で生まれた春彦の長女、麻児になると「訪問者」「足音」など非常にモダン、静謐、幻想的で、独自の感性が際立つと同時に、小品に描いた動物や置物には小虎の愛らしさも彷彿をさせる。

魁夷の足跡をたどる解説によると、復員後に四ヶ月ほど、川崎家の疎開先である山梨に身を寄せ、小虎、鈴彦、春彦とともに写生の日々を過ごしたという。のちに日本を代表する画家にまでなるとは知らない頃、世相もまた混沌としていた。不安と創造の衝動を共有した一家の時間を、想像せずにはいられない。(2025.10)

October 19, 2025

可視化される差別

集団的接触のメタ分析が繰り返し行われているが、接触の量と質はどちらも一般的にいって人々の態度を好意的にすることがわかっている

「可視化される差別」五十嵐彰著(新泉社)

気鋭の社会学者が膨大な内外の研究成果から、移民・エスニックマイノリティなどへの差別をめぐる論点を語り尽くす。参考文献は細かい字でなんと60ページ! しかし詳細な議論はほぼ2ページごとにつけた注に譲り、本編370ページは縦書きの平易な語り口に徹して、読者を遠ざけない。増加する外国人への対応が政策テーマに浮上した現在、注目されるべき意欲作だ。

差別を「特定の人種や国籍の人を不利に扱う行為」と定義し、「差別はそれを経験した人に害をもたらすから悪いのだ」と態度は明快。そのうえで採用や賃貸での差別の存在を、あくまで淡々と、丁寧に測定していく。手法はさまざま。統計、アンケートに加え、役者を使った実験の紹介が興味深い。バス停でムスリムが買い物袋からオレンジを落としたら、並んでいるドイツ人は拾ってあげるかどうか。オレンジを落とす前に携帯で会話して、外見はムスリムでもドイツ人が共感できる価値観を主張していたらどうか。
そして数字に基づいて、差別が所得や健康に与える影響や、差別を生む原因を解き明かしていく。集団的接触が差別を緩和することは、直感的によく言われるけれど、終盤で研究成果として示されると、なんだか希望がわく。日本人Aさんの友人Bさんに、中国人Cさんの友人がいると、Aさんが中国人全体に対して好意的になる、つまりは友だちの友だちはみな友だち。リアルでなくても登場人物が外国人に対して好意的に振る舞うエンタメに接するだけでも、一定の効果がある… もちろん、集団的接触は万能ではない。全編を通して、学術的に分からない点は分かっていないと、端的に記していて好感がもてる。

差別研究は2000年代に入って進展した、新しい分野。紹介する研究をジャンル分けすると、社会学だけでなく政治学、心理学、経済学と多岐にわたるし、昨今話題のSNSの分析も発展途上だ。ときに学問の限界を認めつつ、世の中を少しでも良くしていく方向へ社会科学がいかに貢献するか、期待を抱かせる。(2025.10)

September 21, 2025

音を聴く 深く観る 歌舞伎音楽事始

格の高い俳優さんや重要な役ほど、唄や鳴物が入ったり、それまでの曲とは変えたりして、強調します。ただ、具体的にどの曲をどこに使うかというのは、実地の経験次第です。

「音を聴く 深く観る 歌舞伎音楽事始」土田牧子著(NHK出版)

日本音楽史を専門とする研究者が、歌舞伎の音楽をイチから解説。文楽、歌舞伎を観たり、古曲の一中節を聴いたりしていながら、実はわかっていないことが多くて、ためになる一冊だ。
舞踊音楽としての長唄、はたまた語り物としての竹本や、豊後系浄瑠璃の常磐津、清元という位置づけ。浄瑠璃が興隆した元禄にはじまり、長唄が成立した享保、清元が人気を博した化政期…といった歴史。順を追った丁寧な記述は、時に真面目すぎると思えるほどだ。そもそも三味線の調弦は唄や語りの声に合わせるので、ピアノのように一定ではなく、よく聞く「本調子」「二上り」「三下り」は三本の弦どうしの音程の幅のこと、とか、今更ながら納得しちゃう。

後半、お馴染み「勧進帳」「寺子屋」など、特に上演の多い七演目の粗筋を、音楽から読み解くくだりになると、筆致がぐっと生き生きしてくる。松羽目もので、明るい長唄のなかに荘重な能楽を取り入れる工夫とか、竹本で人物の登場シーンにドラマをこめているとか、聴きどころ満載で面白い。
あとがきを読むと、著者は小学6年生だった1988年、歌舞伎座100周年公演ではまって以来、歌舞伎に通い続けたという筋金入り。並行してオペラ、ミュージカルにも親しみ、ついに藝大楽理科に進んだという。どうりで舞台愛が半端ないわけです。

特に興味深いのは歌舞伎ならではの黒御簾音楽(下座、陰囃子)の解説だ。役者の台詞や仕草を描写したり、舞台転換のつなぎや雨風などの効果音を担ったり、あくまで舞台を進行させるBGMで、単独では曲として成立しない。黒御簾独自、あるいは長唄や浄瑠璃、小唄、端唄、祭囃子などから借りてきたフレーズのストックが、ゆうに1000以上あって、これを自在に組み合わせて演奏する。その組み合わせは、たいてい演目やシーンで決まっているけれど、中心になる役者が音羽屋とか松嶋屋とか、大物か花形かとかで違いもある。だから上演ごとに、「付師」と呼ばれる三味線方が音楽監督となって提示する。
巻末近くに現役の太夫、三味線方のインタビューを収録。「付師ばかりは一朝一夕にはできないもので、二十年、三十年かけて覚えていかないといけません」という言葉が重い。

いざ観劇となると役者に気をとられて、黒御簾まで気が回らない気がする。でも少しでも知識を得て、長く重層的に楽しみたいと思わせてくれる本だ。(2025.9)

August 15, 2025

教養として学んでおきたい神社

ない宗教としての神道とある宗教としての仏教とは相性がいいとも言える。

「教養として学んでおきたい神社」島田裕巳著(マイナビ新書)

自宅本棚にあったごく簡単な新書を読んでみた。誰もが近所の散歩でも観光でもよく訪れ、スピリチュアルを持ち出さなくても、訪れれば自然に手を合わせる場所。そんな施設としての神社の成り立ちを、宗教学者が整理する。考え方の一部は伊勢や高千穂を訪れた際にも触れていて、断片的な知識がちょっとつながって面白い。

神道の神とは本居宣長が喝破したように、善良であっても、人に祟りをもたらす邪悪であってもおかまいなく、尋常でない、凄い存在ならすべて神だ、という概念にまずびっくり。だから古来の神話に登場する神に加えて、八幡神など神話以外の神、さらには菅原道真ら人間だった神と、どんどん増殖してきた。なるほど。
古典や絵巻物から、立派な建物としての「社殿」の起源を探るくだりは、研究者ならではだろう。いわく13世紀、鎌倉時代あたり、社殿の前に建つ「拝殿」になると14世紀と、意外に新しい。もっと時代をさかのぼると、ルーツは巨石=「磐座」に注連縄という自然信仰なのだという。こういう信仰のかたちは、アイルランドでもペルーでも見かけた世界共通のものではないか。8世紀ぐらいまでの沖ノ島では定まった建物どころか、祭礼をとりおこなう岩場や使う道具は一回限りで、終わったらそのまま放置していたという。

日本独特のようで、さらに面白いのは江戸期まで当たり前だった神仏習合だ。ヨーロッパでは土着の宗教がキリスト教にすっかり取り込まれた。例えば新約聖書にはキリストの誕生日の記述がなく、季節さえはっきりしない。土着の冬至の祭りを取り入れて12月25日にしたのだという。
ところが日本では国家が仏教を統治の基盤にしたにもかかわらず、神道もしっかり生き残った。すなわち本地垂迹説で、神の本当の姿(御正体)は仏、としちゃった。先日展覧会で観た平安時代の春日宮曼荼羅は、まさに本地垂迹を図解したもの。驚くべき融通無碍!
神道が明確な教祖や教義をもたない、「ない」宗教だからこその芸当で、そこに至るには8世紀、八幡神が国家的プロジェクトの大仏建立を助けて、菩薩号を与えられたことが大きかった、とか、三社祭でお馴染み浅草神社の三人の祭神は、なんと隅田川で浅草寺の本尊を発見した漁師ら3人のことだ、とか、トリビアが満載だ。
明治維新の神仏分離で、後付けで神道にも教派や社格の概念が導入され、さらに戦後、国家と神社が切り離されて伊勢神宮を本宗とする体制が整備されたと。ずいぶん最近のことなんだな~

全く意識していなくても、日本に生まれたら自動的に全員、神道の信者、という解説を聞いたことがある。世界の分断をみるまでもなく古来、宗教観は良くも悪くも、国家や民族の基盤のひとつ。考えだすと面倒も多いけれど、今更ながら重要な知識ではあると思い直した次第。(2025.8)

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