September 21, 2025

「音を聴く 深く観る 歌舞伎音楽事始」

格の高い俳優さんや重要な役ほど、唄や鳴物が入ったり、それまでの曲とは変えたりして、強調します。ただ、具体的にどの曲をどこに使うかというのは、実地の経験次第です。

「音を聴く 深く観る 歌舞伎音楽事始」土田牧子著(NHK出版)

日本音楽史を専門とする研究者が、歌舞伎の音楽をイチから解説。文楽、歌舞伎を観たり、古曲の一中節を聴いたりしていながら、実はわかっていないことが多くて、ためになる一冊だ。
舞踊音楽としての長唄、はたまた語り物としての竹本や、豊後系浄瑠璃の常磐津、清元という位置づけ。浄瑠璃が興隆した元禄にはじまり、長唄が成立した享保、清元が人気を博した化政期…といった歴史。順を追った丁寧な記述は、時に真面目すぎると思えるほどだ。そもそも三味線の調弦は唄や語りの声に合わせるので、ピアノのように一定ではなく、よく聞く「本調子」「二上り」「三下り」は三本の弦どうしの音程の幅のこと、とか、今更ながら納得しちゃう。

後半、お馴染み「勧進帳」「寺子屋」など、特に上演の多い七演目の粗筋を、音楽から読み解くくだりになると、筆致がぐっと生き生きしてくる。松羽目もので、明るい長唄のなかに荘重な能楽を取り入れる工夫とか、竹本で人物の登場シーンにドラマをこめているとか、聴きどころ満載で面白い。
あとがきを読むと、著者は小学6年生だった1988年、歌舞伎座100周年公演ではまって以来、歌舞伎に通い続けたという筋金入り。並行してオペラ、ミュージカルにも親しみ、ついに藝大楽理科に進んだという。どうりで舞台愛が半端ないわけです。

特に興味深いのは歌舞伎ならではの黒御簾音楽(下座、陰囃子)の解説だ。役者の台詞や仕草を描写したり、舞台転換のつなぎや雨風などの効果音を担ったり、あくまで舞台を進行させるBGMで、単独では曲として成立しない。黒御簾独自、あるいは長唄や浄瑠璃、小唄、端唄、祭囃子などから借りてきたフレーズのストックが、ゆうに1000以上あって、これを自在に組み合わせて演奏する。その組み合わせは、たいてい演目やシーンで決まっているけれど、中心になる役者が音羽屋とか松嶋屋とか、大物か花形かとかで違いもある。だから上演ごとに、「付師」と呼ばれる三味線方が音楽監督となって提示する。
巻末近くに現役の太夫、三味線方のインタビューを収録。「付師ばかりは一朝一夕にはできないもので、二十年、三十年かけて覚えていかないといけません」という言葉が重い。

いざ観劇となると役者に気をとられて、黒御簾まで気が回らない気がする。でも少しでも知識を得て、長く重層的に楽しみたいと思わせてくれる本だ。(2025.9)

August 15, 2025

教養として学んでおきたい神社

ない宗教としての神道とある宗教としての仏教とは相性がいいとも言える。

「教養として学んでおきたい神社」島田裕巳著(マイナビ新書)

自宅本棚にあったごく簡単な新書を読んでみた。誰もが近所の散歩でも観光でもよく訪れ、スピリチュアルを持ち出さなくても、訪れれば自然に手を合わせる場所。そんな施設としての神社の成り立ちを、宗教学者が整理する。考え方の一部は伊勢や高千穂を訪れた際にも触れていて、断片的な知識がちょっとつながって面白い。

神道の神とは本居宣長が喝破したように、善良であっても、人に祟りをもたらす邪悪であってもおかまいなく、尋常でない、凄い存在ならすべて神だ、という概念にまずびっくり。だから古来の神話に登場する神に加えて、八幡神など神話以外の神、さらには菅原道真ら人間だった神と、どんどん増殖してきた。なるほど。
古典や絵巻物から、立派な建物としての「社殿」の起源を探るくだりは、研究者ならではだろう。いわく13世紀、鎌倉時代あたり、社殿の前に建つ「拝殿」になると14世紀と、意外に新しい。もっと時代をさかのぼると、ルーツは巨石=「磐座」に注連縄という自然信仰なのだという。こういう信仰のかたちは、アイルランドでもペルーでも見かけた世界共通のものではないか。8世紀ぐらいまでの沖ノ島では定まった建物どころか、祭礼をとりおこなう岩場や使う道具は一回限りで、終わったらそのまま放置していたという。

日本独特のようで、さらに面白いのは江戸期まで当たり前だった神仏習合だ。ヨーロッパでは土着の宗教がキリスト教にすっかり取り込まれた。例えば新約聖書にはキリストの誕生日の記述がなく、季節さえはっきりしない。土着の冬至の祭りを取り入れて12月25日にしたのだという。
ところが日本では国家が仏教を統治の基盤にしたにもかかわらず、神道もしっかり生き残った。すなわち本地垂迹説で、神の本当の姿(御正体)は仏、としちゃった。先日展覧会で観た平安時代の春日宮曼荼羅は、まさに本地垂迹を図解したもの。驚くべき融通無碍!
神道が明確な教祖や教義をもたない、「ない」宗教だからこその芸当で、そこに至るには8世紀、八幡神が国家的プロジェクトの大仏建立を助けて、菩薩号を与えられたことが大きかった、とか、三社祭でお馴染み浅草神社の三人の祭神は、なんと隅田川で浅草寺の本尊を発見した漁師ら3人のことだ、とか、トリビアが満載だ。
明治維新の神仏分離で、後付けで神道にも教派や社格の概念が導入され、さらに戦後、国家と神社が切り離されて伊勢神宮を本宗とする体制が整備されたと。ずいぶん最近のことなんだな~

全く意識していなくても、日本に生まれたら自動的に全員、神道の信者、という解説を聞いたことがある。世界の分断をみるまでもなく古来、宗教観は良くも悪くも、国家や民族の基盤のひとつ。考えだすと面倒も多いけれど、今更ながら重要な知識ではあると思い直した次第。(2025.8)

August 10, 2025

向日葵の咲かない夏

誰だって、自分の物語の中にいるじゃないか。自分だけの物語の中に。その物語はいつだって、何かを隠そうとしているし、何かを忘れようとしてるじゃないか

「向日葵の咲かない夏」道尾秀介著(新潮文庫)

「夏」をテーマにした読書会の、オススメ本の一冊を手にとってみた。久々に読む人気作家の、2009年出版のベストセラーだ。確かにアクロバティックな叙述ミステリーで、映像化不可能という解説も頷けた。

とはいえ、気持ちよく欺されるというのとは違う。小4男子が夏休みに、級友の死の謎を追う物語。その謎解きうんぬんよりも、描かれる日常が重過ぎる。いじめ、動物虐待、トンデモ教師…。ストーリーの核となる幼い精神の歪み、閉じ込められた心に、説得力があるのが悲しい。

2004年に読んだ「葉桜の季節に君を想うということ」(歌野晶午著)を思い出す技巧なのだけれど、それにしても道具立てが暗過ぎないか。結末を知って冒頭から読み返したら、随所にある伏線にたぶん感嘆するのだろうけれど、その元気はなかったな。(2025.8)

August 09, 2025

Yes,Noh

舞台では面と装束で自己を閉じ込め、只々型を無心に行っているだけです。

「Yes,Noh」関直美著(KuLaScip)

ちょっとご縁があった宝生流シテ方の女流能楽師が綴った、ジェットコースターのような半生を読む。振り出しは帯広。裏千家教授の娘として育つものの、与えられた境遇を飛び出してニューヨークに留学。人種のるつぼで夢をつかみ、いよいよ心理学修士を取得しようという目前になって母が病に倒れてしまう。急きょ帰国し茶道の社中を継ぐが、1998年、33歳でさらに大きな転機が訪れる。
気分転換のつもりで鑑賞した能舞台に衝撃を受け、一念発起してなんと芸大に入学。以降、大変な努力を重ねて能楽師の道を歩みながら、現在は伝統芸能の普及団体も主宰している。

人生を変えた舞台が衝撃だ。金春流79世宗家・金春信高氏が喜寿の祝いで、一子相伝の秘曲「関寺小町」を41年ぶりに舞う。2年もかけて準備した舞台で倒れたこともショッキングだけど、そのあとこそが凄まじい。能舞台は曲の途中で止めることができない。後見の金春晃實が朦朧とする信高氏を後方へ引きづっていき、固く握った指を開いて扇を受け取って、舞い納めたという。
長男である金春安明氏との対談が収録されている。当日、安明氏は地謡を務めており、シテの面倒をみるのは後見の役割。「父が倒れた時、何を思ったかと言うと、『あぁ、僕は地謡でよかったな』なのです。これも親不孝なものですよね」「僕達地謡は余計な事を考えず、とにかく謡い続けました」「それがプロとしてのこちらの仕事だと思っています。ですから謡い続けました」… 信高氏は重症ではなかったものの、この不本意な舞台を最後に結局、シテを辞めることになる。なんという厳しさ。
「関寺小町」とは小野小町百歳の、衰えを嘆きつつものんびりした一日を描く演目だ。安明氏はいう。「百歳の小野小町の役をやると言う事は、何か訳がわからない役をやると言う事なのですね」「父の著書に『動かぬ故に能という』があるのですが、この事がやはりただ事ではないのです。これはいい加減な人ではできません」

そもそも、シテは面をかけているため極端に視界が狭く、10キロ近い装束をまとっているので手足の自由もそうきかない。舞台に立つときには結界のように自己を閉じ込める、と著者は記す。例えば「シオリ」という悲しみを表現する型でも、悲しい気持ちを伴うのではなく淡々と、型を忠実に再現するだけ。だからこそ、人生をかけて積み重ねた人となりが現われる、と。
お能はそれほど観ていないのだけれど、さまざまな古典芸能につながるものだし、もう少し理解したいかも、と思わせる一冊。いや、老後の楽しみが増えちゃうな。(2025.8)

July 24, 2025

告白

熊太郎は恐怖の十字架を負った道化師であったのである。

「告白」町田康著(中央文庫)

一度、町田康を読んでみたくて、2005年谷崎潤一郎賞受賞作を手に取った。いや、長かった。1893(明治26)年の大事件で、河内音頭のスタンダードナンバーとなった「河内十人斬り」の犯人、城戸熊太郎の36年の人生。といっても大阪の片田舎にくすぶる、ごくしがない放蕩者だ。それがなぜ、歴史に残る凄惨な事件を起こすに至るのか。紙だと900ページ超にわたって、ほぼ全編これ、熊太郎の言い訳。

繰り返されるのは、どうしようもなく肥大化した自意識だ。いわく子供のころから周囲を単純でつまらない、と軽蔑していた。本人にしてみれば、自分は「極度に思弁的、思索的」で二重三重に屈折しており、それを河内の百姓言葉では表せず、「日本語を英語に翻訳したのをフランス語に翻訳したのをスワヒリ語に翻訳したのを京都弁に翻訳したみたいなことになって」、ちぐはぐな行動をとってしまう。「自分よりアホな人間に白痴と断定されるほど情け無いことはない」。あげく酒と博打に身を持ち崩し、粋がって無茶な喧嘩沙汰や金銭トラブルを繰り返し、追い詰められていく。
15歳で人を殺したと思い込み、これはなにやら熊太郎の妄想めいているのだが、いつか報いを受けるに違いないと、深い恐怖にとらわれている。義侠心など一切ないのに、暴力に直面すると自分の罪を突きつけられるようでいたたまれず、反撃し大暴れしちゃう。心中は常にくよくよと鬱屈し、寂しく空疎で、村娘ひとり満足に口説けない。愚かで情けなく、それを十分自覚しているところは憎めないんだけど、とにかく面倒臭い。ああ、こういう人いるのかも。

よくぞこの面倒臭い人物の語りを、飽きず新聞で連載したものだと思うのだが、文章は軽妙だ。「ほんほん。ほんでほんで」「うわっ。二十円。おっとろしな」と、登場人物が話す河内弁がリズミカル。たまに著者の突っ込みも挟まる。「その生活態度たるやふざけきっていた。あかんではないか」「なんじぇえわれ、というのは、標準語に翻訳すると、お前は何者だ、という意味であるが、はっきりいってあほである。犬を相手に、おまえは何者だ、と誰何したからといって犬が、はい。私は大阪府泉佐野市からやってきた尨犬でございましてなどと返事をするわけがない。」
さらには30過ぎていっぱしの侠客となった熊太郎を、幼なじみたちが呆れて遠巻きにする様子を、音楽しかないフリーターといずれ就職する大学生がロックバンドを組んだときに例えたりして、笑っちゃう。郷土料理「あかねこ」の登場とか、芸も細かい。
あくまで熊太郎の告白であり、犯罪の背景として明治の近代精神の歪みとか、古墳時代から続く河内という土地の重みといった観念には走らない。それでいて終盤でふいに、宿命を予感させる一行。「金剛山の上空に黒雲がたちこめて驟雨。」パンクな力技です。いやー、疲れた。

それにしても芸能というのは面白い。救いようのない陰惨な事件を「新聞読み」としてすぐさま河内音頭にしたら大ヒットし、いまも継承されている。文楽、歌舞伎にもそうした演目があって、人間の深い業、現実を描く。幕切れ、盆踊りの熱狂が印象的だ。(2025.7)

July 13, 2025

古代インカ・アンデス不思議大全

こんな面白い文化のこと、メディアもそうだし、学校とか教育機関なんかは、どうしてちゃんと教えてくれないの!

「古代インカ・アンデス不思議大全」芝崎みゆき著(草思社)

中南米の遺跡、古代文明に憑かれた著者が、イラストと手書き文字で、長大な歴史をたどる。ぱっと見は漫画、突っ込みセリフ満載のふざけた筆致。南米旅行の予習として、とっつきやすいかな、と思って手に取ったけれど、どうしてどうして内容は重厚だ。
それもそのはず、巻末にはレファレンスとして英語版を含め大量の文献、サイトが網羅され、作図でも出典として博物館や展覧会の図録を明記していて、その精緻さに頭がさがる。有名過ぎるナスカの地上絵をはじめ、様々な史実について決してひとつの見解に飛びつかない。特にオーパーツ、オカルト的な説には一貫して距離をおいていて、その冷静さに好感が持てる。

インカ帝国の歴史を中心にすえつつ、前半にはインカに先立つ「プレインカ」文明の解説もたっぷり。ユニークな土器の造形など、確かに魅力いっぱいだ。互酬文化や石積みといった高度な技術にも触れていて、興味は尽きない。
一方で生贄をはじめとする古来の風習や、16世紀にスペイン人が現われてからのインカ対スペイン、スペイン同士、インカ同士それぞれの闘争は、時に凄惨過ぎて目を覆いたくなる。これもまた人間というもの。誰が英雄で誰が悪という、偏った決めつけはない。

とにかく大変な労力をかけた著書で、それだけインカ・アンデスの不思議が著者をとらえて離さなかったということか。深いです。アンデス考古学が専門の文化人類学者、加藤泰建氏が目を通したとか。巻末の索引も充実していて、耳慣れない地名、人物名が大量に出てくるだけに有難い。(2025・7)

May 25, 2025

名画を見る眼

フィチーノやアグリッパの著作は、今ではかぎられた専門家以外はほとんど読まなくなってしまったが、デューラーの版画は今でもなお強く人を魅惑する力を持っている。

「名画を見る眼Ⅰ」「名画を見る眼Ⅱ」高階秀爾著(岩波新書)

国立西洋美術館長や大原美術館長などを歴任した著者が、1969年、71年に岩波新書青版の1冊として発行、累計90万部超の大定番となった西洋美術入門書。2023年にカラー化した新版で、油彩が誕生した15世紀のファン・アイクから20世紀のモンドリアンまで、29点を解説している。いろんな美術展に足を運んできて、実際に観たことがある絵もけっこうあり、時系列に読むと改めて、それぞれの美術史のなかの位置づけがよくわかる。

名画は、なぜ名画なのか。ベラスケス「宮廷の侍女たち」の王女を核とする構図の妙、印象派を200年も先取りしたフェルメール「絵画芸術」の静謐な光、ルネサンス以来の写実を超えて二次元表現へと踏みだし、浮世絵の影響を感じさせるマネ「オランピア」。そしてお馴染みのモネ、ゴッホ、ゴーギャンからルソー、マティス、ピカソへ。技巧のポイントとともに、その技巧に至る時代背景、画家個人の足跡も紹介していて、情報量が豊富だ。

古い書物を読んで、文化や思想を知るのは骨が折れる。それに比べると、絵画は一目観た者に、実に多くを語りかける。芸術家が私たちを取り巻く世界、そして人間存在そのものをどうとらえてきたのか。オランダ出身のモンドリアンは、70歳を目前にして二次大戦の戦火を逃れ、ニューヨークに移った。巻末の1作「ブロードウェイ・ブギウギ」からは、画家が魅せられた摩天楼そびえる都市がもつ勢いとともに、軽快なジャズのリズムが響いてくる。抽象画は音楽になったのだ。(2025/5)

May 04, 2025

アーティスト伝説

お言葉ですが、これからは日本にもシンガーソングライターの時代がやってきます。

「アーティスト伝説」新田和長著(新潮社)

昨年、映画「トノバン」を観た流れで、トークショーも聴いた新田和長さんの著書を読む。70年代ニューミュージックの立役者で、伝説のプロデューサーによる貴重な証言だ。懐かしい、けれど今も古びない才能あるミュージシャンたち、そして名も無きファンたちが音楽のかたち、音楽ビジネスを変えていくさまは、なんともドラマティック。

とりわけ入社3年ほどの間にヒットを連発しちゃうあたり、時代の勢いがあふれて痛快だ。個性とプライドのぶつかり合いは、時にひりひりした緊張を生む。名曲「あの素晴らしい愛をもう一度」のレコーディングでは、北山修と加藤和彦が言い争い、「花嫁」ではフォークの神様、岡林信康の一言が窮地を救う。ロックとフォークが縄張り争いしていた頃、皆に恐れられていた内田裕也から六本木のパブに呼び出され、意気投合する。
1973年のサディスティック・ミカ・バンドあたりから話は派手になる。PA運搬用のトラックをあつらえ、EMIのレーベル・マネジャーを日本に招待して「黒船」の英国発売を実現する。やがてビートルズのプロデューサー、ジョージ・マーティンに弟子入りしちゃう。格好良いなあ。

曲ごとのアレンジやミキシングの解説に触れていて、創作現場の熱気を感じさせる。寺尾聰、平原綾香、小田和正ら、次々登場するアーティストの素顔は、気難しさや面倒なトラブルも含めて興味深い。偶然エレベーターに乗り合わせたユーミンがふと、デビューから半世紀近く経って、当時の現場宣伝マンのことを気遣うシーンは感動的。(2025.5)

April 16, 2025

ラグビー知的観戦のすすめ

密集ができたときに、その外側の人数や、そこから起き上がってくる選手たちに注目すると、これまでとは違った見方でラグビーを楽しめるようになる。

「ラグビー知的観戦のすすめ」廣瀬俊朗著(角川新書)

元日本代表主将による観戦ガイド。2019年のワールドカップ日本開催に向けた出版なので、各国代表の紹介などは古くなっているものの、基礎的な内容はためになる。「親分にするなら第三列」といったポジションの役割、「ボールを持った選手が常にチームの先頭」といったルール、パスやキックを選択する意味…。相変らずルールや反則は難しいけれど、大事なのは自分の足で立っていること、そして組み合ったら手でボールに触れないこと、と言われるとわかりやすい。
歴史的背景も面白い。フットボールのルーツはイングランドの、何でもありの村祭りで、スポーツとなってからも学校ごとにルールがばらばらだった。1863年にルール統一を話し合い、席を立ったラグビー校式のグループがラグビーに、残った手を使わない派のグループがサッカーになった。ラグビーのアマチュアリズムの伝統は、中上流階級の子弟が名誉のために闘っていたから、そして代表資格が所属協会主義なのは植民地経営のエリートが参加した名残。なるほど。
著者はラグビー振興に情熱をもっていて、その魅力を語りたくて仕方がない。品位や規律という精神論だけでは正直、優等生過ぎるけれど、自身が代表キャプテンを下ろされた屈辱も率直に明かし、それを乗り越えた過程もまたラグビーの魅力だと語っていて、好感がもてる。(2025.4)

April 05, 2025

まいまいつぶろ

「どんな駒も前に進めると教えてくださったのは家重様にございます」

「まいまいつぶろ」村木嵐著(幻冬舎)

2023年に評判だった、九代将軍・家重と側近・大岡忠光の生涯を描く一編を知人の勧めで。家重といえば、幼いころから障害を抱え、奥にこもって酒食にふけりがち。享保の改革を断行した偉大な先代・吉宗が実権を握り続けたと言われる。しかし本作では家重を、聡明で人の本性を見抜き、また弱者を労る心優しい人物と解釈。イメージを覆す設定は、時代小説の楽しみのひとつだ。

とはいえ、全編を覆う雰囲気は重苦しい。なにしろ家重は尿意を堪えるにも苦労して、まいまいつぶろと嘲られ、廃嫡の危機はもちろん、将軍の座についてさえ屈辱に耐え続ける日々だ。全く格好良くない。
その不明瞭な発話を唯一理解し、見事に「通訳」し通したのが忠光。少年時代からすぐ側にいて、最高権力者の絶対的な信頼を得たわけだが、それだけに厳しく自分を律する。家重の口代わりを務めても、決して耳や目にはならないと思い定め、つまり自分の見聞きしたことを家重にインプットしたり、家重が口にしない思いを自分が察して周囲に伝えることは、一切ない。無表情に一歩下がっていて、作中でも自分の言葉でしゃべるシーンがほとんどないほど。権勢を振るうことはなく、ついでに賄は断固拒否、紙一味も受け取らない。
清廉といえば立派だけれど、その頑なさが家重・忠光主従にとってプラスとは限らない。本当に忠光は家重の言葉を理解して、正確に伝えているのか? 江戸城の中枢に渦巻く疑念、嫉妬、嘲り、悪意。ではどうしたらいいのか。権力に仕えるものの宿命に正直、息が詰まる。家重治世の重要イベント、木曽三川の治水工事や郡上一揆では、昔のこととはいえ、あまりに多くの人命が失われちゃうのも、陰鬱で救いがない。
だからこそ、と言うべきだろう。吉宗の最晩年の言葉の温かさ、そして大詰め、忠光下城シーンの壮大な江戸城の景色がドラマチックで、ジンとくる。

思いが伝わらないことの辛さ、もどかしさの物語と考えると、ずいぶん普遍的なことに気づく。障害はもちろん、難病や加齢、より日常的にコミュニケーション下手な人というのは、たくさんいる。異文化に放り込まれた境遇でもありうること。伝わらないからといって無いことにしない、想像力の難しさ。

主役主従はなんとも地味だけれど、お馴染みの人物の登場は嬉しい。暴れん坊将軍・吉宗の存在感はもちろん、忠光の遠縁で終生の理解者である町奉行・大岡忠相(越前)、大河ドラマ「べらぼう」の十代府軍・家治の賢さ。なんといっても若き日の田沼意次が、めちゃくちゃ頭が切れて的確で、かつ、後年の忠光とは全く違うアプローチも思わせて面白い。
著者は京大法学部卒で、司馬遼太郎家の家事手伝いをへて夫人・福田みどりさんの個人秘書を務めた人。幕府の役職など時代小説の言葉は常識とばかり、説明を省きがちでちょっと難しいけれど、空気が壊れない。(2025.4)

«それでもテレビは死なない