ここに、人間の歴史と人々が生きた足跡が記録されているのだから、府庫こそが天下そのものだと言っても過言ではない。そうした場にいることは、書物をつぶさに記憶する能力を持っている仲麻呂にえも言われぬ充実感を与えた。
「ふりさけみれば」安部龍太郎著(日本経済新聞出版)
「等伯」などの歴史小説家が描く、奈良時代の遣唐使、阿倍仲麻呂と吉備真備の波乱の人生。上下巻900ページだけど、権謀術数とお色気、ラストはまさかのアクションになだれ込んで飽きさせない。
百人一首の望郷の詩「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」ーー。作者の仲麻呂は新興国・日本からの留学生にもかかわらず、大秀才で人柄も清廉、玄宗皇帝側近の秘書監にまで登りつめる。帰国の途で亡くなったと思い込んだ詩仙・李白が「名月帰らず碧海に沈み 白雲愁色蒼梧に満つ」と悲しんだほど。実際は、海難にはあったが唐に戻り、そのまま異国の地で没したのだった。小説では、仲麻呂が長く唐にとどまって好きでもない出世に邁進した理由を、ある密命のためとし、息詰まるスパイサスペンスに仕立てている。
一方、盟友・真備は対照的に俗っぽくて、べらんめえ調が魅力的。帰国して、天然痘の流行で壊滅的な打撃を受けた国家を立て直すべく、権勢を振るう藤原家との激しい政争(天智天皇系と天武天皇系の争い)に身を投じる。軸に据えたのは天皇と仏教で、指導者・鑑真を招聘しようと再び命がけの入唐を決意し…
ふたりが人生を賭けて求めるのは、国家の正統性だ。それにはこの時代、柵封国の道を選び、強大な先進国・唐という権威に認められることが必須だった。権威の神髄が厳重に管理された史書「魏略」、すなわち文字の記録であるところが面白い。朝廷のごくごく一部の権力者しか目にすることが許されない最高機密だ。
文字といえば2019年に判明した、在唐時の真備の真筆とされる墓誌のエピソードもわくわくする。洛陽で発見された遺物で、末尾の「日本国朝臣備書」は日本人の直筆による「日本国」の文字として最古だという。巻末資料の写真をみると、なんとも几帳面で威厳が漂う字体。当時のエリートの教養と努力、そして日中の長く深い関わりを思わずにいられない。国際情勢が揺れ動く今、そんな感慨を抱けるのも、文字の記録があってこそ。
東郷隆の小説「肥満」が強烈だった安禄山ら、有名人が続々登場。スケールの大きさも楽しい。その中で仲麻呂の二人目の妻、玉鈴のクールな造形が魅力的だ。辛い目に遭ってきて、楊貴妃の姉として厚遇されるようになっても周囲に心を許さず、護身術に打ち込む。玄宗お気に入りの仲麻呂も単なる政略結婚と突き放していたが、胸に秘めた使命感を敏感に察していて、土壇場で気持ちが通じ合う。
有名でも無名でも、歴史の大河に否応なく呑み込まれ、もみくちゃになっていく人々。歴史の大きな謎がすっきりするわけではないんだけど、それぞれの、なけなしの誇りが清々しい。(2024/5)