オッペンハイマー

作品賞はじめ、アカデミー賞を席捲したクリストファー・ノーラン監督作。社会状況というより、原爆の父の内面をぐいぐい掘り下げていく。
全編を通じて不穏な「音」が怖い。特に戦勝祝賀会での、賞賛の足踏みの響きがオッペンハイマー(キリアン・マーフィーが熱演)の心をさいなみ始めるあたり、映画ならではの表現だ。
被爆国日本の運命、いまも続く軍拡競争(連鎖反応=チェーンリアクションがキーワード)を思えば、3時間、胸がざわつきっぱなしで、強烈だけど、決して気持ちの良い映画体験ではない。ユニバーサルの配給権を持つ東宝東和ではなく、ビターズ・エンド配給といういわく付きでもある。シネコンで。

ストーリーはロスアラモス初代所長として原爆開発に突き進む経緯と、1954年に赤狩りの嵐で研究生命を絶たれちゃうオッペンハイマー事件を行き来する(カラーがオッペンハイマー視点、モノクロがストローズ視点)。練り上げられた複雑な構成で、3時間、緊張が続いて効果的だ。
主題であるオッペンハイマーの造形は、根っこでは政治や軍に距離をおきたいピュアさを持つ。一方で、不倫の泥沼、尊大な態度など、他者につけこまれがちな弱さ、醜さも盛りだくさんで、その描写は容赦ない。特に若き日の英ケンブリッジ大での林檎のエピソード、独グッティンゲン大に転じてからの天才ハイゼンベルクとの遭遇は、原点としてのコンプレックスや焦りを印象づける。原爆開発の大国家プロジェクトを率いたとき、ユダヤ人だけにナチスを止める使命感があったのは確か。でも、それだけではなかったのではないか。
ロスアラモス建設の壮大さ(制作費1億ドル!)、人類初の核実験トリニティのシーンには高揚感があるものの、戦後、オッペンハイマーが水爆開発に反対してからは、トルーマン(ゲイリー・オールドマン)に「泣き虫」とばっさり切り捨てられ、野心満々の原子力委員長ストローズ(アイアンマン!のロバート・ダウニーJr)にぐいぐい追い詰められてと、観ていて息苦し過ぎ。

この息苦しさの本質は、オッペンハイマーのダメダメな造形や陰湿な人間関係ではなく、やはり人類史を変えてしまう学問というものの宿命なのだろう。繰り返される破滅の可能性は「ゼロではない」。でも誰かが知ってしまったら、もうなかったことにはできない。
オッペンハイマーは晩年、フェルミ賞を受賞するんだけど、その物理学者フェルミはフェルミパラドクス(宇宙人はなぜ人類に接触しないのか)を唱え、宇宙スケールで知性というものを考察していた。人類に、知を制御する知恵はないのか? 量子物理学を受け入れず、時代遅れともくされた偉人アインシュタイン(トム・コンティが飄々と、「神はサイコロを振らない」ですね)がその苦悩、悔恨を理解し、オッペンハイマーと共有していた、という仕掛けだけが救い。あの重要シーンが、ちょっとひんやりした屋外なのは、好みだな~

ちなみに女性たちの造形も華どころか、とにかく暗くて、妻キティのエミリー・ブラントは、アル中になったりして存在感たっぷり。不倫相手ジーンのフローレンス・ピューにいたっては圧力が強烈。将校グローブスのマット・デイモン(おっちゃんになったな)、恩師ニールス・ボーアのケネス・ブラナーだけはどんな映画でも、いいもんなのがお約束。あと、商務長官就任の公聴会で、ストローズの陰謀をばらしちゃうフェルミの助手・ヒル博士のラミ・マレック(あのフレディですね)も痛快だった。最後に一度も登場しないケネディが美味しいところをもっていくのは、ハリウッドらしいなあ。

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PERFECT DAYS

「ベルリン・天使の詩」のヴィム・ヴェンダースが監督、知人がエキストラで参加したと聞いて、劇場に足を運んだ。役所広司が東京の片隅に生きる、無口で丁寧なトイレ清掃員を好演。晴れでも雨でも、毎朝空を見上げて微笑む。孤独でワンパターンで清々しい日々を、お説教臭くなく描いて、心に染みる名作だ。1300円。
ワゴン車で聴く中古カセットはルー・リード、ザ・キンクス、ニーナ・シモン! ランチに神社の隅のベンチでサンドイッチを食べつつ、フィルムカメラで木漏れ日を録る。後悔も怒りもある。それでも自ら選びとった幸せのかたち。
脇がまた贅沢だ。気のいい同僚に柄本時生、入れ込んでいる相手に個性派アオイヤマダ、踊るホームレスに田中泯、家出してくる姪にみずみずしい中野有紗、週末に通うバーのママに石川さゆり、その元夫に三浦友和。ほかにも中古レコード屋店員が松居大悟、カメラ店主人が柴田元幸、ひとこと書評が渋い古本屋店主が犬山イヌコ、「朝日のあたる家」を伴奏するバー常連があがた森魚…
制作のきっかけは、渋谷区17か所の公共トイレを刷新する「THE TOKYO TOILET」を主導した柳井康治ファーストリテイリング取締役と電通の高崎卓馬が、ヴェンダースに短編PR動画を依頼したこととか。主人公の名「平山」をはじめ小津安二郎へのオマージュがにじむ。製作は Master Mind、スプーン、ヴェンダース・イメージズ。カンヌでは役所が日本人俳優として19年ぶり2人目の男優賞を受賞。

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怪物

カンヌで脚本賞を獲った話題作を劇場で。不穏な空気のなか、3つの視点から徐々に明らかになっていく驚きの真相。いったい誰が被害者で、誰が加害者なのか。「大豆田とわ子」などの坂元裕二による、秀逸な脚本に引き込まれます。
そしてたどり着く、切な過ぎるラストシーン。あの線路は、どこへ向かうのだろう。公開前に亡くなった坂本龍一のピアノが、こんなにも染みるとは。監督は「万引き家族」などの手練れ、是枝裕和。川村元気らの企画・プロデュースで。

舞台は諏訪湖畔の小学校。シングルマザー早織(安藤サクラ)は息子・湊(黒川想矢)の異変から、学校に教師・保利(永山瑛太)の虐待を訴え、校長(田中裕子)らの誠意ない対応に憤りを募らせていく。一方、身に覚えのない保利は、むしろ湊の依里(柊木陽太)へのいじめを疑っていたが、早織も校長らも信じてくれず、追い込まれてしまう。
そして湊の視点に転じると、すべてが違って見えてくる。冒頭の火事や、衝撃的な自動車事故にどんな切迫が隠されていたか。少年の孤独と自己嫌悪、廃線跡の秘密基地のわくわく、淡い恋。ある朝、保利と早織はようやく自分たちの「正義」の見当違いに気づき、暴風雨をついて、ふたりの行方を追うが…

なんといっても柊木の存在感が凄い。撮影時、設定(小5)通りの10才ぐらいなんだけど、もって生まれた妖しさ、これ、同級生にいじられちゃうのもわかります。そして瑛太の、観る者をいらいらさせる造形が見事だ。一生懸命なんだけど不器用で、うまく立ち回れずに歯車を狂わせていく。こういう人、いるよなあ。
ワキも高水準で、ずっと無表情でいる田中が垣間見せる、絶望の深さたるや。サックスの伏線が効いています。ほかに保利のドライな恋人に高畑充希、依里の問題のある父に中村獅童。

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BLUE GIANT

評判を聞き、石塚真一作・人気漫画のアニメ化を劇場で。ジャズの知識は皆無なんだけど、上原ひろみの音楽とピアノはさすが本物の疾走感。ほかにサックスはバークリー出身・馬場智章、ドラムはKing Gnuの前身に在籍したという石若駿。
盛り上がる演奏シーンは先に音を録って、後から絵をつけたとか。サックス奏者の息切れとか面白いけど、新海誠を観ちゃっているせいか、動きがちゃちいのは否めない。監督 は「名探偵コナン」などの立川譲、脚本は担当編集者の別名だというNUMBER 8。そもそも漫画で『ジャズを聴く」ってどんな感じなのかなあ。

知人が全編泣きっぱなしだったというストーリーは、仙台の高校生・宮本大がジャズサックス奏者を目指す成長譚。上京し、メンバーと出会ってバンド結成、最高峰ライブハウス「So Blue」への出演を果たす。クライマックス、入院中だったピアノ沢辺雪祈も加わってのアンコールは映画版オリジナルだとか。そのへんはベタなんだけど、ほかにこみいったエピソードが無く、ただまっすぐ理想を追いかける大の造形が、確かに魅力的だ。
声のキャストが贅沢で、大は山田裕貴、生意気な天才・雪祈は間宮祥太郎、人の良い努力家・ドラムの玉田俊二が岡山天音。

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イニシェリン島の精霊

演劇「イニシュマン島のビリー」、映画「スリー・ビルボード」などの曲者マーティン・マクドナーが監督・脚本。アイルランドの片田舎の島を舞台に、人と人が隔たることの残酷さを強烈にえぐり出す。拒絶されるという経験が、いかに人格を、人生を変えてしまうか。独特の意地悪さ、唐突な暴力、ブラックユーモアがまさにマクドナー節だ。劇場で。

舞台となる孤島は貧しくて、退屈で、住民は全員知り合いって感じ。でも時は1923年。おそらく1921年英愛条約に端を発した陰惨な内戦の終盤で、海を隔てた本土から銃声のようなものが聞こえてくる。今も決して終わっていない、隣人同士の殺戮というシビアな現実。
そんな遠景を考えると、物語はどこか寓話めく。主人公パードリック(コリン・ファレル)は、長年の友人でフィドルが巧いコルム(ブレンダン・グリーソン)らと、スタウトビールでうだうだするのだけが楽しみ。ところが突然、コルムが一方的に絶交を言い渡し、これ以上関わろうとするなら自分の指を切り落としていくと、常軌を逸したことを言い出して…

ファレルのさえない中年男ぶりが、情けなくも滑稽で素晴らしい。気の良い奴なのに、ブレンダンの意味不明の宣言によって激しく動転し、どんどん孤立し、闇へと落ちていく。絶対的拒否、排斥というものが引き起こす嵐。なぜこんなことになってしまうのか、誰にもわからない。少なくとも善悪では片付かない。舞台出身のグリーソンが難しい役を、淡々と知的に演じる。

島は架空なんだけど、ロケ地イニシュモア島の荒涼とした風景が全編を覆って、効果的だ。石灰岩の荒野、断崖、岩を積んだドライストーン・ウォールの農村…。タイトルは死を知らせる精霊バンシーのことで、重要なパーツは飼っているロバや犬。ザ・アイルランド! そもそも脚本は戯曲「アラン諸島三部作」の続編のアイデアなんだそうです。
主演はじめ、アイルランド出身で固めた俳優陣も充実。イノセントな隣人(個性派バリー・コーガン)の犠牲は悲しいけれど、賢くしっかり者の妹(ケリー・コンドン)は終幕で、ある決断をくだす… ディズニー傘下のサーチライト・ピクチャーズ配給。ゴールデン・グローブ最優秀作品賞受賞。

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めぐりあう時間たち

METオペラのライブビューイング鑑賞を機に、原作映画をチェック。ニコール・キッドマン、メリル・ストリープ、ジュリアン・ムーアの女優対決で、時間・場所が異なる女性3人のある一日を描く。行ったり来たり複雑なんだけど、静かな映像から、それぞれの何不自由ない日常に潜む抑圧が伝わってきて、実に文学的だ。
監督スティーブン・ダルトリーがロンドンの演劇人で、トニー賞、ローレンス・オリヴィエ賞を各2回受けていると知って納得。「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」も良かったし。キッドマンは本作でアカデミー主演女優賞を獲得しているんですねえ。

原作はピュリッツアー賞を受けたマイケル・カニンガムの小説。1923年、ロンドン郊外のリッチモンドで療養中のヴァージニア(特殊メイクのキッドマン)は、才能と理解ある夫に恵まれているけれど、死のイメージにとりつかれていて、そんな内面を投影した「ダロウェイ夫人」の着想を得る。その「ダロウェイ夫人」を愛読する1951年ロサンゼルスのごく平凡な主婦ローラ(ムーア)は、親友キティへの思いに気づいて自殺しようと、ひとりホテルへ向かう。そして2001年ニューヨーク・マンハッタンの編集者クラリッサ(ストリープ)は50年代とは違い、自立して女性パートナーと暮らし、若いころ恋人だった小説家リチャード(エド・ハリス)の世話をやいている。しかしリチャードもゲイでエイズに侵されており、受賞パーティーを前に投身自殺。知らせを聞いて現れたのは、かつて夫や息子をおいて家を出た母ローラだった…

「花を買ってくる」というキーワードが、ウルフを起点につながっていく現代女性の心情を象徴。豊かさや家族という贅沢を自覚しているのに、才能や恋心を持て余していて、違和感、虚しさを覚えちゃう。親しい人の死に直面して、自らの身代わりのように感じ、なんとか生きていく。ウルフは結局、1941年に入水自殺しちゃうんだけど。「ある一日」から1カ所だけ外れるこのシーン、オフィーリアみたいで印象的です。1日の同時進行や響きあう感じは、物理的に見せるオペラ版のほうが明確だったかな。

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スリー・ビルボード

がつんとやられました。さえない中年男女たちが必死にもがき、それぞれの心の傷をさらけ出していく。暴力と炎と下世話さが満載なんだけど、どこかペーソスが漂い、切なくて可愛い。秀逸な脚本・監督は「ビューティ・クイーン・オブ・リーナン」などのマーティン・マクドナー。「ノマドランド」のフランシス・ルイーズ・マクドーマンドが主演で、まさかの攻撃を繰り出して圧巻のはまり役だ。思い切りよすぎでしょ。録画で。

南部ミズーリの町外れに、レイプ殺人の未解決を責めたてる3枚の看板が出現。被害女性の家族、警察や町の人々に波紋を巻き起こす。人生、悪いことしてなくても悲運は起こる。それでも生きていくしかないし、どうするかは「道々考えればいい」。いやー、深いなあ。

なにしろ俳優陣が揃って一癖あって素晴らしい。問答無用で突き進む被害者母のマクドーマンドが抱える、深い後悔。責められた側の署長ウディ・ハレルソンの色気と包容力。そしてレイシスト巡査サム・ロックウェルの屈折、ダメ男ぶりが、実に味わい深い。アカデミー助演男優賞受賞もむべなるかな。「スポケーンの左手」観たいなあ。

印象的なシーンもたくさん。マクドーマンドが焼けた看板を貼り直すくだりで、軽い調子で署長を「スポンサーだもの」というところ、広告業者の意外に骨があるケイレブ・ランドリー・ジョーンズがロックウェルにオレンジジュースを差し出して、ストローを向けるところ… 秀作です。

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ブラックバード 家族が家族であるうちに

安楽死を選んだ母リリーと、最後の週末を過ごす家族の心の揺れ。録画で。
ゆったりしたタッチは好感が持てるけど、安楽死が合法化されている2014年デンマーク映画のリメイクのため、決断の尊重ありきに違和感をぬぐえない。心配な妹娘を励まして終わるあたりはまだしも、なぜか家族の集まりに混じっている長年の親友の存在は、よくわからんなあ。

キャストは高水準。母スーザン・サランドンの気の強さがマリファナを持ち出したりして、ウッドストック世代らしい。季節外れのクリスマスディナーを提案し、ドレスで着飾る姿も格好良いし。優等生の姉娘ケイト・ウィンスレットは普通の叔母さんで、オーラを完全に消しててびっくり。オスカー女優の初共演だそうです。不安定な妹娘ミア・ワシコウスカ、髭が男前の父サム・ニールも魅力的。
静謐な物語にぴったりの人里離れた海辺に建つお洒落な家、温室のある庭、荒涼とした風景が素晴らしい。米コネチカットの設定だけど、ウィンスレットの提案で自宅があるイギリスのチチェスターで撮影したそうです。2021年に亡くなったイギリスのロジャー・ミッシェルが監督。

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ドライブ・マイ・カー

「スパイの妻」脚本の浜口竜介が監督し、カンヌ脚本賞のほか、アカデミー4部門ノミネートで国際長編映画賞をとった話題作。いかにも村上春樹っぽいエピソードのつらなりで、孤独な現代人たちに、「大事な人には、思いを口にした方がいいよ」としみじみ語りかける。録画で。

物語としては、舞台演出家の家福(西島秀俊が理性的すぎる男を淡々と)が地方都市の演劇祭で多言語劇を演出する過程で、2年前に死んだ妻・音(霧島れいかが色っぽく)が抱えていた深い闇や、自らの悔恨に向き合っていく。淡々とした3時間だけど、妻の浮気相手だった俳優で、暴力沙汰を起こしちゃう高槻耕史(岡田将生が危うく)、送迎を担当する腕の良いドライバーで、虐待の過去を持つ渡利みさき(ただ者じゃない感じの三浦透子)に存在感があって、退屈はしない。

家福がみさきを信頼するのは、大切にしている赤の「サーブ900ターボ」を滑らかに運転するから、妻は運転が下手だったけど、という設定が、感覚的で面白い。
また、上演する「ワーニャ伯父さん」が戯曲としていかに大きな存在か、が興味深かった。なにしろ着地点がそのラストシーン「仕方がないわ、生きていかなければ!」だし、「チェーホフの戯曲は自分を差し出すことを要求する」といった言及も。そうかあ。
上演方法はなんだか不思議。最初ひたすら戯曲を棒読みするし、俳優がばらばらの母国語でしゃべって、手話まであるし。確かにコミュニケーションというテーマに直結するんだけど。公園での立ち稽古で、台湾出身の可愛いソニア・ユアン、韓国手話を使うパク・ユリムに「何かが起きる」シーンが巧い。

ラストシーンの解釈はいろいろあるらしく、ちょっと消化不良… ま、明るいからいいか。

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ベルファスト

状況に翻弄された庶民の思いを、切なく描く名作。シェイクスピア俳優ケネス・ブラナーが自らの少年時代をベースに監督し、アカデミー脚本賞を獲得した。吉祥寺の映画館で。

舞台は1969年、ベルファストのプロテスタント住民が多い地域。冒頭、カトリック住民への激しい襲撃シーンに、ガツンとやられる。雨の多い町は全編モノクロ。バリケードで分断され、緊張を強いられる毎日。
でも愛すべきやんちゃ坊主、9才で前歯に隙間があるバディ(ジュード・ヒル)の日常は、実にみずみずしい。初恋の少女の隣に座るため、テストで頑張って仲良くなる。クリスマスにサンダーバードの衣装をもらって大はしゃぎ。家族で観に行った映画「チキチキ・バンバン」は、そこだけ夢のように鮮やかなカラーで、名優の基盤を思わせる(テレビでは真昼の決闘やスタートレックも。ほかにもサブカルの小ネタが満載)。なにより周囲には、何かといえば道ばたに座り込んでおしゃべりする、貧しくもおせっかいなコミュニティがあった。
だからこそ、大切なものをすべて置いて、故郷を去る選択が痛ましい。古くはユダヤ、近くは香港やウクライナ。世界はなぜこうも残酷であり続けるのか。

ともにモデル出身というパーとマー(ジェイミー・ドーナン、カトリーナ・バルフ)が、ミュージカル俳優さながらで格好良い。特にマーが暴動のさなか、バディが盗った洗剤を返しに行くシーンの決然! そしてバディが「なぜ洗剤?」と問われ「環境に優しいから」と答える脱力との落差がいい。
アイルランド気質というべきか、はしばしのジョークも強靱だ。アルスター・フライを作りながら「コレステロール値でも一番はなにより」、「アイルランド人のおかげで世界中にパブがある」「生きるのに必要なのは電話とギネスとダニー・ボーイ」と言って、酔った叔母が熱唱するシーンの哀切。
なかでも元炭鉱夫のグランパ(キアラン・ハインズ)の人生哲学がいちいち滋味深く、いわく「算数のテストでは読みにくい数字を書け」。そんなおじいちゃんを愛し続けたグランマ(名女優ジュディ・デンチ)がアップになる、力強いラストシーンに泣ける。映像は細部まで丁寧で、ヴァン・モリソンの音楽もお洒落。

北アイルランド紛争は1972年血の日曜日を経て、1998年ベルファスト合意に至るものの、英国のEU離脱でまた不穏になっている。温かくて、やがて重い珠玉の1本だ。

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