May 19, 2024

ふりさけみれば

ここに、人間の歴史と人々が生きた足跡が記録されているのだから、府庫こそが天下そのものだと言っても過言ではない。そうした場にいることは、書物をつぶさに記憶する能力を持っている仲麻呂にえも言われぬ充実感を与えた。

「ふりさけみれば」安部龍太郎著(日本経済新聞出版)

「等伯」などの歴史小説家が描く、奈良時代の遣唐使、阿倍仲麻呂と吉備真備の波乱の人生。上下巻900ページだけど、権謀術数とお色気、ラストはまさかのアクションになだれ込んで飽きさせない。

百人一首の望郷の詩「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」ーー。作者の仲麻呂は新興国・日本からの留学生にもかかわらず、大秀才で人柄も清廉、玄宗皇帝側近の秘書監にまで登りつめる。帰国の途で亡くなったと思い込んだ詩仙・李白が「名月帰らず碧海に沈み 白雲愁色蒼梧に満つ」と悲しんだほど。実際は、海難にはあったが唐に戻り、そのまま異国の地で没したのだった。小説では、仲麻呂が長く唐にとどまって好きでもない出世に邁進した理由を、ある密命のためとし、息詰まるスパイサスペンスに仕立てている。
一方、盟友・真備は対照的に俗っぽくて、べらんめえ調が魅力的。帰国して、天然痘の流行で壊滅的な打撃を受けた国家を立て直すべく、権勢を振るう藤原家との激しい政争(天智天皇系と天武天皇系の争い)に身を投じる。軸に据えたのは天皇と仏教で、指導者・鑑真を招聘しようと再び命がけの入唐を決意し…

ふたりが人生を賭けて求めるのは、国家の正統性だ。それにはこの時代、柵封国の道を選び、強大な先進国・唐という権威に認められることが必須だった。権威の神髄が厳重に管理された史書「魏略」、すなわち文字の記録であるところが面白い。朝廷のごくごく一部の権力者しか目にすることが許されない最高機密だ。
文字といえば2019年に判明した、在唐時の真備の真筆とされる墓誌のエピソードもわくわくする。洛陽で発見された遺物で、末尾の「日本国朝臣備書」は日本人の直筆による「日本国」の文字として最古だという。巻末資料の写真をみると、なんとも几帳面で威厳が漂う字体。当時のエリートの教養と努力、そして日中の長く深い関わりを思わずにいられない。国際情勢が揺れ動く今、そんな感慨を抱けるのも、文字の記録があってこそ。

東郷隆の小説「肥満」が強烈だった安禄山ら、有名人が続々登場。スケールの大きさも楽しい。その中で仲麻呂の二人目の妻、玉鈴のクールな造形が魅力的だ。辛い目に遭ってきて、楊貴妃の姉として厚遇されるようになっても周囲に心を許さず、護身術に打ち込む。玄宗お気に入りの仲麻呂も単なる政略結婚と突き放していたが、胸に秘めた使命感を敏感に察していて、土壇場で気持ちが通じ合う。
有名でも無名でも、歴史の大河に否応なく呑み込まれ、もみくちゃになっていく人々。歴史の大きな謎がすっきりするわけではないんだけど、それぞれの、なけなしの誇りが清々しい。(2024/5)

 

 

 

December 10, 2023

第三のチンパンジー

ヒトを人間にした鍵となるほんのわずかな中身とは何だったのでしょうか?

「第三のチンパンジー 上下」ジャレド・ダイヤモンド著(日経ビジネス人文庫)

1998年ピューリッツァー賞の「銃・病原菌・鉄」が話題だった、UCLAの進化生物学・生物地理学者の初期の著作を読んでみた。遺伝子ではチンパンジーと1.6%しか違わない人間が、言語によってユニークさを獲得していく過程をたどる。
読んでいくと人間、なかでも地球上を席巻した欧州人が、決して特別に優秀な存在ではなく、素晴らしい技術も芸術も、逆に救いがたいジェノサイドも環境破壊も、すべては猿から地続きのものだと思えてくる。分野をまたぐ論考なので正直、どうも展開が大雑把な印象はぬぐえないんだけど、たまたま居住地域に機動力があって飼いやすい動物=馬がいた民族が、戦争する能力と躍進を手に入れた、という解説は面白かった。

後半は当初の問いよりも、自らの存在を脅かすジェノサイドと環境破壊に警鐘を鳴らすことに力点がおかれている感じ。問題の所在ややるべきことは明らかで、実際動き出してもいるのだから、皆が理解すれば破滅は止められると、結論もちょっと大雑把に明るい。
行動生態学の長谷川真理子、寿一夫妻の訳で1993年出版、その後の研究の進展を訳注に追加して、2023年に文庫化。原著ペーパーバック版の補遺も収録した完全版とのことです。(2023/12)

October 15, 2023

ジュリーがいた

音楽は記憶装置である。「キャー!」と叫んだその日から時代時代のジュリーを追いかけ、自分の人生を投影しながら日々の活力としてきたのだ。沢田研二への絶対的な愛は、揺るがない。

「ジュリーがいた 沢田研二、56年の光芒」島崎今日子著(文藝春秋)

むかし沢田研二の正月コンサートに足を運んだことがある。キラキラした1980年代初め、MCで直前の紅白の舞台裏を面白おかしく語るのが名物になっていて、それは幸せな歌謡曲の時代だった。
安井かずみら人物ノンフィクションで知られる著者が、その沢田研二を書いた。もとは2021~23年の「週刊文春」の連載。といっても本人ではなく、希代のスター「ジュリー」に魅せられた人々の記録というユニークなアプローチだ。元祖BLの魅力を引き出した久世光彦、ソロ活動をプロデュースした加瀬邦彦、グラムっぽい伝説のビジュアルを作ったセツ出身デザイナー早川タケジ、後年バックバンドを務めた吉田建、そして盟友ショーケン… きら星のような「ジュリーをめぐる人々」がそのまま、メディアやプロダクションのありようを含む豊かな戦後の芸能史、サブカル史となっていて面白い。大変な取材量。

個人的には内田裕也が京都で、タイガースの前身ファニーズを見いだしたその人であり、スキャンダルとなった離婚・再婚などの間もずっと良き理解者だったというのが、まず発見。周囲の創造力に比べると、実は本人のセンスは問題外だったらしい。京都の学生時代は喧嘩が強い硬派で、名曲「危険なふたり」をなんと空手着で歌いたがったとか、驚きでしかない。
彼の才能とは天賦の美貌、そしてなにより、手抜き無しに与えられた仕事を全うする頑固なプロ意識であることが、よくわかる。常識人が演じきる虚飾の美。スターはいつの時代も、そういうものなのかもしれない。

全編を通じて最も強烈なのは、理屈抜きに多大な時間と労力をつぎ込むファンの存在だ。あとがきで連載中、50年来の熱心なファンが次々に貴重な資料をみせてくれたり、話をきかせてくれたりしたことを紹介している。GS時代にファン同士が反目したり、フェスでロックファンと揉めちゃったり、ファンの存在ってややこしい。それでもスターの物語は間違いなく、ファンの物語なのだ。著者自身、間違いなくファン目線だし。
時系列がところどころ前後するので、ちょっと読みにくい面も。ネットで当時の動画や画像を確認しながら読むと楽しいです。(2023/10) 

October 14, 2023

言語が違えば、世界も違って見えるわけ

フランス語はロマンス諸語のひとつであるだけでなく、現実のロマンスにもぴったりの言語だ。英語は順応性があるのを通り越して、来るもの拒まずでなんでも受け入れてしまう。そして、イタリア語は…そう、イタリア語は…
 この手の単純明快な考察は、ディナーの席の会話に彩りを添えることが多い。言語とその話し手のさまざまな特徴というのは、あれこれつつき回すのに格好の話題だからである。しかし、この高尚なテーマが和気あいあいとしたディナーの場を離れ、冷え冷えとした書斎に持ち込まれると、冷めたらしぼむスフレよろしくあっというまに潰れてしまうーーよくいって面白いが無意味、悪くすると頑迷な珍説に過ぎないからである。

「言語が違えば、世界も違って見えるわけ」ガイ・ドイッチャー著(ハヤカワノンフィクション文庫)

母語に固有の特徴は、意外な形で、話し手の外界を知覚するやり方に影響を及ぼす。そんな最新の研究を、1969年生まれ、イスラエル出身の言語学者が一般向けに解説した。「フランス語のエスプリは英語には無い、フランス人は英国人よりエスプリに富んでいるのは当然」といったお洒落な言説をきっぱりと否定。言語と認知の関係をあくまで学問的に解き明かしていて、地味なんだけれど真摯な論理展開に好感をもてる。

とりあげるのは例えば、古代ギリシャ、ホメロスの色彩表現。海も牛も「葡萄酒色」ってどういうこと? 世界がモノクロに見えていたのか? あるいはドイツ語の名詞で、象はオスもメスも男性、キリンは女性って?
最もユニークなのはオーストラリア先住民のグーグ・イミディル語における位置関係の表現だ。自分を中心とせず、東西南北の絶対座標軸を使うという。「私の右側」ではなく「私の西側」というふうに。なんて刺激的。

経済の結びつきやネットの普及で「社会」のサイズが大きくなると、言語は誰にでも理解しやすいように特徴を失い、どんどん単純になっていくらしい。合理的だけれど、それって寂しく感じられる。巻末に膨大な原註、参考文献付き。椋田直子訳。(2023/10)

September 24, 2023

悪童日記

ぼくらが記述するのは、あるがままの事物、ぼくらが見たこと、ぼくらが聞いたこと、ぼくらが実行したこと、でなければならない。

「悪童日記」アゴタ・クリストフ著(ハヤカワepi文庫)

270ページほどの文庫本に、度しがたい戦争の不条理、人間の醜さが詰まっている。壮絶な貧困、むき出しの欲望、孤絶と死。目を背けたいけど、背けてはならないものが、徹底して乾いた文章で綴られて鮮烈だ。随分前から気になっていた小説。このタイミングで読んで、余計に重い。

形式は、双子の少年がこっそり書いていた作文だ。戦時下、二人は〈大きな町〉を逃れ、〈小さな町〉の外れに住む祖母の家に預けられる。祖母は愛情のかけらもなく、文盲で不潔で吝嗇。環境は想像を超える劣悪さだ。双子はお互いだけを頼りに盗みも暴力も、手段を選ばずサバイブし、それをありのまま淡々と綴っていく。狡猾で、全く可愛げはない。

仏文学者・堀茂樹の訳注によると、二次大戦時のハンガリー・クーセグが念頭にあるという。オーストリア国境に位置し、ナチスドイツ支配下。男たちは戦線へ動員され、ユダヤ人が収容所へ引き立てられていく。終盤で〈解放者たち〉がやってくるが、それはソ連軍であり、支配が全体主義から全体主義へと移行するだけ。

著者は少女時代にクーセグで暮らし、1956年のハンガリー動乱で活動家の夫、乳飲み子とスイスへ亡命したという。個人的には、かつて観光でブダペストを訪れたとき、動乱で処刑されたナジ首相の像に衝撃を受けたことを思い出す。多くの観光客が訪れる国会議事堂近くに立ち、気のせいか哀しげに議事堂のほうを見つめていて、なんと足下には戦車の轍。この像が2019年に移設されたというニュースに接したとき、また暗い気持ちになった。
そして今。国境を接するウクライナへのロシア侵攻で、ハンガリー現政権はEUやNATOの加盟国でありながら、制裁に反対するなど親ロシアの立場をとる。オスマン帝国やハプスブルク帝国の支配も受けてきた中欧の、一筋縄でいかない歴史の重みと、進行中の現在。たまたま居合わせた個人の人生が、なんと過酷なことか。

そう考えていくと、この小説で双子が学問や宗教はおろか、親の愛さえきっぱりと否定する幕切れには圧倒されるけれど、どこか爽快でもある。生ぬるい同情や善悪をはるかに超えて、凜と立つ一個の生命。続編があるというけれど、この唐突なラストが、いい。
1986年、著者による初の小説で、翻訳は1991年刊行。今だからこそ、多くの人に読んでほしいと思う。(2023.9)

September 13, 2023

ヴェルディ

ヴェルディの見事な人生は、「建国神話」にふさわしいものだったのだろう。政治的意図がなかったとしても、彼は時代に必要とされた存在だったのではないだろうか。

「ヴェルディ オペラ変革者の素顔と作品」加藤浩子著(平凡社新書)

素敵な音楽物書き、加藤浩子が愛してやまない巨匠ヴェルディの評伝から楽曲解説まで、全てをぎゅっと詰め込んだ一冊。

当然ながら内外の文献、楽譜をじっくり読み込んでいるので、通り一遍ではない。例えば、有名なオペラ「ナブッコ」の〈行け、わが想いよ〉をめぐる「神話」について。1842年、ミラノのスカラ座で初演された時、オーストリア占領下にあった聴衆が熱狂し、アンコールを要求したという。そして今も第二の国歌と呼ばれるほど愛され、ヴェルディはイタリア統一の象徴になっている。
でも、実は初演でアンコールされたのは、別の曲だった。著名な音楽家であると同時に立派な事業家であり、晩年は慈善家でもあった彼だからこそ神話になりえたのだと、読み解いていく。

圧巻はやっぱり後半のオペラ全26作の解説。粗筋から聴きどころ、創作の背景までを網羅していて、絶好のガイドになっている。巻末には音楽用語の解説も。こうして眺めてみると、意外になかなか上演されない作品もけっこうある。2013年初版なので、お勧め歌手の章は残念ながら古くなりつつあるけれど、その情報の更新も含めて、まだまだ知らないヴェルディがあるなあと、楽しみが増える読書体験だ。(2023.9)

August 14, 2023

塞王の楯

「戦の最中で『扇の勾配』かよ。化物か」
 玲次は唖然とし、さらに段蔵は信じられぬといったように溜息を漏らす。
「しかも鉄砲狭間付き……そのようなことが本当に出来るのでしょうか」

「塞王の楯」今村翔吾著(集英社)

戦国時代を生きた近江の石垣職人集団・穴太衆。その最高峰に立つ若き「塞王」飛田匡介の活躍を描く。前半は匡介の不幸な少年時代や石積みの解説などで、まったりしていると思ったけれど、後半、大津城の闘いに突入すると、ぐっと引き込まれた。鉄砲鍛冶集団・国友衆のライバル、三落と対峙し、まさに矛と盾が誇りをかけて職人技を尽くす。

1600(慶長5)年9月、琵琶湖に面した舟運の地に立つ大津城。城主・京極高次は浅井三姉妹のひとり、初を正室としている。初の姉は秀吉の側室・茶々(淀)、妹は徳川秀忠の正室・江。愚鈍なのに閨閥で出世した「蛍大名」と侮られながら、どっこい大津の生き残りのため、城に籠もって西軍(三成軍)を迎え撃つ決断をする。
家臣にも慕われている高次に従った匡介は、石積櫓の爆破や格子状の石垣など、知恵と技を次々に繰り出して西軍を苦しめる。一方、攻め方の名将・立花宗茂に仕える三落も、雨をものともしないバネ式銃や大砲という新技術を投入。あまりに激しい攻防に、京の町人が弁当持参で繰り出して、三井寺観音堂から見物していたとか。

鉄壁の守りか、最終兵器か。ライバルふたりがともに相手の戦意を削り、結果として平和を目指すという筋は今の時代、ちょっと空しく感じられる。それでも開城して高野山へ送られた高次が、西軍1万5000を足止めしたことで関ヶ原での勝利に貢献し、家康に高く評価されたと知ると、なんだか爽やかだ。(2023/8)

August 11, 2023

永遠と横道世之介

この世で一番カッコいいのはリラックスしてる人ですよ。

「永遠と横道世之介」吉田修一著(毎日新聞出版)

あの世之介シリーズの完結編。2007年、もう40手前のフリーカメラマンになってる世之介と、取り巻く人々の1年を描く。完結しちゃうのが残念だ。

世之介は吉祥寺郊外で、下宿を営むあけみちゃんと暮らしている。下宿人たちと転がり込んできた引きこもり男子とで、季節季節の食卓を囲む。決して押しつけがましくなく、淡々とした日常の温かさがまず、いい。
世之介の言動が、いちいち拍子抜けするような脱力系なのは相変わらず。そして、けっこうモテるのも相変わらずで、かつて湘南の寺で出会い、早世した運命の恋人・二千花との思い出が繰り返される。切なくて哀しくて、しみじみと美しい。
ちなみに付き合っていたヤンママはどうなったのか、と思うと、息子の亮太もちゃんと登場します。

2021年末から23年の始めと、コロナ下での新聞連載。いつになく、生死が意識されるのはそのせいもあるのだろうか。あけみちゃんの祖母と父の経緯や、二千花の両親の思いや、後輩カメラマン・エバちゃんとその娘…。どんなに平凡にみえる人にも、生きていれば辛い出会いや別れがある。そうして人は、今日みたいな日があれば人生満足と思える一日「満足日」を抱いて、どうにか生きていくのだ。大丈夫、絶対に大丈夫だから、とつぶやきながら。

読者は小説のなかの1年のすぐ後に、世之介自身が突然、亡くなってしまったことを知っている。読みすすむうちに、すっかり世之介の知り合いのひとりになって、しみじみ思い出すような思いにこたえるラストがまた、染みる。(2023.8)

 

July 02, 2023

おかえり横道世之介

「だな。おまえは急いでない感じするよ」
「でしょ?」
「だからかな、なんか、こんな話、したくなるんだろうな」

「おかえり横道世之介」吉田修一著(中公文庫)

あの愛すべき脳天気野郎が帰ってきた。バイトとパチンコで暮らすダメダメな24歳の、しょうもなく、心温まる1年。

2009年刊行の第一作でバブル期の大学生だった世之介は、売り手市場に乗り遅れてしまった典型的ロスジェネになっている。でも、焦っているようにはみえない。だらだらと冴えない日々、でも、ずるくないし、ごく自然に誰にでも親切。
そんな世之介だから、周囲が心を許す。証券会社の仕事に挫折した旧友、女だてらに鮨職人を目指すパチンコ友達… ひょんなことから恋人になった元ヤンキーのシングルマザーとは、世之介らしい成り行きで家族ぐるみの付き合いとなり、父と兄が営む整備工場にいり浸っちゃう。恋人のひとり息子にかける言葉が、泣けます。人を思いやれる強い人間は少ない、お母さんはおまえをそんな人間にしたいんだ。

前作同様、中盤からは彼を取り巻いていた人々の「現在」が挟まって、感慨が深まる。2019年2月刊行「続 横道世之介」の文庫化なので、作中の「現在」では東京オリンピックが有観客の設定なんだけど、気にならない。ふとしたことで思い出す、彼らの胸の奥に世之介が残した小さな明かり。しみるなあ。
巻末に2013年の映画「横道世之介」の監督・沖田修一と主演・高良健吾の対談を収録。(2023年7月)

June 25, 2023

街とその不確かな壁

「ええ、今ここにいるわたしは、本当のわたしじゃない。その身代わりに過ぎないの。ただの移ろう影のようなもの」

「街とその不確かな壁」村上春樹著(新潮社)

ハルキ6年ぶり、650ページに及ぶ書き下ろし長編。前作「騎士団長殺し」に比べると、個人的には苦手な方のハルキでした。
1985年発表「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」をベースにしていて、閉ざされた街、一角獣や〈夢読み〉という舞台装置だけでなく、その静謐で謎に満ちた感じに既視感がある。そもそも「世界の終わり…」のベースは1980年発表の中編だというから、この世界的作家が生涯かけて紡いでいくテーマが、ここにあるのだろう。それは自分が身を置いている現実世界に、どうしても馴染めない、という感覚のように思える。

物語は現実世界と「街」が交錯しながら進む。現実世界のほうで主人公ぼくは、海に近い郊外に住んでいた高校時代、ひとつ年下の美しい少女と、微笑ましく熱烈な恋に落ちる。しかしある日、少女は忽然と姿を消してしまい、以降、ぼくは都会で誰にも心を許さず、孤独な日々を過ごす。強まっていく「ただこの現実が自分にそぐわない」という感覚。そして45歳になったとき突然、安定した職を辞して、福島の山間にある小さな図書館の館長に就く。
そんな現実と並行して、ぼくはかつて少女と空想した「高い壁に囲まれた街」に迷い込んでいた。夢か、自意識の幻影か。時計には針がなく、静謐で、味気ない。影を失ったぼくは、自分のことを覚えていない少女と再会し、毎夜図書館に通って、行き場を失った誰かの夢を読む。果たしてぼくは現実と「街」、どちらで生きることになるのか。…というあたりで、だいたい全編の3分の1。

ぼくは思う。現実と現実でないものを隔てる壁は、存在はするんだけど、どこまでも不確かだと。どのどちらで生きるか、選ぶことはできない。
思えばいったい何が、わたしたちをこの現実世界につなぎ止めているんだろう。社会的地位、やりがいと責任のある仕事、愛する家族や恋人。そんなものは実は、何の役にも立たないかもしれない。
正直わたしにとって、このテーマに実感がわくかというと、そうでもない。けれど夏の夕暮れ、17歳と16歳が並んで座る川岸での、「わたしはただの誰かの影」というささやきは、なんだか切実で、とっても哀しい。

文章はいつもながら滑らかで、残り3分の2もすいすい読める。ぼくが福島で出会う人物の造形が、魅力的だ。なんといっても高齢の前館長、子易氏。町の名士なんだけど、いつもベレー帽に謎のスカート姿。深い絶望を秘めつつ、言動に愛嬌があって可愛らしい。そんな子易氏への親しみを共有している、しっかり者の司書・添田さん。そしてぼく以上に、深刻な違和感を抱えて苦しむ「イエロー・サブマリン」の少年。
混沌をへて、自分自身が自分を受け止める、そう無条件に信じるということの貴重さが胸に残る。

2020年のコロナ下で書き始めたそうだけど、普遍的です。(2023.6)

«官邸官僚が本音で語る権力の使い方